第3話

「確かに彼には少し刺激が強過ぎたかもしれんな」

 連隊長は広い執務机に乗ったノートパソコンから視線を上げて休めの姿勢でいる広瀬を見やる。

「ともあれ、小隊が彼に救われたのは事実ですが……」

「何だね?」

「初陣がこれでは先が思いやられます」

 連隊長は静かに笑った。

「一カ月という制約を与えたのは私だ。完璧など求めてはおらんよ。それに、このぐらいの反応を示してくれた方が人間として正常な証拠だ」

「ですが……」

「君にだって戦闘処女を散らした日はあるだろう?」

「ありますが、彼のようには取り乱しませんでした」

「嘘を吐け」

 連隊長に言われ、真顔だった広瀬の顔が弱ったなと言わんばかりに弛む。

「石神と伊達で、憂さ晴らしにばか騒ぎをしたろう。○四三二まるよんさんふた時、今でも憶えてるぞ。警察から電話があった時間だ」

「……よく……憶えてお出でですな」

 気恥しさと若干の懐かしさが、広瀬の声を弾ませる。

「だから、君は初陣について他人をとやかく言える立場にはない訳だ。まぁ、任務中とは言え、誰だって人を殺して冷静で居られるはずがない」

「その点、佐伯二曹は良くフォローしています。しばらく引きずるでしょうが深刻なPTSDの心配は無いでしょう」

「それなら結構。それで、彼らは今どうしてる?」

「さっそく比較的軽い任務を与えました。まぁ、メンタルケアの一環ですな」

 連隊長は満足げに頷く。

 ショック状態の新兵に必要なのは心を許せる戦友と、更なる任務だ。

「よろしい。今回の攻撃は恐らく威力偵察だ。それを全滅させたことで、帝国は本格的に我々を敵と認識したはずだ」

 息を継ぐように言葉を切り、連隊長はわずかに視線を伏せる。

「正直なところ、あの少年にいつまでも落ち込んでいられては困るのだ」


「それじゃあ、準備は良い?」

「ああ」

「ハンカチ持った? ちり紙持った?」

「それはいいよ……」

「財布は? 中身入ってる? ちゃんと」

 そのつもりだが、言われると何となく不安になりポケットから財布を取り出して確認する。

 中には見た事のないお金が入っている。内訳は額面十えんの紙幣が五枚に、銭や厘の硬貨がいくつか。

「十圓で、大体こっちの一万円だと思って」

「わかった」

 もちろんこれは自分の財布ではない。DOORから今回の作戦の為に貸与されているものだ。

「一応仕事だけど、普通に出かけた時と同じように使って構わないから」

「う、うん」

 今回の任務は並行世界に侵入しての情報収集。つまりスパイ活動だ。

 少なくとも彰はそう認識していた。

 だから、まるでピクニック気分の彼女の様子に違和感を覚えざるを得ない。

 服装も戦闘服や制服ではなく、グリーンのワンピースにスカーフとグローブをつけ、頭をすっぽりと覆う帽子をかぶっている。

 まるで大正のモダンガールの出で立ちだ。

「それと、あっちの世界ではキミは帝都見物に来たアタシの甥っ子って事だから、上手く話し合わせてね。あと、学校を聞かれたら、大陸の中学校って答えれば良いから」

 あまりにも簡単で一方的な口裏合わせ。正直不安になる。

 そんな不安を見透かしたように、佐伯が乱暴に学帽をかぶせる。

「カバーストーリーなんてそんなもんで良いの。今回はそんなにシリアスな任務じゃないから……」

 彼女はそう言いながら、少し言葉を考え。

「デートだと思えば良いよ」

「わかっ……えぇ!?」

 任務を前に張り詰めていた糸が一気に切れる。

「イヤかな? アタシはキミとだったらデートしても良いと思ってるんだけど」

「か、からかわないでくれよ……」

 どうやって応じて良いかわからず、彰は拗ねたように唇を尖らせる。

 なんだか顔が熱い。

「うふふっ、そのくらいの緊張の方がらしくて良いね。さっきはまるでカチコミかける鉄砲玉みたいな目をしてたもん」

 佐伯は笑った口元を隠すようにグローブで覆った細い指を唇に寄せる。

 仕草だけを見れば、華族のお嬢様に見えなくもない。

「それじゃ、行こっか」

 一しきり笑った佐伯が告げる。彰は頷いて詰襟の下から鍵を取り出す。

 彼女に笑われて、確かに緊張がほぐれたような気がする。きっとあのままだったら声が震えていただろう。

「エンコード」

 彰はしっかりとした声で宣言し、扉をくぐった。


 ノックの音に葉月は手を止める。

「なんだ?」

「私よ」

 声をともに現れたのは皐月だ。いつものように軍衣の上から白衣を羽織っている。

 葉月は彼女の手にした書類封筒に目を止めた。中身は恐らく先日の報告書だ。

 あまり見たいものではない。

「これから、どこかに出かけるの?」

 そんな葉月の気配を察したのか、皐月は持っていた封筒をさりげなく背中に隠す。

 だとしても報告書を置いて行く事に変わりは無い。そして、部下が彼女の命令によって無為に散らされた事実も変わらない。

「あ、ああ……豆が切れたのでな、買いに行こうと思っていた所だ」

 コート掛けの軍帽をそそくさと被り、立て掛けてる軍刀を略刀帯の茄子環に留める。

「……そんなもの、当番兵にでも買いに行かせればいいのに」

 彼女の言う事はもっともだ。

半ば特例としても将校は将校。しかも帝国存続の尖兵とされる部隊を指揮しているのだ。

 立場的にも保安上からも出歩くのはあまり良いことではない。

「ちょっと注文が面倒でな、わかってない者に任せたくないんだ」

 嘘だ。大して注文なんかない。

 目を合わせられず、葉月は軍帽の庇を少し下げる。

「直ぐに戻る。話はその時改めて聞こう」

「姉さん――」

 呼び止める皐月の声を背中で聞きながら、葉月は後ろ手にドアを閉めて一方的に会話を終わらせた。

 部屋を出た葉月は兵営前の停車場から都電に乗って繁華街へ向かう。

 これではまるで妹を避けているようだ。

 葉月は内心で小さく溜息を吐く。

 彼女の事が嫌いなのではない。それどころか唯一の肉親として惜しみない愛を捧げてきたつもりだ。

 とはいえ、この仕事に就いてからの彼女は異常だ。この次元遠征実験隊の設立も彼女の発案によると聞いている。

 葉月には彼女の真意がわからなかった。帝国存続の危機などと言うお題目を使ってまで、彼女は近似世界に何を求めているのだろうか。しかも、既に戦車大隊が新設出来るほどの予算を投じている。

 葉月にはそうまでして近似世界に拘る理由が思いつかない。皐月もその思惑を打ち明けてはくれない。

 ただ、時折助けを求めるのに似た、縋るような視線を向けてくるだけだ。

 姉として、部下として、彼女にどう振る舞えば良いのかわからなくて、いつもこうやって逃げ出している自分が何となく情けなかった。


「今日誘ったのはね、いざという時逃げられるようになってもらう為なんだよ」

「逃げるって?」

「帝都の何ヶ所かに緊急時の集合ポイントがあるの。救出部隊はそこを目安に来るから絶対に覚えておいて。まぁ、キミの場合はその気になれば鍵でどこからでも帰れるんだろうけど、一応ね」

「わかった」

 ブロックを丁寧に並べて舗装された歩道を歩きながら、彰は頷いた。

 広い車道の中央を路面電車が行き交い、自動車はどちらかと言えば遠慮気味に走っている。

 車道の両岸に並ぶ建物やショーウィンドウは現代的だが、そこかしこにルネサンス調やバロック調の面影が感じられ、町並みはどこかヨーロッパ的な印象を強く受ける。しかし、高い建物には軒並み日本風の屋根瓦が乗っているのがずいぶんちぐはぐに見えた。

「帝都の感想は?」

 きょろきょろしていると、ちょうど顔を覗き込んだ佐伯と目が合う。

「なんて言うのかな……レトロな現代?」

 佐伯はくすくすと笑う。

「わかるよその気分。実はアタシこの街並結構好きなんだよね。ただ、ファッションやデザインがちょっと保守的なのが残念だけど」

「うん。でも、すごく普通なんだな。侵略なんて言うからもっと酷い所かと思った」

「ディメンジョンエンコードが出来るだけでも十分文明的な証拠だからね」

「それなら侵略なんて……」

 佐伯は緩く首を振る。

「侵略自体よりも、それが出来るほど大きな扉を開けられた時、お互いの世界がどうなっちゃうかわからないから大変なんだよ。だから、こっちの世界の情報を持ち帰らせないし、あちらのディメンジョンエンコードに必要な機器を破壊する。本格的な攻撃になる前にその意図を挫く」

「それがDOORの任務」

「そういう事。ま、ディメンジョンエンコードが出来るんだから、その危険性や不確定要素についてわかってないはずは無いんだけど……」

 何か言葉を繋ぎかけて、止める。

「……それを考えるのはアタシ達の仕事じゃない、か。それじゃあ、最初の集合ポイントに行こっか。アタシから離れちゃダメだよ?」

「ちょっと待――うわっ」

 佐伯が彰の手を引いた矢先。何かに躓いてバランスを崩す。

 何とか転ばずには済んだが、今度はいきなり胸倉を掴まれる。

「おいこら」

 低い、丸太のように無遠慮な声。

 佐伯の顔色が変わる。

「あ、ごめんなさい。ちょっとよそ見してたもので……ホラ、キミも謝んなさい」

 頬の筋肉をわずかに引きつらせながら佐伯が頭を下げる。

「女侍らせて帝都見物とは言い身分じゃないか青書生」

 声の主は彰とそう変わらない服装をしていた。だが、歳は大分上だ。それが三人自分たちを取り囲んでいる。

 彼らの着ている制服には肩に金の飾りが付き、腰からは銀色の輝く鞘が見える。

「え、何? 兵隊?」

 半分吊り上げられたまま佐伯の方を見る。するとまた例の遠慮のない声が降ってくる。

「貴様どこの田舎モンだ? 東京警視庁に決まってるだろ。東京の治安を守る我々を貴様は足蹴にしたんだぞ。何か言う事があるんじゃないのか。え?」

 彰はようやく自分が因縁を付けられている事に気がついた。

「……け、警官、だろ。あんた……」

 制服警官とは交番の前で暇そうに立っているくらいで、こんなあからさまな因縁をつけてくる人種では決してないはずだ。

「以後、気をつけますので、どうか……」

 佐伯はしきりに頭を下げている。その姿を見ているとなんだか自分が情けなくなってきた。そして、同時に佐伯がどうしてこんなに下手に出ているのかわからなくなってきた。

 彼女ならこんな奴らどうとでも出来るだろうに。

 何だったら、自分がやっても良い。

 見た所警官たちは拳銃を持っていない。ならこっちが一発威嚇射撃でもしてやれば……

 彰はゆっくりと手を背中へと動かす。

「それが帝都の治安を預かる者の態度か!?」

 鋭い声が響く。遠巻きに見ていた野次馬の視線が一点に集中する。

 褐色の詰襟に磨かれた長靴。鈍く光るアルミの鞘から伸びる柄は武骨な日本刀の拵え。

 目深にかぶった軍帽の庇からは精緻な細工を施した黒曜石の様な瞳が光り。端整な顔立ちと長い艶やかな黒髪が見るものにその持ち主の高潔さをしらしめていた。

「貴様、官姓名を名乗れ」

 歳は彰と同じぐらいだろうか。しかし、低く抑えた声は外見に違わぬ威厳を感じる。

 警官は一瞬表情をこわばらせる。だが、彼女の姿を認めるとすぐに勢いを取り戻す。

「なんだ貴様」

「帝国陸軍の館山葉月だ。貴様の態度は帝都臣民の生活を守る警察官として不適切だと思い、声をかけさせて貰った」

「それはそれはご立派ですな。ですが我々にも面子がありますので」

 彼の言葉からは、あからさまな侮りが見て取れた。だが、別の一人が何かに気付いて耳打ちする。

「あの娘、将校だぞ。中尉だ」

「どうせどこぞの御嬢さんのお遊びだ。知った事か」

「莫迦、良く見ろ。剣術徽章に徒手格闘徽章もつけてる……本物だぞ」

 そんなやり取りを見透かすように、葉月と名乗った少女は一喝する。

「書生を締め上げる事しか出来ずに何が面子か!」

「小娘だと思ってれば良い気になりやがって……」

 警官は彰から手を離し、サーベルに手をかける。

「抜くかっ、天下の往来で小娘相手に刀を抜くか!? 貴様の面子もたかが知れるな」

「ぬかせ小娘!」

 警官が叫ぶ。脅しのつもりだと高を括っていた他の二人が慌てて止めようとした刹那。

 ブロックに茶色い炒り豆が散らばり、それを包んでいたらしい新聞紙がかさかさと微かな音を立てる。

「……莫迦莫迦しい。御止めだ」

 伸びていた右手をゆっくりと戻し、彼女は両手を軽く上げる。

 警官たちは毒気を抜かれたように葉月を見る。ただ、サーベルに手をかけた警官だけは少し青い顔をしていた。

「わ、わかれば良い」

 襟を正しながらそれだけ言うと警官は踵を返し、他の二人もそれに続く。

 彰はその背中をどこか物足りない思いで見送る。野次馬たちも同じ気持ちらしく、降参した館山に不満そうな視線を向けて三々五々散って行く。

 正直な話、大立ち回りでも見れるのかと思った。そうしたら、銃を使わないまでも何か手伝ってやろう、くらいの事を実は考えていた。

 だから、さっさと彼女に降参されてしまうのは少しつまらなかった。

 佐伯を振り返ると感心しているような、呆然としているような、何とも言えない眼で葉月の事をじっと見つめていた。

「……凛さん。どうかした?」

「あ、ゴメンっ、何でも無いの。そうだ、お礼言わなくちゃね」

 慌てたようにそう言って、その場を去ろうとする葉月に礼を言いに行く。

 葉月の堂々とした態度に比べると、どうしてもその仕草は子供っぽく見えた。


「助けてもらったのにこんな事は困ります」

「横槍を入れたのは私だ。それに豆まで弁償してもらった。茶の一杯も馳走させてくれ」

 葉月はそう言って、渋る佐伯を席に促す。

「……それじゃあ」

 佐伯が座り、隣に彰も腰を下ろす。

 黒光りするほどの年季と手入れの入ったテーブルと羅紗の張られた椅子。

 店内に客の姿はほとんど無く、柱時計だけが静かに針を動かしている。

 店の看板には月曜亭とあった。

 最後に葉月が腰を下ろし、軍帽を脱ぐ。

 その洗練された仕草を通りに面した大きな窓から入る優しい日差しのフィルター越しに見ると、まるで一服の絵画を見せつけられている気分になる。

「君、帽子を取らないのか?」

「え? ああ、はい」

 見とれていた彰が慌てて帽子を取ると葉月はくすくすと笑う。

「緊張しているようだな。不良羅卒に反撃しようなんて度胸はあるのに」

「そんな馬鹿な事しようとしてたの?」

 佐伯が目を丸くする。

「だから、僭越ながら止めさせて貰った。それとも、無用な手出しだったかな?」

「いえっ、そんな事はありません。本当に助かりました……館山さん」

 佐伯が心底ほっとしたように言う。しかし、葉月の表情が一瞬曇る。

「……まぁ、礼には及ばない。こうして皆無事に解放された訳だしな。だが、戸館君。君はどうしてまた羅卒に喰ってかかるような真似をしたんだ? 普通の書生なら平謝りしていそうなものだが」

「いや……その……」

 彰は答えられなかった。

 まさか、銃を持っているなどとは言えない。

 彼はようやく佐伯があの場でただ謝っていた理由を悟った。そして、力とは存外使えないものなのだと知った。

「大方、婦人の手前少し粋がってみたかったのだろ」

「馬鹿ねぇ、だからって警官に突っかかってもしょうがないじゃない」

 佐伯が呆れたように言う。

 一瞬の目配せ。

 話を合わせろと言っているのだろうが、生憎彰にそんな余裕は無い。完全な言いがかりをつけられたのだ、それなりに腹も立っている。

「だって、あれはあっちが足を引っかけたんだ」

「まぁ、納得できないのはわかるが、そんな事で腹を立てていたら往来など歩けん。君、帝都は初めてか?」

「そうだけど」

 葉月の視線から微かに田舎者という空気を感じた彰は、少しだけぶっきらぼうに応じる。

「それなら羅卒には気を付ける事だな。制服を傍若無人の免許状と勘違いしている輩も多い。それに今、羅卒などは気が立っているだろうしな」

 彼女がさめざめと言う。

「帝都で何か起きてるんですか?」

 佐伯がわずかに身を乗り出す。葉月はゆっくりと頷く。

「うん。あまり表だって報道はされていないようだが、実は人攫いが出るらしい。あの様子では天下の東京警視庁も足取りをほとんど掴めていないようだな」

「……だから、下っ端の羅卒にお鉢が回って、みんな気が立ってる、と」

「まぁ、そういう事だな。君たちもあまり夜遊びはしない事だ」

 葉月はそれほど心配した風でもなく言い、女給が持ってきたメニューを二人に差し出す。

「好きなものを頼んでくれ」

「それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 佐伯がメニューを開く。彰はそれを横から覗き見る。

「中尉さんがお客さんを連れてるなんて珍しい事もありますのね」

 女給の声に葉月が薄く笑う。

「成り行きだ。それに常連として少しは月曜亭に貢献しないとな。潰れられては困る」

「まぁ、酷い言い方です事」

「いや、冗談ではない。ここは、兵営の者には知らせていない私の隠れ家だからな。実際潰れては困るのだ」

「そんな簡単に潰れませんわ。お客様は中尉さんだけではありませんのよ……中尉さんはいつものでよろしいですね?」

「ああ。二人はどうだ?」

「じゃあ、アタシはレモンスカッシュ」

「アイスカフェ」

「かしこまりました」

 メニューを持って女給が引き下がる。

「良く来られるんですか?」

「んー、まあな」

 佐伯の問いに葉月が頷く。

「良かったんですか? せっかくの隠れ家に……」

「理由はさっき女給に言ったとおりだ。さらに理由を求めるのなら、戸館君の蛮勇に敬意を表してのご招待、と言ったところか」

 もしかしなくても、からかわれている事ぐらいわかる。

 結果は惨憺たる有様だったが、決して蛮勇のつもりは無い。充分に勝算はあった。

 そんな事を考えていると葉月がくすくすと笑う。

「そんな顔をするな。これでも褒めているんだ。見栄や伊達で羅卒に喰ってかかれるだけの馬鹿正直さ、私は嫌いではない」

「……やっぱり馬鹿にされている気がする」

「アタシもキミのそういう所、割と買ってるんだよ? だけど、時と場合は良く見てほしいな」

 何か含みのある言葉のように感じられた。佐伯が言葉にどんな意味を込めたのかまではわからない。

「見ていて危なっかしい事この上ないだろうな。恋人としては」

 葉月の言葉に一瞬凍りつく。

 なんて答えるべきか。この話に乗るべきなのか、乗ったとしてどう反応すれば良いのか。

 そもそも自分が勝手に答えて良いものか。

 脳裏をあらゆる思考が飛び交う。飛び交うばかりで一向に掴めない。掴まなければ言葉に出来ない。

「恋人なんかじゃありませんよ。彼はアタシの甥っ子なんです」

 佐伯はあっさりと否定する。事前にそのように決めてあった事を彰はようやく思い出す。

 だが、何となく残念なような悔しいような。不思議な気分だった。

「そうか……半分身内のようなものか」

 対して葉月は、ふーんと頷きながら意外そうに細い声を出す。

「それが、なにか?」

「いや、何でもない」

 佐伯と葉月。絡み合った二人の視線が一瞬、鋭い刃の剣戟のように見えた。

「さて」

 ずいぶんと長く感じる一瞬の沈黙を、葉月が破る。

「私はそろそろ仕事に戻る」

「お仕事中でしたか。引きとめてしまったみたいですみません」

「いや、誘ったのは私だからな。払いは私に付けてかまわないから、二人ともゆっくりして行ってくれ」

 さっきの感覚が何かの勘違いだったのではないかと思えるほどに二人のやりとりは自然だった。

 もしかすると、本当に勘違いだったのかも知れない。

 彰がそう思いかけた矢先。

「君は、暫く帝都にいるつもりか?」

「あ、うん」

 反射的に答えてしまった。ちらと佐伯の気配を伺うが彼女は素知らぬ顔でレモンスカッシュを飲んでいた。

 それでも何となく嫌な気配を感じる。

「……そうか。では、月曜亭にも顔を出してくれ。またゆっくり話でもしよう」

「近くに来たらそうするよ」

「それじゃあ、帝都を楽しんでくれ給え」

 彰の相槌に小さく、満足げに頷くと葉月は店を後にする。

「はー……」

 隣から、小さな嘆息の音がした。

「焦ったー、びっくりしたー……」

 店員の注意を惹かない程度に声を漏らす。

「思ったより好い人だったんじゃない?」

 彼女とは対照的に、彰は自分が変に落ち着いている事に気付く。

「君、もしかしたらこういうの向いてるかもね……さりげなくデートの約束まで取り付けちゃうし」

「デート?」

「またそうやってとぼける……アタシの時はあんなに嫌がったのにさ」

 そう言って拗ねたように唇を尖らせる。

「だ、だって、あれは……」

 そう改めて問い詰められると、上手く言葉に出来なかった。

 ただ、何となく彼女の言葉に乗りたくなってしまった。そして、そうしても良いような気分でいた。

 なぜなのか、自分でもよくわからない。

「もし会うつもりなら、あの中尉さんは気を付けた方が良いよ」

「……わかってる。だもんな」

 佐伯の真面目な声に、彰は小さく頷く。だが、彼女は緩く首を振る。

「そうじゃなくて。あの人が警官を止める時。気づかなかった?」

 何のことだろうか。先を目で促す。

「警官がサーベルを抜く直前に、手で柄を抑えてたんだよ。それに割って入るタイミングも完璧だった……」

「それじゃあ、彼女もグルだったって事?」

 佐伯が頭を抱えて小さく呻く。

「もー、何でそういう結論かなぁ……」

「だって、タイミングが完璧って……打ち合わせでもしてたんじゃないのか?」

「なんの為によ」

「それは……」

「でしょ? だから、そうじゃなくてね。あの人すごく戦う事に慣れてるし、センスもあるんだと思う。将校って言うより戦士だよ、あの人。だからあんまり不用意な事はしない方がいいと思う」

「不用意って?」

「無理やりキスしたり抱きついたり……」

 真面目な表情が一瞬にしてふやける。

「んなことするわけないだろ!」

 店員がびっくりして奥から顔を出す。佐伯はそれに手を振って軽くあしらいながら続ける。

「まぁ、それは冗談としても。ある意味、君より大人だと思うよ? だから同年代の娘と付き合うつもりでいると恥をかくかもね」

「……止めないんだな」

「もし、敵だからとか、そういう理由を考えてるんだとしたらそれは間違いだよ?」

「え?」

「キミも見たでしょ? この世界にだってちゃんと生活があるし、たくさんの人が普通に暮らしてる。アタシ達が戦うのはあくまで世界を守る為、相手を憎んで滅ぼす為じゃないの」

 彰は彼女がこの世界の街並みを好きだと言っていた事を思い出した。そして、決してこの世界を悪く言わなかった事も。

「確かにこの国は拡大志向が強くて結構強引な手を使ってくる。だから、どうしても戦闘は起るしその中で誰かを傷つける事もある。けれど、それは全部お互いの世界を守るためなんだよ。守る相手を普通、敵なんて呼んだりしないでしょ?」

 そこまで言うと彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「実は、今日はキミを連れ出したのはね。キミにこの世界を嫌って欲しくないからって理由もあったんだよ」

「え?」

「この間の事、引きずってるみたいだったからさ」

「……」

 あの時の事と言えば一つしかない。初めての実戦の事だ。

 そうならないように意識しても表情はどうしても暗くなってしまう。

「相手を憎んで、正当化するのも方法の一つなんだけれど。それだと、なんて言うのかな……悲しいじゃない」

 言葉とは裏腹にあっけらかんとした調子で言う。

「だからさ、君が守るもう一つの世界を見せてあげようと思ったわけ。これは広瀬三尉の発案でもあるし、たぶん連隊長も承知してる事だよ」

「……みんな知ってるんだな」

 彰は何となく憂鬱な気持ちになる。彼女の言うとおり、みんな敵だと思って自分のしたことを正当化しようとしていた。

 その事を彼女はおろか、広瀬も知っていたとなると、何だか掌の上で踊る道化の気分にさせられる。

「うん、みんな知ってるよ。どれだけ辛いことか……みんな経験してるし、それでダメになっちゃう人もいるから……キミにはそうなってほしくないんだよ」

 その言葉に彰は言葉以上の何かを感じた気がして視線を上げる。

「けど、公私混同は、お姉さんあんまりよくないと思うな」

 そこには普段通りのどこか幼い印象の抜けない、いたずらっぽい笑顔があった。だが、彰にはその表情がどうしようもなく大人っぽいものに見えた。


 執務室に戻った葉月は手にした包みを解き、机の脇に置いた漆器の茶菓子入れに炒り豆を移して蓋をする。

 これで三日は持つだろう、そんな事を考えながら腰を下ろす。

 整頓された机の中央に置かれた厚みのある書類封筒は否応なしの存在感を放っていた。あの後、皐月は置いて行ったのだろう。

 葉月は封筒を開く。

 中には顔写真付きの書類が数十枚入っていた。

 戦死報告書だとしたら、これをもとに家族へ手紙を書かなければならない。陸軍省の発行する死亡通知に直属の上官がの状況を記した手紙を添えるのが、前大戦以来続く帝国陸軍の慣習だ。

 だが、非公然の特殊任務中の戦死だ。事実を書く事は出来ない。

 遺された家族への恩給も戦死より等級の低いものが適用されるはずだ。しかも、遺体すら遺族の元へ帰す事が出来ない。こうした仕事も将校の務めだと解ってはいるが、どうしても割り切る事が出来なかった。

 妹の所為で彼らは死に、その最期を正確に伝えられる権利すら奪われたのだと考えずにはいられなかった。

 彼女は書類を机の上に並べる。あれほど信頼していた部下達なのに、こうして並べて見てもどれ一つとして記憶に残っていないのが悲しかった。

 一人の死は悲劇だが大勢の死は数字でしかないなどという、わかったような警句を自分が体現していると思うと情けなかった。

 忠雄を併せ持つ誉れ高い精兵である彼らを指揮する事に軍人として、何より一人の人間として誇りに思っていたのではなかったのか。

 先日の損害は二個小隊。人数にすれば六十名近い。彼女は中隊長として三個小隊を率いている。その構成員全ての顔と名前を把握するのは無理とは言わないが難しい事だ。だが、一つも見覚えが無いと言うのはおかしい。

 感傷で鈍りかけた理性が息を吹き返す。

 葉月はもう一度書類を見渡す。

「……なんだ、これは」

 葉月は書類をひったくるように掴み、部屋を後にした。

 ノックもそこそこに扉を開け、図面とも計画書ともつかない大判の書類を壁一面に張り付けてある執務室に踏み込む。

「姉さん。どうしたの?」

 レンズの奥に困惑した表情を浮かべた皐月が応じる。

「この書類は、どういう事だ?」

 葉月は怒鳴りつけそうになるのを寸前のところでこらえる。

「どうって、補充兵の名簿よ。数字の上では皆優秀だけど指揮官として何か見るべきところがあるかと思って渡したんだけれど」

「戦死報告よりも先にか?」

「それはこっちでやったわ」

 困惑の表情がいつの間にかきょとんとした顔に変わっていた。

 今度困惑するのは葉月の方だった。

「……それじゃあ、戦死通知に何と書いたんだ? それに、あれは直属の上官が自らの手で書くのが慣習のはずだが」

「それは……そんな事で、姉さんの手を煩わせる事は無いと思ったのよ」

 一瞬、言い淀んだかに見えた。だが、葉月はそうと気付かなかった。彼女の思考は全く別の方に向いていた。

 感情的に反論する事ならいくらでも出来る。だが、果たしてそうしても良いのか、と。

「私には戦闘部隊を指揮した経験は無いけれど、姉さんが部下を大事に思ってた事くらいはわかるわ」

 逡巡した葉月にたたみかけるように皐月はゆっくりと言葉を紡いでいく。

「今回の件で姉さんは、部下を見殺しにしてしまったと、そう思っているんでしょう? それで、贖罪のつもりで六十名分の戦死通知を書こうとした。だから、戦死報告よりも先に補充兵の名簿を持って来られて腹に据えかねた」

 胸がずきりと痛んだ。相手が妹でなければ激昂していたかもしれない。それほどまでに彼女の言は的を射ていた。

「お見通しか……」

 葉月は静かに呟き、肩を落とす。妹が相手だからこそ的確すぎる指摘も素直に受け止める事が出来た。

「姉さん、優しいものね。それでいて根っからの武人気質(かたぎ)。部下と一緒に先陣を切れないのが辛いんでしょうけれど、わかって……」

 例の眼でこう言われてしまっては葉月はもう頷くよりほかは無い。

「わかっている。わかっては、いるんだ……少し、神経質になっていたようだ」

 溜息とともに漏らした言葉には、少なからず憂いのようなものが含まれていた。

「私は、姉さんを失いたくない。階級だとか、立場とかに関係なく、それだけは心から言える本当の事よ」

「……わかっている」

 死んだ兵も誰かにとって掛け替えの無い一人だったはずだ、という言葉も皐月の眼を見てしまうと自然に心の奥深くに沈んで行った。

「とにかく……邪魔をした」

「ううん、私も久しぶりにちゃんと姉さんと話せてよかった」

「そうか」

 踵を返し、葉月は退室する。

 残された皐月は靴音の遠ざかるのを待って小さく溜息を吐く。

 先の言葉、確かに嘘は無い。だが、それは妹として姉へ向けたものにすぎない。

 上官として葉月を見た時、彼女の言動に甘さを感じずにはいられない。

 そもそも兵とは死ぬものなのだ。彼らだってその事は充分に承知して任務に就いている。そこに感傷の入り込む余地などありはしない。

 だが、彼女は感傷を持ち込んでしまう。

 科学者や軍人といった種類の人間は、砲弾のように真摯であるべきなのだ。

 ただ、自らに課せられた責務に対し、持てるすべての力でもって突き進んでいく。

 もっとも硬く、重い弾殻を使い、もっとも高い圧力で撃ち出され、そうして得られた全てのエネルギーを貫通の為だけに使う。

 砲弾は後に残した砲が壊れようと一顧だにしないし、外れた砲弾を憐れんだりもしない。そこに強固な困難があるからこそ、砲弾には貫き破壊する使命が与えられ、それに応じるのだ。

 その結果、貫徹に至らなくても良い。外れさえしなければ砲弾は確実に穴を穿つ。

 衝突のエネルギーは少しづつでも確実に内部を破壊する。次の一発が貫通すれば良いのだ。次の一発が内部を破壊すれば良いのだ。そして、誰もが我こそ次の一発であろうとひたすらに突き進む。

 それこそが、戦争であり科学の発展。つまり、文明の有様なのだ。美しく研ぎ上げられた刀にそんな芸当は出来ない。

 刀は硬い物にぶち当たれば曲がってしまう。そして、曲がった刀は、二度と使いものにはならない。

 美術品としては美しくても、それでは兵器とは言えない。

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