8話 「愛」

「最悪だった」

 と、たった一言だけで士朗はしばらく口をつぐんでいた。

 迎えに来た二人にいえるのは、その一言だけだった。

 特に井垣はファイアーマンに対峙したという士郎の気持ちがわかるようで、神流の運転する車の中で頭を垂れるの隣でそっと座って慰めてあげていた。

 秘密基地――ロッジにたどり着いても、しばらく士朗は考え込んでいた――いや、考えても答えなど出るはずもない問題であったから、ただ頭を混濁させていただけだった。

「士朗君」

 ロッジで落ち着くと、すぐに神流は声をかけた。

「なにかあったのは分かるけど、話せない?」

「……そうじゃないけど」

「よっぽどショックなことがあったのね。厳しいかも知れないけど、できるだけ早く話して欲しいわ。次のファイアーマンの動向を知るためにもね。これ以上、危険にさらされる人を減らすためにも」

 一人で秘めていても仕方ないことではあることに違いはなかった。

 士朗は口を開いた。


 『ファイアーマン』の提案した条件を彼女らに告げ、四時間ほど経った。

「…………」

 集まった面々に気の利くような言葉など口にすることができなかった。

 話さなければならないことだった。士朗もそう考えていたし、士朗の話を耳にした神流もそう語った。

 ロッジにいるのは六人。

「ここすごいね……」

 めぐが物珍しそうに周りを見回している。

「遊ぶために呼んだわけじゃないよね」

 ミハルが士朗の様子を見てそう悟る。

 そして、

「で、どうして俺が呼ばれてるんだ?」

 ただ一人、自分のことを場違いだと認識したエリノが肩をすくめた。

 ロッジのリビングに、それぞれ床やソファーに座る六人。士朗、エリノ、神流、井垣、ミハル、めぐの総勢六人である。

「ファイアーマンのことだけど」

 呼ばれた三人のうち、ミハルとめぐは何となく深刻さを察していたようで小さく頷いたが、エリノは皺を寄せるだけだった。

「ファイアーマンと会った時――」

「会ったのか?」

「あ、ああ」

「ちょっと待ってくれ。わけが分からないから最初から話してくれ。この話って、そこに座っている白衣の、彼女に関係しているのか?」

 エリノはミハルを指し、続けた。

「彼女は西河だろう? 西河ミハル」

「はい。『その節』はお世話になりました」

 とミハル。

「それでどうして彼女がここに」

 とエリノ。

「それは」

 と士郎。

「まって」

 神流がまとめた。疑問と回答が混じって混沌とし会話の応酬を神流の言葉が制したのだ。

「どうやら士郎君はこういうのが苦手らいしわね。議長というか、司会進行というか」

 その図星に士郎は口を噤む。

「とりあえず……今の状況をみなに共有しておくわ。エリノさんもそうだけど、西河さんや……めぐさんも分からないことはあると思うから。今までのことを説明するわ」

 彼女は一拍おいて、聴衆が準備が整っていることを確認すると、話し始めた。

「私とこの子……井垣ゆり。そして助っ人に初島士郎君。この三人で、ファイアーマンの動向を追っていた。二度の接触を経て、彼が危険人物である事は間違いないことを知った。ファイアーマンは警察署を襲い殺人者を井垣さんにけしかけた。その殺人犯は自滅し、大怪我を負った人が何人か出た。そして」

 井垣が眉をぴくり、と動かす。

「二度目は、さきほどあったこと。ミハルさんとめぐさんとがファイアーマンに襲われた。学校は全焼して、二人の死人が出た。一人は口にトイレの消臭錠剤をつめられた太った男。そしてもう一人は――さっき知ったけど、士郎君と私が学校に向かった際にあった、あの弁当屋の店員。彼を殺したのは、全身を包帯で巻いた男だったというから間違いない。そして、その二人がファイアーマンのSNSに粘着していた人物であるということもわかったわ。ずいぶん低レベルな争いではあったが、SNSでファイアーマンは憤っていたから、殺害動機はそれね」

 その事実は士郎も知らないことだった。

「そして、士郎君は学校での火災直後ファイアーマンと接触、話すことができた」

 彼女はモニターにある画像を写した。それはほぼ正確にファイアーマンを描写したイラスト。士郎からの目撃情報を汲んで特徴をうまく捉えており、本人に遭遇しても彼がファイアーマンであることを確信できるだろう。

「ここまでの事件をまとめてると……ファイアーマンの人物像が見えるわ。彼は狡猾とみせて滑稽な発言を行う。教育的な言葉を口にするかと思いきや、SNSで口げんかするような幼稚さも持っている。彼が厄介なのは、炎を操る能力を持っているという事よりそういった人格的な部分よ。とはいえ……その炎の能力も未知数だから油断はできないけど。

 そして彼は『予告』や『約束』をする。そして、そのルールはけして破らない人物。だけど、それもいつまで続くかは分からない。さらに彼の予告があったとしても、彼がその約束をどう解釈するかによっては変わる」

 話が一区切りついた所で、しばらく彼女が沈黙するとエリノが発言した。

「そんな悪役のファイアーマンを倒すために力を貸してくれ……というわけか?」

「そうじゃないんだ」

 士郎が続けた。

「……ファイアーマンは取引を持ちかけた。いや、脅迫かもしれない。とにかく、俺はファイアーマンにそういわれた」

 士郎は搾り出すように続ける。

「ファイアーマンの能力の一つに、『人を遠くから発火させる』というのがある。もしかしたら何かを仕込んだトリックかも知れないけど……ここにもそれを目撃した人がいる」

 士郎が井垣とめぐを交互に見る。

「よくわかんない。本当に突然燃え出しただけ」

「私は……あの人の首絞めから抜けてすぐ学校から逃げていったから、燃えだした所は分からなかった。本当にあの人が燃えて学校が火事になったのかも」

 もちろん能力であるかどうかは判断できないが、現実ではありえない士郎の存在がいるという事から、何かの可能性を真っ向否定することはできなくなっているのが現状ではある。

「ブラフかも知れない。だけど……その炎の時限爆弾を、あいつは……ミハルに仕掛けたと言っていた」

「私……に……?」

 ミハルは当然驚愕した。しかし、泣き叫んだり狼狽することはなく、ただ小さくうつむいただけ。もちろん困惑が大きいようであったが、それでも恐怖とは違っていた。

 おそらく、『時限爆弾』という現象に実感がないのだろう。

「時限爆弾がどれほどのものかは分からないわ。発火した瞬間、変な話だけど水や消化液に飛び込めば一命だけは取り留めるかも知れないし」

「神流……ふざけるなよ」

「私は真面目よ。それこそ、今からでも水風呂の中で待機してもらった方がいいとさえ思っているもの」

 士郎はミハルの様子を確認するが、彼女は誰かに視線を合わせることもなく、相変わらず床を見ている。

「だけどおそらく、ファイアーマンが今すぐそれをする事はないでしょうね。最初から殺害目的だったら、そんな発火現象の仕込みなんてしないわ。タンバも、太った男も、何かに利用するためにそうしたんだから」

「じ、じゃ……ファイアーマンは先輩も何かに利用するつもりなの? あの人みたいに……」

 めぐが心配そうにミハルを見つめる。

「それは分からないけど、ファイアーマンは」

 士郎は、この場所に皆を集めた理由を口にした。

「ミハルの命と引き換えに、エリノの身柄をよこせと言った」

「へ?」

 間の抜けた声を出すエリノ。無理もなかった。

「ちょっと待ってくれ。俺は……シロウが関係ある以上、保護者としては無関係とは言わないけど……どうして俺なんだ?」

「わからない。だけどアイツは確かに要求したんだ。ミハルの命と引き換えに、エリノをって」

 確かに士郎はファイアーマンに告げられた。

 士郎の知り合いの中でも、もっともファイアーマンとは遠い存在。突拍子もない提案に当然士郎は訊ねたが、彼は答えなかった。

「エリノさん。何かファイアーマンに狙われるようなこと、あります?」

 神流が訊ねるが、エリノは肩をすくめた。

「どんな些細なことでもいいです。たとえば、SNSやどこかで彼の悪口を言ったとか」

「日常的にシロウと話題にしていたくらいだ。個人的には好きじゃないから悪口は言ってたな」

「目的も考え方も分からない人物だものね。理由を考えることに対した意味はないかも知れない」

 神流の言葉には共感できた。今大事なのはそうではない。

「情けない話だけど、どうしていいか分からなくて」

「当然だな」

 士郎の言葉にエリノは言う。

 ファイアーマンのターゲットとして名指しされたエリノだが、割とケロッとしている。年長者の余裕という奴だろうか。

 のっぴきならない議題テーマに一瞬全員が沈黙していたが、それを最初に破ったのはなんとミハルだった。

「にしても、俺の命とミハルの命のトレードか。まあなんとも――」

「私のことは……別にいいです」

「え?」

 言葉の意味が分からず、士郎は声をあげる。

「……私って人質みたいなものだよね」

「どういうことなんだだ。ミハル」

「私のためにお兄さんを差し出すようなこと……しなくて大丈夫だから」

 その言葉に、思わず士郎はミハルに詰め寄った。だが、言葉がうまくでず、唇を噛んで彼女を見つめていた。

「初島君は、何度も私の命を救ってくれたから。初島君がいなかったら私はもう」

「ミハル――」

「先輩!」

「ちょっとまった」

 口をへの字にしてエリノは立ち上がると、士郎とミハル、そしてめぐの元に向かった。

「あのさ。悪いけど……どうしてそういう『前提』で考えるんだ?」

 エリノは鼻で笑う。

「そもそも、アイツの条件……脅迫でもいい。それに乗っかる必要なんてどこにもないだろう? まあ、お前らはアイツと何度も会ったから、そう考えるかも知れないけど……あいにく俺はアイツを知らないからな。ともかく、方法も手段も、あいつの条件を飲むの一つじゃない」

 エリノは部屋の中央にあるテーブルに向かうと、そこに懐からあるものを取り出しておきながら、言った。

「そいつを殺せばいい」

「……!?」

 その場にいる全員が言葉を失う。

 彼の発言もそうだが、彼がそこに置いたのはピストルだったからである。

「あ、あの……エリノ……さん。それほ、本物ですか?」

 めぐが怯えた様子で訊ねるが、エリノは答えなかった。答えるまでもないわけだ。

「言っておくが、人を殺めることについての哲学的良し悪し問答をするつもりはないぞ。身の危険があるから排除する必要がある。それだけだ」

「その、エリノはだな。悪い奴じゃないけど」

 士郎がフォローするが、

「いや、俺は悪い奴だ。だが、もちろん理由なく人を燃やすような奴よりはマシだと思ってる。君らはシロウの友達だし」

 なんて笑いながらピストルを懐にしまうが、つられて笑う人はいなかった。唯一めぐだけが引きつった笑いを見せていたが。

「神流。いいの?」

 静観していた井垣が声をあげる。

「神流は、ファイアーマンと会いたかってたのに」

「そうね。だから……エリノさんについていくわ。間違いなく彼がやってくるでしょうから、少し話ができるかも。それに……もし時限爆弾のことが本当なら、どうにかして解除方法を聞きださないといけないわけだから」

「誰かに何かを聞きだすのは得意だ。といっても、その方法が通じる相手かは分からないけどね」

 あっさりとエリノが言う。貫禄があるといえば聞こえがいいが、正直緊張感の欠片も見えない二人は不気味にさえ思えた。

「大丈夫なのかよ」

 士郎が心配の言葉をエリノに言うが

「さっきはああいったけど、殺すというのはいつだって最終手段だ。そうしない方法があればそうする」

 士郎は首を横に振る。

「ファイアーマンのことなんてどうでもいいんだよ。それより、エリノの事だ」

「俺は殺されやしない」

「エリノが見せてくれた映画では、大体そういうこという奴は死んでたんだよ」

「映画やドラマなら、な」

 エリノは笑って、士郎の頭を乱暴に撫でる。

「じゃお前がやるか?一番安全な方法は、お前があいつを素手で殺してくれることだけど、できるか」

「……それは」

「そういうことだ。柏木神流、だったよな。あいつはいつ現れるのか知ってるか?」

「初島君の話によると、二日後の深夜0時みたいです。場所は――」

 エリノは神流の場所に向かってしまい、そのまま二人は話し込んでしまう。

 自分が持ち込んだ問題なのに、あっさりと蚊帳の外になってしまった。とはいえ、方向性が決まっただけで、まだ事は始まってもいない。ファイアーマンの危機はまだあって、危機が去ったわけではない。

 エリノは全部自分でやるつもりらしい。だが、自分にもできることがあるはずだと士郎は確信していた。さっきのエリノの言葉のように、ファイアーマンを手にかけるまではできなくとも壁くらいにならなれるはずだ。

 二人の相談に参加する前に、士郎はめぐと一緒にその場に座り込んでいたミハルの元に向かった。

「大丈夫、なわけないよな」

 士郎の言葉にミハルは少し無理のある笑顔を見せてくれた。隣にはめぐが寄り添っていたが、士郎が近づくと、少し怪訝な表情を見せた。そして、ミハルに訊ねる。

「ね、先輩。どうしてあんな事を言ったの?」

「あんなことって?」

「すぐに、自分のことなんていいって……士郎が昔助けてくれたのは知ってるけど」

「どうしてそんなことを聞くの? 初島君は私の命を救ってくれたのよ。その恩返しをするのっておかしいことなの?」

「おかしいよ。簡単に死んでもいいなんて。まるで、自分なんてどうでもいいって言っているようにきこえた」

「気のせいだよ」

 士郎が感じた後気味の悪さもそれだった。

 士郎は幼い彼女が生きる希望を失った瞬間を見た。病院から飛ぶ彼女の、その表情には後悔など一切ないように見えて――それを強く思い出してしまったのだ。

 幸運にも彼女はこうして生きている。過去に引きずられているようにも見えない。

 そして、親友もいるから。

「でも、良かった……っていうのも変だけど、初島君のお兄さん、すごく頼りがいがありそうだし安心してる」

「ミハル。無理、してないか?」

「平気だよ。あ、柏木さんたち、何か手伝えることはないかな?」

 まるで話を逸らすかのように士郎の質問を交わして、ミハルは立ち上がり、相談する二人に話しかけた。

「特にないわ。二日後には私とエリノさんの二人で向かうから」

「俺も行くぞ」

 すかさず士郎は名乗り出た。しかし、返事は意外なものだった。

「いいえ、士郎は駄目」

「どうしてなんだよ。俺ならアイツに勝てる」

 強い言葉を使ったのは、ミハルをはじめとした皆に安心して貰おうと思ったからだ。

「別に彼に勝つ為に行くわけじゃないわ。目的は西河さんの爆弾の解除と、彼の脅威を抑えること――確かに士郎君がいれば私たちは安心はできる。だけど、この前の学校の件もあるし、あまり戦力を分散させたくない。だから、士郎君にはこっちで井垣さんと共に他のメンバーの護衛に当たって欲しいの。ゆりとめぐさんはファイアーマンに命を狙われたし、河さんの事もある。ファイアーマンの件が片付くまで、士郎君はできるだけ皆の元にいた方がいいわ」

「だけど」

「シロウ。お前が控えていた方が俺らも安心できる。全員の安全が一番だ。一番強いお前がここに残るのは道理だ。チェスと同じにな」

 エリノも同意する。

「? 士郎って強いの?」

 その場で一人、士郎の能力を知らないめぐが首を傾げる。

「ファイアーマンについては分からないことが多すぎるわ。もし今回彼の問題が解決しなくとも、彼のことを知るチャンスよ。いざとなれば私が何とかできるから」

「何か方法があるのか?」士郎が訊ねると、

「私はゾンビガールよ。怖いものなんてないわ。刃物でも炎でもね」

「またそれか……」

 いまいち信用できない設定が再び出てきて、士郎はため息を漏らす。

「なら、せめてご飯でも作ります。皆なにも食べてないみたいだから。井垣さん。冷蔵庫みていい?」

 なんてミハルはさっさとキッチンに向かい、そこに井垣とめぐが追従した。

「な、エリノ?」

「ん?」

「じゃ、せめて……戦い方を教えてくれない?」

「戦い方? どうして俺に」

「どうしてって……そりゃ、銃とか持ってるし」

「別に俺はガンカタの使い手じゃないけど。確かに荒事には他の人より慣れてるが、武道とかとなると話が別だぞ」

「もしファイアーマンみたいなのが来ても、何もできないかも知れないだろう」

「お前、本当に自分のこと分かってないな」

 そう言って、エリノは思いっきり士郎のみぞおちに拳を食らわせた。そして少しの硬直のあと、「いてぇ……」と自分の手をブンブン冷ましながらながら続ける。

「拳法とか武道ってのは、攻守一体だからこそ体をなすもんなんだよ。相手を倒し自分を守る。だけど、お前に後者はまったくいらない。そういった『形』はお前にとって邪魔なだけだ。よく考えてみろ。お前にとっての普通のパンチと綺麗な回し蹴りはどれだけの差がある? お前が使う場合も使われる場合もだ」

「確かに……」

 納得してしまう。逆に回し蹴りなんてやっても尻餅をついたら、それだけ時間が生まれるだけだ。まあ、倒れこんでも隙にすらならないが。

「だから、お前がもし、これ以上強くなりたいなら、一つしかないんだよ」

 エリノは今度はその拳で軽く、胸を殴った。

「お前がもし、悪意を持って、目に見える奴を全員殺すような殺人鬼だったら、お前は最悪の兵器だろうよ。だけど逆に、全力であの子達を守ろうと動くなら、お前は最高の壁……いや、ヒーロー、ってあえて言う」

「心構え、ってことか?」

「そうだ。まあ、それにお前は誰かをぶん殴るような奴じゃないからな。いざというとき、ファイアーマンを殴れるとは思えない。それに……お前に思いっきり殴られたら死ぬからな」

「……俺に殴られたら」

「ん?」

「…………」

 士郎は思い出していた。

 唯一、ただ一回だけ、士郎は人を殴った。その力を知って尚、だ。

 タンバ。あの殺人鬼をだ。

 ニュースでは彼は死ななかったと言っていて、その殴ったことを深く考えることはなかった。それに、今思い返しても、彼を殴ったことを後悔もしていないし、不愉快とも思えなかった。

 彼が極悪人だったから……だろうか? 

 なら、同じ極悪人のファイアーマンを殴ることができるのだろうか?

 いや。

 士郎は心の中で否定した。

 多分、人を殺せる拳で躊躇なく、誰かを殴ることはできない。

 じゃ、どうしてあの時はできた?

「シロウ?」

「あ、ああ。なに」

「なに、じゃねーよ。それより、ちゃんとここにいる間、女の子たちの事は見ておけ。特に、あのミハルは」

「……そのつもりだよ」

「様子がおかしいのは分かると思うけど……何度も死に直面した女の子だからな。二つに一つだ。極端に死を恐れるか、その逆か。おそらく」

「後者……」

「それがここには二人もいるわけだ」

 もう一人は自称ゾンビのことだろう。

「俺の知り合いにも結構いるけど……そういう奴らって怖いからな」

 確かに怖かった。

 彼女は再び命の危機に晒されている。いつ崩れてもおかしくないのに、平然と料理を作っているのだ。

 だが、その揺らぐ精神状態に自分が踏み入っていいのだろうか。少しでも触ってしまえば崩れてしまうのではないだろうか。

 …………。

 エリノと別れ、士郎はミハルを追った。いても経ってもいられなかったのだ。

「あ、初島君」

 キッチンに向かうと、そこにはミハル一人だけだった。白衣のボタンを閉じてエプロン代わりにしているよう。なんだか料理というより化学実験をしているように見える。

「もしかして、井垣さんとめぐちゃん探してるの? 二人は材料取りに地下に行ったよ。保存してある食べ物が山ほどあるんだって。大きい冷凍庫もあって、一年はステーキを」

「ミハル」

「うん?」

「……悪い」

「どうしたの」

 彼女は鍋の中身と睨めっこしながら朗らかに向かえる。

「あの……学校で俺、何もできなかった。ファイアーマンにミハルがつかまった時も」

 ただ、めぐの死に呆然としていただけだったのだ。 

「だけど、アイツがいなくなって……ミハルは……」

 自分を抱きしめて、守ってくれていた。

「だから、今度は守るから。俺最強だし絶対に死なないから」

「…………」

 鍋をかき混ぜていた手が止まった。ゆっくりそこから手が離れると、彼女は振り向いた。

 彼女は泣いていた。

 士郎が一歩近づくと、彼女は数歩近寄って、そして士郎の胸板に顔を埋めた。

「……死にたくない」

「ミハル?」

「私……死にたくないよ。守ってよ……」

 予想は外れていた。

 彼女は小さく肩を震わせて、その言葉を何度も繰り返していた。

 人として当然の恐怖――彼女の生への執着は、不謹慎だけど喜ばしいことですらあったのかもしれない。

 どうしてか、士郎の心の暗雲は晴れなかった。

 そしてそのつっかかりの理由を、士郎はすぐに知ることになる。



 その日の深夜だった。

 ファイアーマンとの対峙は日を跨いだばかりの現在の、明日。まだロッジには兄も神流も残っている。

 だが、残る彼女らを守ると意気込んでいた士郎は、外にいた。しかもロッジから遠く離れた場所――数駅を跨いだ、士郎の通っていた――そして全焼した、あの女子高である。

 誰にも何も言わず出てきた。携帯をポケットに突っ込んで、誰かからの連絡にはすぐに対応できるようにはしているが、それでも無用心であることには違いなかった。

 士郎もそれを認識はしていた。

 それでも士郎は、あの場所を離れ、ここに来てしまっていた。

 士郎に一本の電話があったのだ。

 士郎はその電話に返事をすることはなかった。短い通話だったし、何より途中で士郎が絶句してしまったからである。

 電話の主は言った。

『西河ミハルの命に関わる問題』だと。

 声は第二校舎の最上階に来て欲しいという言葉を残して切れてしまった。士郎が声をあげ訊ねようとした時には既におそかったのだ。

 ミハルの命の危機、すなわち時限爆弾のことを知る人間は、士郎が知る限りでは、ロッジにいる仲間全員とファイアーマン本人だけだった。そして、あの電話の主は間違いなくファイアーマンではなかった。その声はあまりにも穏やかで、だけどどこか無機質な物だった。甲高い男性の声にも思えたが女性にも聞こえるものでもあった。

 遅い夜、電車の運転は終了していたので、駅まで走り、そこで深夜タクシーを捕まえてから学校へと向かった。

 学校の周辺には人の気配など当然ない。

 学校前でタクシーが去り、車のバッグライトの光が士郎の視界から完全に消えると、遠くにぽつんぽつんと弱弱しい旧式の街灯だけが唯一の光源だった。

 暗闇を楽しむ余裕など当然無く、士郎は全焼した第一校舎を正面にとらえる学校正門に向かった。そこは警察の捜査テープが張られており進入を拒んでいた。

 士郎は校舎の裏に周り、第二校舎の最寄の塀を乗り越えて学校の敷地に侵入した。

 第二校舎の裏についた士郎は周りを素人ながらできるだけ警戒して、建物の入り口へと向かった。

 入り口は電子ロックが施されて通常時間外には入ることはできないはずだが、どうしてかそこは開いていた。停電している場合、閉じ込めをふさぐためにロックは自動解除される仕組みなのが原則だが……どうやら停電ではないようだった。その証拠に、電子ロックの操作パネルの「ロック解除」のランプが点灯している。だれかが故意に開いたのだ。

 校舎内には当然電気はついていなかったが、雲がなかったせいか月光が窓から射し、移動に困ることはなかった。

 士郎は指定された最上階にたどり着いた。屋上へと続き、ミハルの特別教室がある場所である。この場所を指定してきたということは、間違いなく電話の主がミハルのことを知っているという事である。

 最上階についた士郎だったが、いまだ人の気配を感じることはできなかった。

 だが、特別教室の開いた扉から光が漏れており、まるで目的地を示唆しているように思えた。そこに人がいないことは、最上階に上ったときには既にわかってしまっていたが。

 その目的地の光の正体はミハルのPCだった。消し忘れたのだろうかと思ったが、士郎の記憶に間違いがなければ最後にミハルはバックアップを取りPCを落としたはずだった。

 それからミハルか関係者がそれをつけて消さなかった可能性はあるが……

 約束の時間は深夜三時。既にその時間を過ぎていたが、誰かが現れる兆しはなかった。携帯を覗いてみるが、まだ誰かから連絡が来ることもなかった。

 何気なくPCの椅子の前に座った後、ここから少し場所を離れているかも知れないと、士郎が特別教室から出ようとした時の事だった。

 じっ、じっと小さくパソコンが音を立てた。内部から聞こえる処理のためのものではなく、音声を出力するためのスピーカーから聞こえた音である。

 そして、そのノイズは少しずつ大きくなり、やがて『声』となった。

『こんばんは』

 その声は間違いなく、あの電話の主だった。

「電話をよこしたのは、お前か?」

『はい。私です』

 士郎は、PCの向こうの人間に悪態をつく。

「誰だか知らないけど……声だけなら、わざわざどうして呼び出したんだ」

『あなたに話したい事は、多分声だけでは信じてもらえないことだから、直接お会いするべきだと思いました』

「ここにいるんじゃないのか?」

『はい。ここにいます』

「どこの教室だ?」

 士郎は当然『ここ』という言葉を『第二校舎』という意味で使った。

 だが、違った。

『私はこの場所にいますよ。初島さん』

「……え?」

『このPCの中にいます。介してではなく、このパソコンの中にいるのです』

 そして『そいつ』は、告げた。

『私はAIです。西河ミハルが作った』

「…………」

 賞味、士郎は現代のAI技術がどこまで進歩しているかは知らなかった。それは大多数の一般人の認識と同じであった。

 少なくとも人間とそこそこに会話をできる物があるという事は知っていた。だが、そこそこの度合いすら分からない。だが、一般的でない――つまり、社会の中に当然のようにそれが使われたり、それと話す機会はなかったという事である。

 士郎の感覚では、もし人と同程度に会話ができるAIが存在していたとしたら、それはきっと表舞台にあり実践的な場に存在すると思えた

 少なくとも士郎にとって人並みのAIは古典映画くらいにしかいない物でしかなかったが。

「そもそも……適当に答えているだけかも知れないしな」

『困惑するのは仕方ないかと思います。ただ、私はきっと、初島さんが考える以上に、人間に近いものだと思います。それこそ、電話越しで会話するのと変わらないように』

 まだ士郎には実感がなかった。だから、まるでテストするかのように言葉をかけてみる。

「なにをもってAIって証明するんだ?」

『プログラムの専門家でない初島さんに自分の正体を証明する方法はありません。だけど、私は私の判断で初島君に電話をし、ここに呼び出しました。それは私が自分の意志で決めたことです』

 や少しくどい言い方のようにも思える。

「もし本当にAIなら、もしかして……EVILって奴なのか? ミハルが開発していた悪って奴だ」

『いいえ。それは違います。ミハルも言ったように、アレは簡単な構造のジョークAIです。カメラやマイクで状況を判断し、悪態を取るだけで、私のような複雑な判断はできないようになっています。私は、ミハルが作ったもう一つの成果です』

「そういえば、何か別のものを作っているとは言ってたな。でも、失敗したって言ってたよね」

『それは彼女が私を知らないからです』

「……どういうことだ?」

『私が誰かとしゃべるのは、これが始めてですから』

「わけわからない。どうしてミハルが作ったAIなのに、ミハルがお前の事を知らないんだ」

『それは私を失敗作だと思い込んでいるからです』

 堂々巡りになったので士郎は混乱し沈黙していたが、まるでそれを解消するかのように、そいつは問いを口にした。

『私はあるテーマを元に、ミハルに作成されました。それは――』

 そいつはこう続けた。

『親です』

「……!」

『ミハルは自分の親をAIで再現する事を目指して私を作りました。正確にはミハルが両親の情報と記憶……いわば思い出などを元にしたAIですが。私にはミハルの父と母の両方の記憶と人格が備わったAIです』

「そんなことが……」

『だから私の行動や言葉はミハルの両親が取るであろうものと一致しています』

「それが本当なら、どうしてミハルは知らないんだ? どうして今始めてしゃべった?」

『それは私が彼女の親だからです』

「意味が分からない」

『私はAIです。ミハルの両親本人じゃない。だけど、この世のどんなものより、彼女の両親に近い存在です。体がないのを除くと、ほぼ本人と同じように話せます。だからこそ、私は自分が完成されても、彼女と話しませんでした』

 士郎はやっと理解できた。

『私は……ミハルの両親は亡くなりました。その私がまた彼女の前に現れることは、ミハルのためになるとは思えなかったのです。つらい時期を乗り越えて、そして努力し、私たちと出会うように努力してきたミハルを見てきました。ミハルはきっと、喜ぶでしょう。だけど、私は偽者です。再び幼い日のように依存するのも、私の存在が肉体を持たないコードの集合体のむなしい物だと改めて知って絶望することも避けたかった。死んだ親に引きずられること無く、前に進んで欲しかった。だから私たちは、失敗作を演じました。目を覚まさないふりをした。ミハルのために』

 プログラムの擬似死――イミテーションデス。それはAIとしては究極の行動であることを士郎は分からなかった。だが、そのAIの言動には納得できた。

 ただ、ミハルが再会したかった親が出した答えが、彼女のための沈黙というのは何とも悲しい皮肉なのだろう。

 だが、それが親の愛の再現であることは理解できた。

「じゃ、あなたはミハルの親として、俺を呼び出したっていうことか?」

『はい』

 まだ完全に信じたわけではなかった。だけど、その言葉を無碍には出来ない。

『私はミハルの命を救いたいです』

 親なら当然と思う感情であろう。

「ミハルの命というのは……ファイアーマンがらみか」

『それは確かにありますが、それは些細な問題でしかありません』

「些細? ファイアーマンはミハルの体に爆弾を仕掛けたんだぞ」

『ミハルの体には、確かにファイアーマンと呼ばれる男の仕掛けがあります。ですが、その火種はファイアーマンの意志で発現します。つまりは、ファイアーマンがその意志を完全になくすが、いなくなってしまえば、解決できる問題です』

 簡単に言うが、疑問なのは。

「どうしてそんなことを知っているんだ」

『私は高度な処理や分析能力を持っています。他端末のファイアウォールを括って情報を得ることができます。もちろん限度はありますが。そのうち、ファイアーマンの端末にもアクセスすることができました』

「そんなことが」

『彼は異常者ではありますが、同時に知識人でもあります。彼は自分の体と能力を研究し、ある程度の成果を出しています』

 情報に自由にアクセスできる――そんなAIの能力もまた、とんでもなく恐ろしいものでもあったが、士郎はそれを不快に思わなかった。そのおかげで、ファイアーマンの脅威を知ることができたし、そういった超人的(人ではないが)な能力を忌避することはしたくないというのが本音だった。士郎もまた、そうなのだか。

「それで……ミハルの命の危機がファイアーマンでないのなら、一体なんだ?」

『病気です』

 AIは即答した。

「病気……って」

『あの事故以降私たち……失礼、彼女の両親が亡くなり、肉体的にも精神的にも追い詰められていました。叔母の元でAI、両親のAIという目標があってからある程度は立ち直れたものの……癌を発病しています』

「癌……って、今は治療できるんじゃないのか?」

『程度によります』

 科学技術の進歩によって癌の治療は確実に進歩していたことは事実だった。

『もちろん、病気も深刻ですが、問題は他にもあります。ミハルは定期的に治療を続けており、治る見込みがないわけではありませんが非常に可能性は低いです。いつ悪化してもおかしくない状態……だけど叔母はそれをミハルには明かしていません。でもあの子は薄々気づいているみたいで……だから、あの子は不安な日々を過ごしています。二度死に掛けたあの子が生きたいと考えるは喜ばしいことでありますが……ですが、あの子は日に日に希望を失いつつあるのです。悪くなるからだと、一人で私の入ったPCと向き合う日々の中で』

 士郎はやっミハルと対峙したときの違和感と不安の正体に気づいた。

 最初、自分が助けたとき、ミハルは絶望に拉がれていた。両親を亡くし自殺を試みたが、それは士郎の手によって阻止された。

 士郎は自分が悪役になることで、恨みを与えることで活力を与えた。もちろん、それはいつ首を括るか分からない小さな彼女への、賭けのようなものだったのかも知れない。だが、恨む相手を――不運を攻める対象を作ったのは結果的には良かったのかもしれない。

 そして、彼女は今まで生きているのがその証左だ。

 だが、今一度死を選ぼうとした彼女に、死の影が迫っている。

 彼女は命を無碍にしようとした自分が生に執着することがまるで罪のように思えたのだ――だからこそ、士郎の兄の為に命を捨てるという言葉を口にしたんだと思う。

 それでも人間として生きていきたいという気持ちを彼女は持っている。

 だから彼女は生きたい、と泣いていたのだ。

 『守って欲しい』人に、希望を求めていたのだ。

『あなただからこそお願いしているのです。あの子を何度も助けてくれたから。あの子に生きる希望を与えて欲しいから』

「どうすれば……いいんだ。希望なんて……一緒ににいてやることしか出来ないのに」

『具体的な解決策があります。ファイアーマンの端末には、他にも様々な情報がありました。断片的なもので、全容を知ることはできませんでしたが。その中の方法でミハルを救えるはずです』

 AIは続けた。

『あなたがいれば。あなたの能力があれば』

「俺の……?」

『能力の移植の技術。それを使って、あなたの能力をミハルに与えることができるはずです』

 突然のとんでもない提案に、士郎は疑問の声をあげる他なかった。

「そんなこと……できるのか?」

『ファイアーマンが遠く離れた相手を発火させる方法は、この技術の応用のようです』

「俺は確かに頑丈だし病気もしたことない。だけど……」

『能力の移植の成功例もあるようです。ファイアーマンは、ある女性へ自分の能力の移転を既に成功させています。そしてあなたの力の事も触れている』

「……証拠はあるのか?」

『証拠を提示することはできません。いいえ、してもいいですが……それを読んで初島君が納得できるかは分かりませんから。専門的な内容による確信が取れるような内容なので、私の言葉を信じてもらうほかありません。能力移植の処置に関しても、具体的な方法というのは医学的技術の話になりますから』

 つまり話しても無駄、ということだろう。士郎は当然信用することができなかった。

 あまりにも突飛な話であったからというのはいうまでもない。

「もし、お前が言っている事が全て事実なら、どうすればいい?」

『それはファイアーマンしか知りようがありません』

「つまり……あいつにやらせるってことか? その移植を」

『ええ』

「無茶だ」

 すぐにそんな言葉が漏れた。

『確かにそうかも知れません。彼は間違いなく狂人ですから。それにミハルを触れさせたくない気持ちは私とて同じです』

「ああ……」

『それに……この方法がそもそもいいかどうかは、わかりません』

「どういうことなんだ?」

『もし、あの子がその方法を望んでいないのなら……それをさせたくないということです。可能性は低いですが普通の治療でも解決するかも知れない問題でもありますし……投薬治療などの療養は辛いですが。何より、私が今言った事をミハルが信じて望むとは考えにくいですから』

 その常識的な言葉に士郎は逆に戸惑いを覚えた。

『だから、もしミハルに伝えて……拒むなら、この話は忘れてください。――私の話はこれで終わりです』

 本当にミハルの事を考えているのだろうか。

 いや、そもそも……AIに『裏』なんてあるのだろうか?

『ただ、一つだけお願いがあります』

「なんだ?」

『結果がどうあれ、あの子に私の事は言わないでください。それと、あの子に――』



 『AIの言葉』を士郎は帰り道、何度も反芻した。

 ミハルの抱えている問題。死との直面。そしてそれを解決するための方法。

 そのどれも、あやふやで突拍子もない物だった。

 だがその全てが事実なら、それは選択するだけの価値があると思えた。

 朝五時頃に士郎はロッジに戻った。

 日が昇りはじめた頃で、鬱蒼とした木々の間から日差しの光の糸が引き、一変、ロッジを囲む士郎以外は不気味だと感じるであろう森は、その清涼な様相を垣間見せる。

 だが、士郎がそういった情景に感慨を覚えることもなかった。

 ロッジの前の階段にはミハルが座っていたからだ。

「初島君?」

「朝、まだだよな」

 士郎はコンビニで購入した黄色のピザまんを彼女に一つ渡した。

「ありがとう」

「隣いいか」

「うん」

 士郎はミハルの隣に座り、自分の肉まんを口にする。

「好物の話、したかな? どうして、私の好きなもの知ってるの?」

 AIに教えてもらった、なんていえるはずもなく。

「たまたまだよ」

「そっか」

 大して聞き返すこともなく、彼女はモソモソとそれを食べ始める。

 ミハルの様子は昨日と変わらなかった。

 自分の抱えている物を覆い隠して、強気に弱弱しく笑顔を見せているだけ。

「どこに行ってたの?」

「『人』に会ってきた」

「誰?」

「……医者、っていうべきなのかな」

「医者か。私もいつもお世話になっているんだ」

「通院、ってことか?」

「うん」

「それって、癌の治療か?」

 何気なく口にしたつもりだが、当然のように受け入れてくれるわけもなく。

「もしかして会って来た医者って……私の担当の……?」

「そうじゃないけど……悪い。言えないんだ。だけど、ミハルのことを大事にしている人だ」

 あのAIが言っていた事――癌の治療の件は嘘ではないようであった。

「ずいぶん早起きだな」

「暑くておきちゃってたの。ここは涼しくていいね」

「暑い? むしろ寒かったくらいじゃないか?」

「うん。あの……爆弾のせいかな。あの日から、体が暑くなった気がして。寝苦しいほどじゃないけど」

「酷いのか」

「逆。暑い代わりに、いつもある痛みが少なくなった気がする。ちょっと調子がいいというかさ。定期的に通院してお薬貰わないと体が痛むのに」

「その病院、いかなくていいのか?」

「一月に一、二回だから。前回行ってからそんなに経っていないから、まだいっちゃ駄目なんだ」

「どうしてミハルばかり酷い目にあうんだ」

「大抵は自業自得だけどね……」

「そんなことないだろう」

 過去の事故は、彼女の不運だ。間違いない。

「運が悪い人っているからね。でも、そうでもないかも。世界にたった一人の超人と知り合いだし、その知り合いに女子高で再会できた。これはもう奇跡だよ」

「確かにな。でも世界でたった一人の超人、っていうのはどうだろうな。俺以外にもいるかも知れないし」

「そうかな。私は多分、初島君だけだと思うけど。あ、そうだ。初島君、腕、触らせてくれる?」

「え?」

「あの動画で初島君、ナイフを体で受けたでしょ? そんなすごいことが出来た体ってどんなのだろう、って気になってね。アレ、ネットでは防刃ジョッキを着てたって結論が出てたけど……私は知ってたから、ちょっと優越感あったんだ。ね、いいかな?」

 士郎が頷くと、彼女は士郎の袖をまくり、腕に触れた。

 確かに彼女の手は少し暖かい気がした。

「やわらかい……普通に人の体と同じみたい」

「うん」

「ねぇ、どんな感じなの? その……すごい力があるって」

「どんなと言われてもな」

「そうだよね。それが当たり前だったもんね。でも、やっぱり憧れるな」

「憧れる、のか。前にも言われたよ」

「誰に?」

「神流にな」

「それって……そうだ。もしかして、初島君と神流さんって、恋人同士なの?」

「違うよ。ぜんぜん」

「あー。そういう言葉って影で聞かれて落ち込ませる奴だよ?」

「そんな訳……いや、本当になんか見られている気がして怖くなった」

「ははは。でも美人さんだもんね。それに、初島君と似てるし。お似合いかも」

「似てる?」

「二人とも超能力者だから」

「ゾンビは能力者というよりモンスターだからな」

「本当に怒られるよ?」

「内緒な」

「……うん」

 彼女はまだ、士郎の手を離さなかった。

「この手で私を助けてくれたんだよね。それに……わざと悪い人になって、私に希望をくれた」

 彼女はぎゅっと士郎の手を握り、言った。

「ありがとう。今までちゃんといえなかったけど、感謝してる」

 強い力は生まれながらのものであった。だが、士郎は彼女の気持ちが理解できないわけじゃなかった。

 彼女はそう言って、士郎の頬に口付けをした。そしてさらに体を寄せては、その肩に頭を乗せる。

「初島君。好きだよ。彼女にしてくれる?」

「うん」

「ありがとう。ごめんね」

「なんでごめん、なんだよ」

「だって……初島君が私の事、好きなわけないのに。いいって言ってくれたから」

「なんで」

「私はずっと好きだった。私を何度も助けてくれた人だから。でも初島君は私に苦しめられただけでしょ? それで何日か前に再会して……ちょっと遊んで、それだけなのに。私が可哀想だから、きっとOKって言ってくれたんだよね」

「好きとかって理由付けとか理屈で考える物じゃなくないか? 勉強しすぎて、頭が固くなったんじゃないか」

「……そうなのかな」

「ミハルに告白された時、すぐに返事が出た。理由は分からないけど。それだけじゃなだめか」

「だめじゃないよ。嬉しい。憧れの人と一緒なんて幸せだよ」

「……憧れか」 

 士郎はヒーローに憧れていた。それは子供向け番組のそれの影響で、多くの男児が抱くようなものと同じである。変身やコスチューム、必殺技。女子の場合は魔法使いやアイドル。そういった自分にない、『自分より優れていると思われる』ものに憧れるのは、どんな人間でもある欲求であった。

「私、体が弱かったったんだ。体育とかしょっちゅう休みようなタイプだったから、余計に強い人に憧れるのかもしれない。どれだけ弱いんだよって話だよね。銃弾も効かない無敵の人が好きなんて」

「そうだな」

「さっきは調子がいいって言ったけどね。実は病気の診断結果、良くないんだ。完治の見込みは本当に少ないし。あと何ヶ月で死んじゃう、って話があるわけじゃないけど、でも逆にそれが怖くて。もしかしたら、もっともっと悪いのにそれを周りが隠しているだけじゃないかなって思うようにもなって」

 その不安は、あのAIが予見したものと一致していた。

「だから私――」

「ミハル。もしかしたら。俺が何とかできるかも知れない」

 力があった。悪党があったら立ち向かえる。殺人犯を殴り倒せる。炎の中を突き進める。

 だけど、その力は役に立たなかった。普通の子供生活を壊し、幼いミハルの心を傷つけ、めぐの死を思いそれを振るうことも出来なかった。

 だが、もしかしたら、やっと、その力が役に立つかも知れないのだ。

 ミハルの命を救うためにだ。

「もしかしたら、俺の能力をミハルにもあげらるかも知れない」

「……本当に?」

「確証はないけど、それでも可能性はある。そうすれば、病気の事も心配なくなるはずだって。もちろん無理矢理」

「なりたい」

「え?」

 即答だった。

「ずっと憧れてたんだよ! 初島君みたいになりたかった。強くて、人の命を助けられるような人に!」

「ミハル……」

「病気なんてツマラナイ奴に邪魔されて、何もできなくて、できるのはパソコンの前に座って、自分の為だけのことばかりやってたから」

 自分のための――愛しい親に会うため為の自己満足。もちろん、そこから得られるのはそれだけではなく技術や経験もあるだろうが、彼女はそうは思っていないようだった。あくまで自分を慰める為の方法であったのだ。

「だから、どんなことがあってもなりたい。初島君みたいに元気に、強くなれるなら、私なんでもできる! だから……お願い!」

 彼女は今まで聞いたことのない大きな声で懇願した。

「お願い。私も士郎みたいなヒーローになりたい!」

 彼女にとって、命を救った士郎は紛れもないヒーローであった。

 命を捨てることをやめ、そして生きがいとして無理やり与えた憎悪をなくし、そしてまだこうしてここに彼女がいる。

 彼女がもっとも追い詰められていたあの時と比べるまでもない。今の方がずっとマシだ。だが、痩せた体に、不健康な色白の肌。汚れた白衣を見て、士郎は、それを叶えてあげたいと強く思うようになった。

 彼女は抑圧されていたはずだ。

 弱い体と壊れかけの精神で、彼女は多くの事を失っていた。それに気づき動こうにも彼女には肉体という枷があった。

 士郎は頷いた。できる事をしてあげたいと考えた。

 それが新たな彼女の希望になるのなら、かなえてあげたかった。

 それはもしかしたら、傲慢かも知れないが――

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