第四章 ノゾミのなくならない世界
第18話 もういない誰か
タイムパラドックスという言葉がある。
並行世界と同じで、サイエンスフィクションでよくもちいられる言葉だ。
現在生きている人間を過去で殺す、あるいはその先祖を殺す。
すると歴史が変わってしまい、現在さえも変わってしまう。
たしか、そんな意味の言葉だったはずだ。
けどまぁ、人が一人死んだくらいで世の中は変わらないのだと俺は思う。
歴史だって変わりはしない。
本当に必要な人間なんてものは、世界にとっては存在しない。
いなくなればすぐに代役がたつものだ。
世界にとってだけじゃない。
どこの誰にとっても、人間一人というのは大した価値はないのだろう。
国の指導者にも、会社の社長にも、教師にも、肉親にも、恋人にも、友人にも、必ず代役は存在する。
そいつでなければいけない理由なんか、本当はどこにもない。
歯車は一つ欠ければ全体が機能しなくなる。
しかし、欠けたところで機能不全を起こすものがなにもないということは、一人の人間は歯車一つほどの価値もないということだろう。
なにが言いたいかといえば……俺に言いたいことなんてないってことだ。
そいつはすでにどこかの誰かが言っているかもしれないし、もしくはみんなすでにわかっていることなのだろう。
どれだけ言葉を尽くそうとも、もう遅い。
どうにもならない。
なにもかも、すでになかったことになったのだから。
きっと、気にするだけ無駄なのだ。
世界は変わった。
けれども、おおむね俺の知っている世界の形を保っている。
友だちも、住所も、自分の背丈も、とりあえず変化はない。
ナユタによれば、世界全体の浸食率は低く、今回も白星だと言っていい結果だったらしい。
俺たちは勝利したわけだ。
なら、素直に喜んでおけばいい。
どうせまだ戦いは終わらないのだから。
歯車未満である俺の選択一つであっても、生まれるのが並行世界というものだ。
俺以外の人間にとっても同じ、何十億人といるそいつらの一挙手一投足で世界が生まれる。
で、それがまたぞろ衝突すれば戦わなくてはいけない。
もっと露骨に言えば、殺しあう必要が生まれる。
地面があるかぎり地震がなくならず、海があるかぎり津波がなくならないのと同じだ。
生きているかぎり並行世界との戦いはなくならない。
まったくもって気が遠くなるような話だ。
そう思ってはいても、体は自動的に動く。
これまでの月日と経験が作り上げた〝木戸博明〟という人間は決まりきった動作をこなす。
喫茶店でのバイトは今日もミスなく終えることができた。
どうやら俺は、一人でもちゃんとやれるらしい。
「なぁ、木戸」
バイトが終わり、ロッカールームで着替えている最中に杉山は声をかけてきた。
その顔は笑顔ではあったが、無理をしているものにしか見えない。
「このあと、たまには遊びに行こうぜ。そう遠くなくてもいいんだ、近場でカラオケとかさ。な、どうだ?」
「悪い。今日はちょっとナユタに用があるんだ」
俺の言葉にいつも明るい友人の表情がくもる。
「まぁ、その……なんだ、木戸」
杉山がなにを言おうとしているのか、すぐにわかった。
だけど、今は誰の口からも〝あいつ〟の名前は聞きたくない。
「気をつかうなよ、杉山。俺はごらんのとおり元気だからさ。ナユタに会いに行くのも大した用事ってわけじゃないし」
「……そうか。けど、無理すんなよ」
「無理なんかしてない。元々俺はそんな殊勝なことができる人間じゃないさ」
バイトが終わったのは夕方の五時だった。
一緒に働いていた杉山が帰り、マスターがいつもどおり店じまいを終える。そんなマスターに挨拶して裏の扉から本部へと降りる。
エレベーターという密室で、今朝のことを思い出す。
隣のクラスだったあいつの席には、まったく知らない女子が座っていた。
しかし人から聞くかぎりでは入学式から一緒だったらしい。
あらゆる物品、書類からも彼女の存在は消え失せていた。
これも修正作業の賜物というやつだ。
初めてその効果を体感している。
あいつの代役も世界には存在する。
それだけのことだ。
俺の代役だってたくさんいるのだろう。
待機室へたどりつくと、煙のようにナユタがたち現れた。
その表情は暗い。
「よう、ナユタ」
「すいませんでした」
深々と頭を下げる。
そんなナユタの姿をあの日以来、何度も見ていた。
「あのときのことは、すべて私のミスです。あなたがたと連絡がとれなかったさい、大事をとって一度こちらに戻すべきだった」
「いいんだよ、ナユタ。それはもう何度も聞いた。お前が悪いわけじゃない」
もうどうしようもないことだ。
あのとき俺の目の前で死んだはずの〝彼女〟は、十年前に死んだことになっているのだから。
それでも、世界は終わらずに続いているどころか変わったこともない。
あんなに彼女が好きだったはずの俺も、こうして普通に生きている。
薄情なのか頭がおかしいのか。
それとも結局その程度の関係だったということなのだろうか。
なんにしても、こんなものだ。
一人の人間っていうのは、こんなものなのだ。
「俺はおまえとそんな話をしにきたんじゃないんだ。訊きたいことがあってさ」
それは些細な疑問。
並行世界の存在を知ったときから漠然と抱き続けていた疑問だった。
しかし最近その答えが知りたくてたまらない。
「どうして俺はこの〝俺〟だったんだ?」
俺の質問にたいして、ナユタは困ったような顔をする。
たしかに唐突すぎたかもしれない。
「平行世界って無数にあるんだろ? 可能性の数だけ、ありったけあるんだろ」
「はい。理論上はそうなります」
「それなら俺は別にこうしている俺じゃなくてもよかったことにならないか。スポーツ万能で活躍している俺でも、頭がよくて褒められている俺でも、なにも知らずに学校生活を送っている俺でも……どの俺でもよかっただろう」
どんな〝木戸博明〟でもいるはずなんだ。
並行世界というなら、どんな可能性だって存在するに違いない。
その中のどれでもいい。
九死に一生を得る経験なんかしていない、平穏無事に暮らしているだけの木戸博明がこの〝俺〟でもよかったはずじゃないのか?
並行世界って、そういうものだろう。
「それなのに、どうして俺は今こうしている〝俺〟なんだ?」
これといった特技もなく、日々を浪費するように生きている木戸博明が〝俺〟でなくてはいけなかった理由はなんなんだ?
「すいません、その質問の答えを私は知りません。私もなぜこの世界にある端末なのか、わからないのです。並行世界にも同じ端末は存在しているはずなのに」
「……そうか。そうだよな。悪い、変なことを訊いた」
本当はわかってた。
こんな問いに答えなんかあるわけがない。
どんな理由があったとしても、俺はこの世界のどうしようもない木戸博明なんだから。
それもまた、どうしようもないことであり、受け入れる以外の選択肢は存在しない。
「あの、木戸さん。ちゃんと眠れていますか?」
「ああ」
「それはウソです。食事もとっていませんよね」
「わかってるなら訊くなよ」
「どうしてですか?」
「別に意識して食べてないわけでも、寝てないわけでもない」
食べたら、すぐに吐いてしまう。
それはもったいないから、水を飲むだけにしただけだ。
眠れないといっても、ちゃんと寝てないだけできっと無意識のうちに眠っているに違いない。
そういうものだ。
「そのうち治るよ。ダイエット中なんだ」
ずっと食べなかったら死んでしまう。
ずっと眠れなかったら死んでしまう。
だから、きっと本当に死にそうになったら食べるし眠るのだろう。
本能的に、おかしなことはそう長く続かない。
神経はそう簡単にまいらない。
人間とは、そういうものだ。
悲しいくらい、動物だ。
「……木戸さん」
「なんだ?」
「あなたは泣いてもいいんです」
ナユタの言葉は不意のものだった。
けど、十分に予測できたものでもあった。
ナユタは憂いを帯びた表情で続ける。
「人は悲しいときに、泣けるのですから」
悲しいとき、機械は泣けない。
その言葉に反して目の前の少女は今にも泣きそうな顔をしていた。
だけど、俺は笑ってしまう。
意図せず、笑いが込み上げてくる。
「泣かないんじゃないだよ、ナユタ。泣けないんだ。あいつは消えちまったから」
気づけば、十年前に死んだことになっていたから。
なにひとつ、写真すら残さず消えてしまったから。
「俺はまだ、あいつが死んだということがわかってないんだ。どうしても実感がわかない。バカなんだよ。ただ、それだけのことなんだ」
我ながら未練がましく、情けないことだと思う。
けど、どうしようもない。
目を閉じるとあのときの光景が生々しく蘇ってくる。
まぶたの裏側で彼女があっけなく息絶えるのだ。
なのに、もしかしたらなにもかもがウソだったというような、そんなどうしようもない妄想を止められない。
こうしている今も、彼女の死に対する現実感がまるでない。
そのせいでふと油断するとあいつは俺の中で生き返る。
そしてまばたきをするたびに、死ぬのだ。
そのことが、俺にどうしようもない無力感だけを残していく。
ナユタが目の前でしゃがみこみ、座った俺と視線をあわせる。
その両手が俺の顔にふれそうで、ふれられない。
ナユタはホログラムだから。
そんなことはもうずっと前から知っている。
だからその結果を悲しむことも悔やむこともない。
それなのに、ナユタはひどく傷ついたように顔をゆがめた。
ダメだな、俺は。
周りに気をつかわせてばかりだ。
「妙なこと言って悪かった。今日はもう帰るよ」
「木戸さん……」
「またな」
ナユタの前を通りぬけ、俺はその場を後にする。
その目が俺を見ているのはわかっていたが、振り返ったところで気の利いたことも言えない。
これ以上、バカなこと言う前に立ち去ることが今できる最善のことだろう。
夕暮れ時の町は、西日で赤く染まっている。
それを浴びる俺も赤い。
手の中に濡れた感触が思い出され、口の中に血がにじんだ気がした。
まっすぐ帰ってもいい。
十何年も暮らしている町の、歩き慣れた道だ。
目をつむってでも家まで帰り着くことができるだろう。
なのに、どうしてか見知らぬ町にいるような錯覚に陥っていた。
ここしばらくずっとそうだ。
すべて見たことのある景色なのに、どうしてもなにかが足りないような気がしてしまう。
その足りないなにかを埋めるために、脳は俺に幻覚を見せる。
車道を挟んだ反対側に、後ろ姿が見えた。
高校の制服を身につけた彼女の長い髪が風で揺れる。
背筋を伸ばしてしっかりと歩くのを俺はいつも綺麗だなと思っていた。
幻覚だってわかっている。
それでも俺は追いかけた。
息を切らして、不恰好に走って、追いかけた。
彼女の姿が脇道に消える。
それを追いかけて、角を曲がると少し離れた公園のベンチに彼女は座っているのが見えた。
身長が少し低くなっている。
服装も、中学の制服だった。
髪も今ほど長くはない。
セミロングよりもわずかに短いくらいだ。
名前を呼べば、振り向いてくれるだろうか。
幻だって構うものか。
中学生の彼女であってもいい。
顔が見たかった。
声が聞きたかった。
あんなに好きだった彼女の顔が、どうしても思い出せないのだ。
記憶をどれだけ探っても、彼女の顔だけが暗色の絵の具に塗りつぶされたかのように見えない。
どうしても、声が思い出せないのだ。
あんなに名前を呼んでくれたのに。
たくさんの言葉を交わしたのに。
ノイズに飲まれたかのように聞こえない。
彼女の長い髪が綺麗だったことも、優しいにおいも、歩く姿が美しかったことも、思い出せるのに。
焼いてくれたパンが苦かったことも、彼女と対面した時に顔が熱くなったことも、思い出せるのに。
血の味がした最初で最後のキスも、思い出せるのに。
顔と声だけが、どうしても思い出せない。
幻の彼女はいつも俺に背を向けていた。
やがて中学生だった彼女は、さらに幼くなりランドセルを背負う。
また伸びた髪を、あの頃はよく三つ編みにしていた。
一度、俺が結ってやるといって髪をぐしゃぐしゃにして泣かせたことがある。
あの頃の俺はバカだった。
でも、きっと今の俺もそう変わっていないのだろう。
ベンチに座っていた彼女は、立ち上がる。
そして、俺の存在に気づいたかのように振り返ろうとして……顔が見える直前に消えた。
「ダメだ……」
つぶやく。
いつの間にか、夕日は沈んでいて街灯が煌々と白い光を発している。
「こんなことじゃ……ダメだ」
もうとっくにわかっていることを口にしても、なにも変わらない。
俺がおかしくなったのか、それとも世界がおかしくなったのか。
並行世界が存在するかぎり、どちらも信用することができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます