第2話


 DOOR、正式名称を時空噴出阻止連隊Dimension Overflow Opposing Regimentという。連隊の看板をあげているが自衛隊の部隊ではなく、防衛省直轄の、電話帳に決して名前の載る事が無い外郭団体。

 この世界の独立を守るため、交差する並行世界の接点を塞ぐのが主な仕事。

 彰は受けたレクチャーを頭の中で要約しながら佐伯の後を追っていた。

「昨日の今日だからね。まだ全然わからないとは思うけど、今日から訓練に参加してもらうから」

「訓練?」

 彰は反射的に問い返す。

 ずば抜けて運動神経が良い訳では無いが、それほど鈍臭いつもりもなかった。だが、流の訓練がどんなものかまったく想像できない。

「そんな顔しなくても大丈夫よ」

 佐伯がくすくすと笑う。自分がどんな表情をしていたのかあまり自覚が無い。

 だが、訓練と聞いて真っ先に思い浮かんだのが、昔映画で見たやたらに怒鳴り散らすめちゃくちゃに口の悪い軍曹の姿だった。

「DOORの任務は基本的に短時間だからね。キミが想像してるような訓練はあんまりしないよ。それにキミが戦闘に参加する訳でもないからね」

「じゃあ、なんのための訓練?」

「最低限身を守るための訓練。あとは、度胸付け」

「度胸?」

「うん。鍵はこっちの世界とあっちの世界を繋ぐ唯一のものだからね。いざという時動けないようじゃ、アタシ達も困るから」

 口調はごく軽かった。だが、その声は本物だった。

「とりあえず部隊訓練は午後からだから、午前中は武器の取り扱いについてかな」

 そうして連れてこられたのは窓の無い射撃場だった。奥行は二十メートルほどで、パーテーションでブースが切られている。

「とりあえず基本ね」

 そう言って佐伯はサイドテーブルに銃を並べる。

「これがうちの標準装備。ヘッケラーウントコッホMP5。聞いた事くらいはあるでしょ?」

「うん、映画で特殊部隊が使ってた」

「そうそう、これが本物」

 彼女はうんうんと頷きながら応じる。

「なんだけど、これはフラッシュハイダーを改良して、強装弾に対応した特別モデル」

 そう言って銃口の先を指さすが、彰にはどんな違いがあるのかわからなかった。

「で、こっちが八九式小銃。5.56ミリで三点バースト付き、屋外での作戦に使う。アタシはM4とかG36よりもこっちのが好きかな。ちょうど良い大きさなんだよ」

 佐伯が軽く構えてみせる。細めに感じるグリップは確かに彼女の体格でも握りやすそうだ。

「次は拳銃」

 小銃を置いて、今度は拳銃を取り上げる。四角い箱に銃口を取り付けたような武骨なデザイン。

 彰は見覚えがあった。

「ソーコムピストルってヤツだっけ?」

 佐伯の得意げな含み笑いが射撃場に響く。

「ふっふっふっ、残念でした。これはそのイッコ前のモデル。ヘッケラーウントコッホUSP。この三つは形を絶対に覚えておいて。これを持ってるのが味方だから」

「わかった……」

 MP5やソーコムに似たUSPは映画やゲームである意味見慣れていた。だが、八九式小銃はすぐに覚えられるか自信が無い。

「最後に、これがキミの護身用」

 佐伯のポケットから出て来たのは滑らかな流線型をマットブラックで包み込んだ小さな拳銃だ。グリップの端に細長い輪っかが付いている。

 この拳銃が本物である事に間違いは無いだろうが、さっきのUSPと比べてずいぶん小さく、作りも華奢なように見える。

「シグザウエルP230JP。アメリカの銃だけど警視庁向けに安全装置を追加したモデル。だからJPはジャパンポリスの略ね。装弾数は九ミリショートを七発……」

「少なくない?」

 オートマチックの拳銃は十発以上弾が入ったはずだ。七発ではリボルバーより一発多いだけだ。

 聞きかじりの知識を総動員しながら聞いてみる。

「ま、護身用だからね。何度も言うけど、アタシ達はキミにポイントマンになってもらうつもりはないし、キミが直接戦う必要のないように充分配慮もする。だからこれで良いの」

 佐伯はグリップを先にしてP230を突き出す。

 その仕草はどこか拗ねたようで何だか可愛らしかった。

「じゃあ、構えから。右手に持って、左手で包み込む。右腕は軽く伸ばして左腕は少し手前に引くように。ここまで真似してみて」

 佐伯が指先を銃に見立てて構えて見せる。それを見ながら彰もぎこちなく構える。

「射撃の直前まで引き金には指を触れないこと。銃口はあっちね」

 彼女が指さしたのは射撃場の中ほどにぶら下っている人型をした標的。

「じゃあ、装填の前に心構え」

 佐伯は言いながら腕を伸ばし、USPを握る。ぞんざいなように見えたが引き金に指は触れておらず、銃口も常に標的の方を向いている。

「銃口はむやみに人に向けない事。これはどうしてかわかるね?」

 彰は頷く。

「じゃ、次。誰かに銃口を向けられたら躊躇なく撃つ事」

 彰は頷く。しかし、その動きは若干鈍い。

「銃はね、意志を飛ばす道具なの。それも相手を傷付けるという意思をね。だからそれを人に向ける時、どんな言い訳も出来ないの……引いて」

 USPの巨大なスライドが佐伯の細い指によって前後し、太い鎖を引くような思い金属音が響く。

 見よう見まねで彰もスライドを引く。中身が一瞬見えて小指ほどの弾丸が銃身の中に吸い込まれていった。

「だから、むやみに人に向けないし、向けられたら容赦なく撃つ」

 熱波と光が聡の前を通り過ぎた。耳鳴りが一瞬遅れてやって来て、ようやくそれが銃声だと知った。

「その意志は殺意と呼べるのかも知れないけど、アタシはそうは思いたくない。これは純粋な力だから」

 まっさらだった標的の中心部に穴が一つ開いていた。

「誰かを傷付けられるって事は、誰かを守れるって事だから。すごい事だと思わない? この小さな引き金を引くだけで大抵の相手に勝つ事が出来るんだよ」

 佐伯が再び引き金を引く。二度目という事もあって今度は少し落ち着いていられた。

 金色の薬莢がパーテーションに当たって跳ね、余韻が長くコンクリートに反響する。

「キミは誰かを守りたい?」

 静かな問いかけは耳鳴りに紛れて、どこか遠くにぼやけてしまう。

 考えた事が無い訳ではない。力さえあればと考えた事すらある。だが、一度として『誰』を守るのか考えた事は無かった。

「……具体的な誰かって訳じゃなくてね。その力を誰かの為に使いたいかって事」

 佐伯が苦笑しながらフォローする。これにはすぐに答えられる自信がある。

「それはもちろん」

「じゃあ、狙ったところに弾が飛ぶくらいには練習しないとね」

 彰は少しむっとした。こんなに近い的に当たらない訳がない。そう思って引き金を引く。

 銃が小さい割に銃声は大きかった。だが、それだけの事だった。反動も思ったほどない。

「……うそ」

 佐伯が息を呑む。

 弾丸は目標円の中心を射抜いていた。


 腕がぼんやりと熱を持ち、痺れているような感じがまだ残っている。手の中にある鍵の冷たい感触が少し心地よかった。

 一通りの射撃訓練の結果。彰は一つの事に気付いていた。

 結局百発近く撃ったのだが、そのどれも的を外す事は無かった。一番ずれた弾でも中心から二つ目の円に収まった。

 当たらないという話は聞いていたがそんな事は全く無かった。と言うより、ただ言われた通りに構えて、狙いを定めて、当たると思ったタイミングで引き金を引いただけだ。

 佐伯はビギナーズラックだと譲らなかったが、幸運だけでそんなに命中するものだろうか。

 もし、幸運でないとしたら、それは多分自分に射撃の才能があるからなのだろう。

 ドアの前に立つ彰は午前中を振り返ってそんな事を考えていた。左右の壁には彼の所属する第一小隊が突入隊形で待機している。

「状況開始。突入、突入!」

 広瀬の鋭い声がヘッドセットに届く。

 彰は腕を突き出すように鍵を差し込み、捻る。

 閂が弾け、第一小隊が黒い突風となってドアの中へ飛び込んで行く。

 それとほぼ同時に銃声が沸き起こる。MP5の重苦しいスタッカートをメロディに兆弾の飛翔がアクセントを加え、暴力的な重奏曲が一瞬にしてその場を支配する。

「ピーター19ナインティーン、ぼさっとしてるな」

 インカムに広瀬の声。その背後では銃声と怒号が飛び交っている。

 ピーター19。それが作戦時に与えられた自分のコールサインだという事をようやく思い出す。

「ピーター11イレブン。19を援護します」

「道はこっちで開く。11は鍵を連れて来い。悔しいが長くは持ちそうにない」

 言い終わらないうちに新たな銃声と呻き声がオーバーラップする。

 思わず足がすくむ。

「行くよっ」

 ピーター11、佐伯が左手で手招きする。右手にはMP5。

 黒衣に身を包み、口元を隠した彼女の姿は制服の時とは打って変わって精鋭の風格を帯びていた。

 黒い染みが点々としている床には薬莢が無造作に転がっている。銃声は少し遠くなったような気がする。

「アタシの後を離れないで、絶対に先に行かないで。窓を覗きこんだり、勝手に扉を開けない。OK?」

「お、OK……」

 矢継ぎ早の指示にぎこちなく頷く。

「ピーター11から10テン。移動開始」

「ピーター10了解――鍵が動く、回り込ませるな!」

 広瀬の怒号。一旦遠ざかったかに聞こえた銃声が激しさを増す。

 佐伯が音もなく進んでいく。そして、角の度に止まり、慎重に行く先の様子を確認する。

 安全の確認をし、彰を手招きした瞬間。壁に弾丸が弾ける。

「伏せてっ」

 叫ぶのと同時に佐伯が撃つ。彼女の周りに黒々とした弾痕が増える。

「ピーター11、コンタクト接敵!」

 ヘッドセットに叫ぶ。しかし、味方は手一杯なのか呼びかけに応じない。

 彼女は角を盾にして反撃しているが、射すくめられて碌に狙う事も出来ない。

 このままでは押し切られる。

 彰はとっさに動いた。

「来ちゃダメ!」

 緊張していた。

 興奮もしていた。

 恐怖はあまり感じなかった。

 腰の後ろに付けたホルスターから拳銃を抜き、射撃場でやったようにスライドを引く。

 佐伯だけで防ぎきれないなら自分も戦闘に参加するしかない。射撃場での事がビギナーズラックでないことを佐伯に証明する良い機会だ。

 角の外へ飛び出し、引き金を引く。

 ちょうど身を晒していた相手が、全身に弾丸を受けて倒れる。

「やった」

「前!」

 佐伯の警告。

 言われるままに視線を向け、彰は引き金を引く。それを援護するように佐伯も発砲する。

「アタシの前に出ないでって言ったでしょ!?」

 制圧を確認して佐伯が言う。二人は走り出していた。

「援護しただけだっ」

「生意気言って――」

「ピーター11、現在位置は?」

 ヘッドセットから広瀬の声。さっきよりは幾分落ち着いているように聞こえた。

「現在位置は……目標付近」

「こちらの到着を待て」

「了解」

 目標。それは一枚のドアの事だ。

相手の守備するドアに鍵をかける事。それが与えられた使命だ。それさえ完了させてしまえば、こちらの勝ちだ。

マガジンを交換している佐伯は、素人目にもそれとわかるほど神経を研ぎ澄ませている。

「……ねぇ、もう勝手に動かないでよ?」

 佐伯が囁くように言う。暑いくらいだった身体が少し冷えた気がした。

「アタシ達はね、今敵陣のど真ん中にいるの。下手に動いたら、今度こそ袋叩きにされちゃうよ。アタシはね、アレを食らいたくないの。死ぬほど痛いんだから……」

 簡単に言って、彼女はゆっくりと音を立てないようにスライドを引いてチェンバーを確認する。

 足音はあちこちでしている。時折銃声と声も聞こえる。だが、姿だけはどこにも見えない。

 取り残されてしまったかのような奇妙な疎外感。

 佐伯の緊張が伝播して自然と吐く息が細くなる。

 心臓が次第に鼓動の速度を上げていく。

 だが、恐怖はあまり感じない。手の中にある拳銃から勇気が流れ込んでくるような気すらする。

 自分には戦う事が出来るのだ、と。

 不意に佐伯が獲物の臭いをかぎつけた猟犬のように視線を上げ、動きだす。

 「何かあったのか」と聞こうとする前に、彼女が指を立てて「静かに」とジェスチャーする。

 握りしめた拳銃が汗でぬるつく。

 佐伯が「ついてきて」と合図する。

 だが、彰は別のものを見ていた。

 通路の奥には一枚のドアがあった。

「……目標だ」

 勝敗を分ける重要な目標だ。にも拘らずあたりに人の気配は無い。

「凛さん」

「なに?」

 コールサインを忘れたが、彼女は応じてくれた。

「ドアだ」

「わかってる。だから味方の到着を待つの」

「でも……」

 あのドアさえ閉じてしまえば……

 ドアまで走って二秒かからない。

 このままここに留まるのは絶対に危険だ。まして二人しかいないのだ。

 なら、取るべき道は一つしかない。そして、その為に必要な力を自分は持っている。自分の身を守ることだってできる。

 気配に気付いた佐伯が叫ぶ。

「ダメっ――」

 語尾が銃声でかき消される。時間が無い。

 彰は体当たりするようにドアに取りつき、鍵を取り出す。

「そこまでだ」

 反射的に銃口を向けて引き金を引く。

 拳銃のハンマーが落ちた。だけだった。マガジンは既に空になっていた。

「全く、遠慮無しにぶっ放すんだな……」

 壁に背を預けて佇んでいた男は静かに言い。白いスーツの懐から黒光りする古めかしいオートマチックを取り出す。

 全身から血の気が引く。それと同時に脚から力が抜ける。

よろよろと後ずさり、崩れそうになった所を壁に救われる。

「坊主。連中の制服についてる文字を読んだことがあるか?」

「ピーター11がやられた。ピーター19は所在不明」とヘッドセットががなっている。

「あれは〝彼が開けば誰も閉じられず、彼が閉じれば誰も開けられぬ〟と書いてあるんだそうだ」

 いつしか黒衣の男たちが集まる。誰もが油断なく配置についている。

「彼とは俺であり、お前だ」

 彰のそれより大きな銃口が向けられる。

「お前が死ねば扉は閉まらないし、開ける事も出来ない。つまり、お前を守ろうとした奴も、お前が守ろうとした奴も、みんな不幸になる。わかるな?」

 それは問い掛けなどではなかった。落ち着いた大人の声を、彰は初めて怖いと思った。そして、自分がどれだけ自惚れていたか知らされた。

 銃が使えなければ、自分にはこの状況をどうする事も出来ないのだと。

「ま、新しいおもちゃをもらってはしゃぎたくなる気持ちは解らんでも無いが……教訓は必要だ」

 第二小隊のは一瞬ばつの悪そうな笑みを浮かべ、引き金を引いた。

硬いゴムが鳩尾にめり込み、息が詰まる。思ったほど痛みは無かった。だが、全身から力が抜けていく。まるで四肢を切り離されて放り出されたようだ。

投げ出された身体は受け身すら取れず床に落ちる。動けない、息すら出来ない。

弾の当たった所だけが熱く、全身が冷える。全身を不快な震えが襲う。

直感的に死という言葉が浮かぶ。

「英雄になりたい気持ちはわかるが、自分の為すべき事を見失うのは駄目だ。よく覚えておけ」

 薄れていく視界の中で、彰はその言葉をどこか遠くに聞いていた。


 隣接する時空への扉を開くこの鍵の事を、正しくはディメンジョンエンコーダーと言うらしい。

 DOORの技術者から熱力学第二法則とか、エントロピーの差によるエネルギー変位の解消とか、難しい単語をいくつも並べて解説されたが、彰にはさっぱりわからなかった。

 一番わかりやすかったのは「この鍵で開けた扉を通らないで並行世界に行くと死ぬ」という佐伯の言葉だった。

 つまり第一小隊の生還は、この鍵とそれを使う事の出来る彰にすべて掛かっているのだ。

 あの時、第二小隊の鍵である伊達に言われた事も今なら理解できる気がする。

 彰はそっと鍵の歯に触れる。刻まれた紋様はあまりに微細で、指先の感覚でもその境目を意識する事が出来ない。

「緊張してるね」

 隣に座る佐伯が囁く。

 視線をあげれば、完全武装の第一小隊が車内の薄暗い照明を浴びてその時を待っている。

 銃の手触りを確かめる者、無線機の調子を見ている者、敵味方識別装置(IFF)のビーコンをチェックしている者、ゴーグルに映し出される戦術情報を確認している者。

 車内の空気はガラスのように硬質で、ちょっとした衝撃で割れてしまいそうな程に張り詰めている。

「……初めて、だからな」

 彰の声も自然と低いものになる。

 小隊の誰かが小さく笑った。

「訓練通りやれば大丈夫」

「うん」

 ベルトに付けたホルスターが一段と重く感じる。

 言葉通り、これが彰にとって初めての実戦だ。状況はあの時の訓練とほぼ同じ。

 ディメンジョンエンコーダーを使ってこちらの世界に開きつつある扉を閉じる事。すでに何かが通過していたらその排除をする。

 簡単な話だ。戦うのは小隊の仲間がやってくれる。

 何度もそう自分に言い聞かせていると、遠慮のないブレーキで車が止まる。

「総員降車、作戦開始」

 広瀬の号令と共に第一小隊が動き出す。

「第一第二分隊は周辺の検索及び制圧。第三分隊は扉の確保を」

 小隊のメンバーに混じってトラックから飛び下りる。ほかのトラックに乗った分隊も既に行動を開始している。

「一気に行くよっ、はぐれないで」

 ゴーグルを下ろした佐伯が手招きする。彰は慌てて拳銃を装填し、ホルスターに戻しながらその後を追う。

 先行した二つの分隊から異常なしの報告が入る。まだ誰も扉を通過していないらしい。

 それならすぐにでも扉を閉めればこの作戦は終了する。

「ピーター19、鍵の用意だ」

 分隊の仲間からの指示。

ヘッドセットからは「第一分隊は第三分隊の援護。第二分隊は引き続き周囲を警戒せよ」と冷静な広瀬の声が聞こえてくる。

 彰は上衣の下からディメンジョンエンコーダーを取り出す。傍らには貴人を守護する剣士のように佐伯が控えている。

 眼前には出撃室で見たのと同じ光を放つ扉があった。

「第三分隊からピーター10。これよりデコードを開始する」

 分隊長が広瀬に報告する。

「さ、始めよっか」

 佐伯が囁く。彰は頷き。

「ああ……」

 とだけ答えて、鍵を扉へと近づけた。


「回廊の活性率が低下していきます」

 白金の鏡には熱帯性の蔦植物のように幾本ものケーブルが絡まり、部屋の隅に並ぶ観測機器に繋がっている。

「予想より早いわね」

 皐月の冷静な声。落ち着かないのは葉月の方だ。

「そのようだな……」

 彼女はせわしなく柄頭に指を這わせている。

 威力偵察の名を借りた強襲作戦に部下を供さなければならないのだから無理もない。

「第二回廊、開きます」

 別の鏡が淡い光を放ち、潮が満ちるように近似世界へと繋がって行く。

「第一回廊を閉鎖。悟られないよう、ゆっくりと……」

「はっ」

 幼年学校から士官学校と進み、人生の半分を軍事教育と軍隊で過ごした葉月にとって、今回の作戦が皐月の言うほど価値のあるものではない事はよくわかっている。

 どちらか一方でも軍服を着ていなかったのなら。せめて、彼女が大尉で自分が中尉でなかったなら、きっと止めたはずだ。

 だが、軍人にとって階級と命令は絶対である。

「……これより黒蟻の巣を叩く。これは帝国の繁栄を盤石とする戦いの前哨戦である。各員その事を充分に自覚し事に臨め」

 鉄兜の庇の奥にある対の瞳が一斉にこちらを向く。

 市街戦を想定した騎兵突撃銃アサルトカービンを手にし、抗弾衣と多目的弾帯タクティカルベストで完全武装した兵士達の使命感と自信にあふれた真摯な視線に晒され、背筋が快感に震える。

 これがもっと意義のある作戦であれば、この快感に酔いしれる事も出来たろうに……

 脳裏に浮かんだ雑念を消すが如く音高く軍刀の鞘を払い、近似世界への回廊へその切っ先を向ける。

「突入!」


 彰の「デコード完了」という報告はすぐさま別の言葉にかき消された。

「コンタクトッ」

 銃声。次いで手榴弾の炸裂音。

「第二分隊が新たな扉を発見した。現在越境者と交戦中。第一分隊は援護に回れ」

 彰の周りに第三分隊が集合し、周囲を警戒する。

「越境者?」

「並行世界からこちらの世界へ入り込んできた者……」

 佐伯が言う。

 銃声が幾重にも錯綜し、合間に怒号と爆発が響き渡る。

「第三分隊は扉確保まで現在位置で待機せよ」

「……了解」

 広瀬に応じた分隊長の声は、不服さを隠そうともしていなかった。

 それが命令とは言え、訓練を共にした仲間を見殺しにするような気がしてならないのだ。

 事実、完全な奇襲を受けた第二分隊は苦戦を強いられていた。即座に第一分隊が支援に入ったものの、今度は敵と味方の火線に挟まれて後退も反撃も出来なくなっていた。

 銃声が近づいてくる。

 第三分隊が戦端を開いた。

「こっち」

 佐伯が彰を引っ張る。薬莢の雨を潜り抜けるように後方へ下がる。

「敵の規模は?」

「推定二個小隊。こちらでは抑えきれない。そっちに向かった。警戒しろ」

「もう交戦してる」

 短いやりとりがヘッドセット越しに行われ、すぐに銃声が後を引き取る。

「……分が悪いわね」

 佐伯がごちる。

「ピーター10。増援を要請する」

 分隊の誰かが広瀬に請う。その声は極度の緊張に弾性を失っていた。

「到着まで時間がかかる。現戦力で状況を維持しろ」

 対して広瀬の声はどこまでも冷静だ。

「ねぇ、凛さん」

 手を引く佐伯に呼びかける。

「なに?」

 彼女は振り返らない。すべての神経は迫る敵へと向けられている。

「負けるのか?」

「……ばか言わないで」

 彼女の声はいつもの明るさを失っていた。

「……例えそうだとしても、キミを死なせる訳にはいかないの」

 こんな声が出せるのかと感心するほど低い声。その中に込められた確固たる意志。

 思わず応えたくなる。不思議な力のある言葉だった。

 小隊の全力が投入されても戦況は芳しくないのは飛び交うやりとりを聞いていればわかった。

 倍の敵を相手によく持ちこたえていると言っても良いだろう。

 顔を覆っているせいで表情は見えないが、佐伯からも不安な気配が漂っている。

 彼女の気配に煽られるように彰の中でも不安が広がって行く。

 彼らは世界を守るために戦っている。自分だってその一員だ。

 伊達に言われた言葉の意味が、今またわからなくなってきた。

 自分の為すべき事とは……

「凛さん。もし、今敵の出て来た扉を閉じたらどうなる?」

「え?」

 彼は二つの言葉を思い出していた。「この鍵で開けた扉を通らないで並行世界に行くと死ぬ」「彼が開けば誰も閉じられず、彼が閉じれば誰も開けられぬ」。

「敵がアタシ達の鍵と同じような理屈でこちらの世界に渡っているとしたら……多分、エントロピーの差に耐えきれなくなって、形を保っていられなくなるんじゃないかな」

「やっぱりそうなんだ」

「何をする気?」

「みんなを助ける」

「またそんな事言って――」

「このままじゃみんなやられる。そうしたら世界だって!」

 思わず声がうわずる。緊張している。もっといえば、怖い。だが、小隊を見殺しには出来ない。

 これが、今の自分にできる唯一の事だ。

「……みんなを助けたいんだ」

「わかった。それで、どうするの?」

「扉を閉じる」

「簡単に言うね」

「だから手伝って欲しい」

 そう言うと、佐伯は出来の悪い弟を前にしたような溜息を吐く。

「いいわ。やりましょ」

 彰の表情が緩みかけた所で「その代わり」と釘を刺す。

「アタシの指示に従ってもらうわ。キミは銃を持っているけれど、戦闘は素人だって事を忘れないで」

「わかった」

 頷くと、背中のホルスターが妙に自己主張しているように感じられた。まるで、使えと誘っているようだ。

 佐伯は広瀬に扉の位置を聞いている。そして、ゴーグルのHMDヘッドマウントディスプレイ上の地図に、味方のIFFと一緒に反映させる。

 これで準備は整った。

「キミ、走るの得意?」

 彼女が不意に問う。

「目標まで思いっきり走るよ。アタシの前に出ない事。アタシから離れない事。OK?」

「OK」

 頷きながら、彰は違和感を覚えずにはいられなかった。

 ボディアーマーと弾薬を体中に着け、両手は武器でふさがった彼女に引き離される事などあるのだろうか、と。

「それじゃあ、よーい……どんっ」

 佐伯のブーツが地面を蹴る。

 速い。

 楽に着いていけるつもりになっていた彰は慌ててギアを上げる。

「ピーター19、遅れないで」

 ヘッドセットに佐伯の弾んだ声が届く。

 小さな雑居ビルの入り組む深夜の路地には銃声が相変わらず響いている。

 佐伯の銃もその演奏に加わる。だが、彼女は足を止めない。

 人一人通るのがやっとのような細い道へ銃口を向け、踊るようにステップを踏みながら的確に牽制していく。

「もっと急いでっ、囲まれるよ!」

 彼女の姿が先の角で消える。彰も慌ててその後を追う。刹那。

 彰の耳元を佐伯の弾丸が猛烈な唸りを上げて通り過ぎる。

「止まらないで、そのまま行って」

 思わずよろける彰の背中を突き飛ばす。足が縺れる。

 その横を再び佐伯が追い抜いて行く。彰も何とか体勢を立て直す。

「その先に扉があるっ」

「回廊に取りつかせるな!」

「鍵を援護しろ!」

 三つの叫びが完全に重なる。

 目の前を弾丸が通り過ぎる。壁に、地面に、跳ねた弾丸が火花を散らし甲高い音を立てて穴を穿つ。

 佐伯が振り返り、撃つ。降り注ぐ薬莢を浴びながら彰は扉に取りつく。

 コンクリートの壁にぽっかりと空いた馬蹄状のそれは、扉と言うよりトンネルの出口を思わせた。開口部も出撃室のものより格段に大きい。

 彰は鍵を取る。

 銃火が激しさを増し、思わず振り返る。

「続けて」

 扉の前に佐伯が陣取り、脱出しようと、彰を排除しようと押し寄せる敵に狙いを定める。

 今までのような連射ではなく、的確に二発ずつ撃ち込んでいく。

 彼女の精密な援護射撃を受けながら、彰は今にも逃げ出しそうになる腰を何とか奮い立たせ、鍵を突き出す。

 鍵はさながら悪性腫瘍のように清廉な水面に根を伸ばし、光を奪っていく。

 見る見るうちに扉は元のコンクリートへ戻って行く。

「ピーター11、援護する」

 声と同時に手榴弾が弧を描いて飛んで行く。

 熱波と悲鳴を全身に浴びながら佐伯は素早くマガジンを交換し、突破して来た兵士を至近距離で仕留める。

 褐色の詰襟にゲートル姿という、古めかしい軍服姿の兵士が胸を真っ赤に染めて崩れる。

 銃の形は見た事もない。だが、それが実戦によって充分に洗練されているのは見て取れた。

 扉から光が完全に失われる。

「デコード完了!」

 ヘッドセットに叫び、振り返る。

 最後の薬莢が薄く硝煙を吐きながら緩やかな放物線を描いて落ち、涼やかな音を立てる。

 散らばる薬莢の上に倒れた兵士がみるまに色を失い、灰とも埃ともつかない粒子になって消えていく。

 服も皮膚も骨も、装備すら残らない。ただ、消えていく。

 褐色の兵士達は酸素を求めるように、喉を搔き毟り、声にならない呻吟を上げながら助けを求めるように虚空へ手を伸ばす。

 小隊の誰も手を差し伸べる事が出来なかった。彼らを支配しているのは決定的な死を前にした冷徹さではない。

 凄惨な末路と無言の断末魔に恐怖していたのだ。

 彰もまた、ようやく佐伯の言葉の真意を悟った。

 これが並行世界での死なのだ。

「消えた……?」

 心の中ではわかっている。だが、脳のどこかが死という言葉を忌避した。

「うん。死んだよ、みんな……」

 責めてはいなかった。嘆いてもいなかった。彼女はただ事実を告げただけ。

 だが、その言葉は彰の胸を深く抉る。

 一発の弾丸も撃たずに、ただ一つの鍵だけで、十数名の人間を殺した。

 正体不明の濁流が胸の中をぐるぐると駆け巡っている。

 全身から力が抜ける。何とか踏み留まろうとするが足首に力が入らない。

 胸糞が悪い。込み上げてくるものを堪えられない。

 そう思った時には既に吐いていた。涙が零れてくる。胃液の所為などではない。

「うっ……くっ……」

 後悔や恐怖や罪悪感のないまぜになった感情の塊を発散しようと身体が叫びたがっている。

 だが、解れかけた理性で何とか押し留める。いきなり喚きだされてもみんな迷惑するだけだ。

 立ち直らなければ、平気な顔を見せなければ。

 言い聞かせようにも喉の奥からは嗚咽しか出てこない。

「うぅっ……ぐっ、ぁ……」

「良いんだよ……」

 優しい声が降ってくる。

「声、出そ」

 跪いた佐伯が、服が汚れるのも構わず彰の体を抱きしめる。

 分厚いボディアーマー越しに彼女の温もりを感じる。冷え切った身体がほぐされていく感覚。

「キミのおかげでみんな助かったんだよ。だから、恥ずかしくなんかないんだよ」

 彰は硝煙の香る胸の中で、ただ感情のままに声をあげた。

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