5話 「小さな悪党」

 士郎の特殊な力は生まれながらのもので、士郎は自分自身すら知らぬうちに、多くのトラブルに巻き込まれていた。友人の怪我、遊具の破壊、そういったものだ。

 だが、そうした時期が過ぎ、自分の明確な意思で行動できるようになってからは、彼の生活は驚く程に安定していた。もちろん、学校にあまり通わなくなったせいでもあるが。

 もっとも身近な人物であるエリノは、士郎に彼自身の異常さと、その振舞い方を徹底的に叩き込んだお陰でもあった。

 エリノは器用な人間ではなかったが、士郎に対する愛情は嘘ではなかった。だからこそ、士郎はそれに大人しく従ったし、またそうして平穏な時間を過ごす事が出来ていた。

 しかし、ふと士郎人生の中で時々自分を省みる。

 すると、それは当然のごとく『比較』となり、自分の強力さを意識する。

 その意識は士郎自身に影響を及ぼす。

 影響の一つにはネガティブな奴がある。いくら『強い』とはいえ、人間離れしたそれは自分の立場を狭くしていることを意識してしまう時だ。

 そして二つ目は、その力を優越と感じる事。

 士郎が中学生の頃に、その二つ目が萌芽していた。


 今から五年前。中学生の士郎は鍵っ子だった。

 エリノが収入を得るため外出し、夜遅く帰宅する。時には何日も帰らない日もあったが、その分、エリノの収入は凄まじいものがあり、その時間が対価であることも士郎は納得していた。

 幸いにも退屈はテレビゲームが紛らわせてくれた。

 あまり友達と遊ぶことはしなかった。そうしているうちに夢中になれば、秘密はすぐに露呈する。それを抑えて楽しむことなんて無理であると士郎は自覚していた。

 なので、士郎は学校以外の一日の大部分をゲームですごした。

 それが逃避なのか悪癖なのか分からないが、単純にそれで士郎はある程度の満足は出来ていたのだ。ゲームを止める両親もおらず、コントローラーを力んで破壊しても問題にはならなかった。

 だが、今士郎が考えるに、それは人生の放棄だったと思う。

 未来を考えられないから――ただ、この身の置き方を分からず、時間を過ごすしかなかった――だからこその、暇つぶし。それが全てだった。


「ただいま」

 エリノが帰宅すると、幼い士郎はゲームパットを床に置き、彼を迎えた。

 エリノは草臥れていたが、その手には馴染みのオモチャ屋の紙袋があった。

「新しいゲーム買ってきたぞ。ほら、テレビでやってた」

「大丈夫か? 兄貴」

 彼は答えることなく、笑顔で士郎の頭を撫でた。

 エリノの恰好は普段着にコートを羽織っただけのもので、社会人というには余りにも簡素で汚れていた。

 そして、その汚れの中には、赤い物もあった。

 血である。

「無理するなって」

「無理なんてしてねぇ。無敵のお兄ちゃんだ」

 エリノの仕事を士郎は現在でも知らない。

 だが、それが真っ当なものではないという事だけは気づいていた。

 エリノは日本で通常では手に入るはずもないピストルを持っていたし、その赤い染みが血痕である事も知っていた。

 仕事について、エリノはこう語る。

「今日の悪党はしつこくてな」

 エリノは自分の仕事がヒーローだと語った。

 悪党を倒し、金を稼いでいる。

 現代社会でそんな用心棒のような物は、そうあるものじゃない。警備会社のボディーガードが近いかも知れないが、年中血をつけて回るような物ではない。

 だが、エリノは一貫して自分がやっていることは『ヒーロー業』と語る。

 仕事の結果、生きていくことができる。だから内容は問題じゃない。生きていける結果こそが、二人の家族の中では正義であった。

「さあ、ひとっ風呂浴びたらゲームでもやろうぜ。この世の中、ゲームより楽しいことはねぇよ。な?」

 エリノの提案に、士郎は頷いた。 


 中学生の士郎の視界――物理的なそれではなく、人生におけるそれは、中学生相応に狭かった。いや、人との関わりを極力減らしていた分、さらに狭かった。

 だから、この頃の士郎にとっては一日一日をより愉快に楽しく過ごすだけが全てで、問題も葛藤も少なかった。少なくとも士郎自身には。

 その日も、エリノは部屋でぐっすり眠っていた。金はあるからと、ベッドや枕をはじめとして就寝道具の数々は高級なもので、彼自身も気に入っていた。疲労したエリノがそこで眠ると、下手したら丸一日目を覚まさないこともあった。

 枕元に空になったワインがある事を確認して、士郎は深夜0時直前に、隔日くらいでやっていたある事を実行した。

 それは子供のお遊びの範疇であった。少なくとも士郎にとっては、だが。

 


 自宅マンションの屋上から眺める夜の街は、まるで自分を招いているかのように思えた。だが、士郎はそこを目指したりはしない。人で溢れる夜の街にとって『子供』は、それがたとえ超能力少年の士郎でなかったとしては迷惑で目立つ存在だったからだ。

 だから士郎は眺めるだけに留めて、そこを背にする。

 目の前にはは山を切り開いた高速道路と、その道路を照らす街灯だけがぽつぽつと並ぶ寂しげな場所があった。そこの道は、さきほど眼前に見えていた街に向かうための入り口で出口でもある。

 そこの森が、士郎の遊び場だった。

 地面を蹴る。アスファルトを砕ける程の脚力があれば、その跳躍は人間の限界のそれを優に超えていた。

 八階たてのマンションの屋上から十五階ほどの高さに達した士郎は、その夜風の快感と、味気ない光景が高速に流れていく場面を全力で楽しみながら、土の地面に着地した。

 落ち葉がクッションとなって大きな音はしなかった。士郎の超人的な行為でさえ、この一帯には何の変化も齎さないのだ。

 この場所は士郎を受け入れる懐の深い遊び場だったのだ。士郎がここを遊び場に選んだ理由でもあった。

 暗闇は好きだった。電気を点けて寝る友達を理解できないでいた。それは、暗闇という未知の空間から飛び出す想像できる何もかもに影響されない士郎の人生があったこそである。 

 そして、暗闇から恐怖がなくなれば、残るのは好奇心と冒険だけなのだ。

 夜の森と山は楽しい。瞳を不気味に輝かせる動物に会えればラッキーだ。

 今までで一番面白かったのは、熊との遭遇である。熊はこちらを見るや否や、全速力で自分から逃げて行った。当然士郎はそれを追いかけ、そして小さな洞窟まで追い詰めた。もちろん、士郎に全く臆す必要もなく、追い詰められた熊は唸り士郎を襲った。しかし、熊がいくら士郎を引っかこうとも噛もうとも、何も変わらない状況に困惑しているようで、しばらくそれを続けていたが、反応もなく、ただただ『じゃれている』熊を士郎は撫で続けていて――しばらくすると、危害を加えず、与えられない士郎という存在に納得したのか、借りてきたような犬のように熊は大人しくなっていた。時に人間より融通が利くのが動物である。

 士郎はその熊と仲良くなったと思っていたが、次の日、熊は巣を捨てて逃げていた。申し訳ないことをしたと思う。

 士郎はさすがに弱肉強食のピラミットに君臨するわけにもいかず、それからは野生動物との干渉は控えている。

 今はもっと楽しい遊びを知っているから、可哀想な熊を増やすことはもうないだろう。

 ごっこ遊びだ。だ山を歩き、時に走るだけだが、彼の顔にはオモチャの仮面がつけられている。日曜の朝にやるようなヒーロー番組のそれだ。

 夜の山で遊ぶ少年、である正体を隠す意味もあったが、やはり頭の中で最強の自分と空想の敵と戦うための芝居道具である意味が大きい。

 そして何度か――仮想でない敵と出会った事がある。

 森の中を歩くと、開けた場所がある。ゴルフコースに隣接した、ショッピングモールやドッグラン、その他娯楽施設などがある有料のキャンプ地であった。

 当然街より活気こそなかったものの、夜遅くでも人が外を出歩き、楽しい娯楽の時間を過ごしているのを見かけている。夜でも親連れの子供も多く、そこでは士郎のような子供が堂々と歩いてもなんだ咎めはなかった。

 士郎は遊びの王道パターンを確立したのである。自然の中が飽きれば人工物で出来た場所で遊ぶ、というわけだ。

 分かりやすい遊び場としては、ゲームセンターやスポーツ用品を貸し出す運動場なんかがあったが、一番楽しい遊びは偶に起きるハプニングだった。

 今日も士郎は、このキャンプ場に来ていた。

 シーズン外れのせいか、いい天気なのにも関わらずビアホールやバーベキュー場には空きが目立つ。とはいえ、ある程度盛り上がっている集団はあるみたいだ。

 士郎は目立たない駐車場の隅で、そのあたりを眺める。すると、その集団の中からフラフラ出てきた一人のガラの悪い男が出てきた。パンチパーマに派手なシャツの筋肉質の男。

 これは期待できる。 

 さらに、向こうからやってきるのは短いスカートを履いた女性。互いに存在に気づいていないようだったが――すぐに対面することになる。

 曲がり角でぶつかりそうになった二人。女性は「おっと」といった感じで一度体を避けて去っていったが、その女性を男はしばらく眺めて、声をかけた。。

 会話の内容は大したものじゃない。男の方が可愛いだの一緒に飲みに行こうだのペチャクチャしゃべって、それを女性が頑として拒否しているやつである。

 大抵はすぐに終わるような会話だが、どちらかに酔いが回っていると面倒なことになる。予想通り、少しずつ男の絡みが乱暴なものとなっていた。

 男が女性の腕を掴んだとき、士郎はおもちゃのヒーロー仮面をつけた。

「だから付き合えって。みんな女の子がいないからつまらないんだよ」

「やめてください。そういうの興味ないです」

「だから――」

 士郎は男と女の間を割って入った。思わず男は手を離し、その子供の乱入に少しばかり驚く。そしてすぐに不愉快になったのは、自分を見上げる男の子の仮面が正義のヒーローのそれであることを知っていたからである。

 悪行は指摘された時が一番腹だたしいものだ。

「おい、夜に子供がなにやってんだ。引っ込んでろ」

 と男が少し乱暴に士郎を跳ね飛ばそうとした時だった。当然、酔っ払いの腕で士郎は微動たりともすることない。

 まるで電柱か何かを押した感触を覚えた男は、更に不愉快になった。それこそ赤子の手をひねるように簡単そうな事が、うまくいかないときは苛立つものだ。

「この――」

 何かの間違いであると男が考え、目の前の少年を思いっきりつき飛ばそうとした時だった。男の手の振り始めで、士郎はその手首を掴んでしまったのだ。

「!」

 その拘束はいくら男が抵抗してもビクともしない。その拘束の厳しさと筋力が尋常でないものだと酔った頭が気づく。

 抵抗するにつれ、その拘束は強力になっていく。最初は負けじと唇を噛んでいたが。その痛みが際限なく増し続けること気づき、ついには恐ろしくなってしまう。

 降参は早かった。

「わ、わるかったやめてくれ……」

 なんて気弱な言葉を吐いてしまう。

 士郎が手を離すと、男は痕がつくほど握られた腕を見ながら、そこからそそくさに退散してしまった。

 女性は腰を落として士郎に視線を合わせ、感謝した。

「わぁ、ありがとう! すっごい力持ちね、きみ!」

 子供相手だからなのか、先ほど男を拒絶した時の低い声はすっかり明るく穏やかな物になっている。

「こううまい所握ると痛いんだよ。別につよくないよ」

 なんて適当な事を言って、士郎は得意げになっていた。

 これが、遊びだ。

 ヒーローの仮面を被って、本物のヒーローみたいに人助けをするって遊びだ。

 今みたいに力づくで解決できることが、このような酒の場所では多い……といっても、これで二回目だが。一回目は先日、喧嘩をはじめた二人を収めることができた。

「まったくあの男はね。私は興味ないって言ったのにね? そうだ! 一緒に来ない? ほら、仮面とって見せて。可愛い顔、見せてほしいなぁ」

 どうやら、彼女も酔っ払っているようだ。そしてやたら口調が艶かしいとは気のせいだろうか。士郎は知らなかったが、彼女は士郎に成人男性には抱いていない『興味』を持っていたのだ。そういう女性だったのである。

「あっ」

 士郎は彼女を振り払うようにして、その場から逃げ出し、森の中に入ってしまった。

「よし!」 

 快感だった。

 周りの誰もが出来ないことを簡単に子供の身でやり遂げることは、何ともいえぬ優越感に浸ることができていたのだ。

 顔は隠しているが、キャンプ場でトラブルを解決する子供ということで覚えられるとマズイ、だなんて頭にはなかった。ただ、あの場でのトラブルはそう多くないのが残念ではあった。現代の居酒屋やビアホールに西部劇のように用心棒がいないことが何よりの証拠である。

 士郎の中での英雄願望は少しずつ増して行くのだった。


 士郎の体は人より『強い』ものだった。

 それは肉体的な意味だけでない。心はともかく、病気や通常の生活においてもだ。

 例えば睡眠や食事を摂ることへの欲求を抑えることができた。習慣として食事と睡眠をとっており、それをしなければ気だるくはあったが、それが致命的な喪失に繋がるような感じは全くしなかった。だからこそ、こうして夜二時を回っても、全く疲れを覚えることがなかったのだ。

 士郎は統計二度目の人助けに高揚していた。

 仮面をはずすことも忘れ、士郎はどんどん森の奥へと歩いてゆく。

 ちなみに迷子になることはない。いざ道がなくなれば、高い所から光景を確認する方法はある。木に登ったりジャンプすればいい。

 住んでいるマンション地区もこの一帯じゃ目立つ高さなので、それを目印に歩けば絶対帰宅することができる。道がなくともまっすぐ歩けるのは利点だ。ともかく、そういった心配がないのだから、どこまでも自由にできるわけだ。

 士郎は考える。今日じゃなくても――いつか、街に向かおうかと。

 街から遠く離れた外れのマンションに住むのも、街から遠ざかって生活するのが好都合であるためにだと知っていた。

 だが、の力があれば助かる人がいると考えると、そういって隠れて済むのは、まるで卑怯者のようにさえ思えてしまっていた。

 そうして士郎は新たな遊びを手に入れた。それは、街にヒーローとして向かった時に、どう振舞うかということを考える遊びだ。

 例えば顔が隠れるようなコスチュームをするとか――それでそのコスチュームはどんなデザインにするか――と、思考が連鎖し無限の遊びが脳内に広がる。

 一つ違うのは、それは妄想ではなく、いつか現実にしてしまおうと士郎が考えていることだった。

 そんな思考をめぐらせて森を歩いていたが、いい時間でもあったし、今思いついたことを全部整理してまとめようと思いつき士郎は帰宅することを決めた。

 その時である。

 士郎の敏感な聴力が、普段耳にすることのない不穏な破壊音を捉えた。

 それはゲームなんかでは良く聞く、ガラスが割られる衝撃音。そして、その直前にはキーッという、甲高い音だ。

 士郎は音の正体をすぐにつきとめることができた。

 士郎から見下ろす位置にある、高速道路。その高い音は、タイヤとアスファルトの道路が摩擦した時の音だったのだ。

 交通事故だった。

 道路の真ん中に往生する、トレーラーつきの巨大トラックが横転していたそして、その向かい側に止まっている軽自動車一台。おそらくこの二台の衝突だ。

 周りに人の目も車もなく、ただその二台だけが乱暴に置かれたオモチャのように、ぽつんと置いてあるだけだった。

 そう。それはまるでオモチャの道路のよう。現実感は沸かなかった。

 そこに乗っているのが人である事を頭が理解するのに少しばかり時間が掛かっていた。

「やば……」

 士郎は携帯を持っていなかった。確実に無くす自信があったから、置いてきたのだ。

 士郎はその現場に引き寄せられるように歩いて向かった。

 現場は急カーブだった。どちらが車線を間違えていて、角に現れた対向車を回避できる正面衝突したようである。

 怖いもの知らずであったと自覚はしていたが、その場所はどうにも不気味だった。

 開けて光源もある場所で、何を怖がっているのだろうか? 士郎は自問する。たとえここが200KMで車が走るレース場だったとしても、自分にとって恐れるはずのない場所であったのにだ。

 再び、耳が音を捉えた。

 カリッ、と何かを引っかくような音。そしてそれは横転したトラックの運転席にあった。

 運転席のフロントガラス、ひび割れたそこから軋む音。そして、それが音を立てるのは、そこに――人が乗っていたからだった。

 運転手であっただろう男は、そのガラスに内側から衝突していたようだった。視力が優れていたせいか、そこに乗っていた男が即死であることを士郎は瞬時に把握できた。

 人間の頭蓋骨の形状とは異なる形になっていたそれを、士郎はほんの一秒目にしていた。

 士郎は無敵ではなかった。

 付き合いの悪い士郎は学校で苛められたことがある。友達がいなかったことを寂しいと思ったことがある。飼ってたペットが死んだこともある。

 士郎は無敵にはなれないのだ。

 怖くなった士郎は、すぐに逃げ出そうとした。だが、士郎の耳は、それを許さなかった。

「うう……」

 小さな声がしたのだ。もう一つの、軽自動車のほうから、それが聞こえた。

 軽自動車は酷いありようだった。フロント部分はまるでアコーディオンのようにクシャクシャに皺を作っており、車の形を保ってさえいなかった。

 そんな場所から確かに声がしたのだ。

 士郎は近づく。さきほどのトラックの運転席のような光景でないことを祈りながら。

 最初に見えたのは助手席だった。そこには女性がいるようだったが、不幸中の幸いか、うつぶせになっており顔は見えなかった。だが、こちらもフロントガラスに頭部を打ち付けたらしく、ぴくりとも動かない。

 そして、運転席。

「!」

 そこにいた男性は、目を見開いていた。だが死んではないない。その瞳の黒点はキョロキョロとせわしなく動いている。

「はぁ……はぁ」

 男の息は激しく、体中から汗が噴出している。

 いや、体中というのは語弊があるかも知れない。士郎からは彼の顔以外は良く見えたなかったのだ。だが、彼の下半身が見えていなかったからこそ、士郎はその場から逃げなかったのかもしれない。

 そしてすぐに彼の目と仮面の下に隠れていた士郎の目が合った。

「たす……けて」

 男は枯れた声で訴えていた。

 中学生になりたての士郎がその場を放棄し逃げ出さなかったのは、その体の性質上、比較的豪胆であったからかも知れない。

 士郎は近づいた。男を彼の座席側から接近する。男は首を動かせないようで、必然と彼との視線は外れていた。だから、士郎は自分で考える必要があった。

 そして扉を開いて彼を車から出す――導き出された答えはそれだった。それが本当に彼を助けることになるか、ということなど考えられるはずもなく。

 だが、扉に触れた時、運転席の男は答えをくれた。

「う、しろ……」

 最初、その言葉の意味が理解できなかった。だが、すこし経ってそれが後部座席を指しているということに気が付いた。

 後部座席のシートには、一人の女の子――自分とおなじくらいの年齢だった。彼女は出血はなく、体をすりむいているようで息があるように見えた。意識はないようだが、運転席と助手席の二人と比べるまでもない。

 その子を助けろ、ということだろうか。

 士郎は分からなかった。道理など知らなかった。だが、小さい女の子を先に助けるという誰が決めたか分からない基準に本能的に従い、ゆがんだ後部座席の扉を怪力で無理やり開いては、女の子の体を抱えた。

 その女の子の息遣いと体温を感じることができた。間違いなく生きている。

 そこからどうすればいいかわからなかった。当然治療もできない。携帯もない――本当なら、おそらく家族であろう彼らの体を漁り携帯を見つけるべきだが、そこまで士郎は考えることができなかったし、大量出血している二人に触れることは憚れた。

 士郎が取るべき最良の行動は、間違いなく少し歩いた先の道路にある、高速道路に必ず存在する緊急用の電話で救急を呼ぶことだった。少し時間があれば、士郎はその選択肢を取ることが出来たかもしれない。

 しかし、士郎は一つのことしか出来なかった。彼女を抱えたまま、こう言うことである。

「この子は無事です」

 その言葉は、はたして父であろう彼に届いていたのだろうか。

 分からない。

 新しい大きな音が、全ての声を飲み込んだから。

 ただ地面に転がっていたトレーラーが、やってきた『三台目』の車両に押し出され、こちらに押し寄せる音が、士郎の声だけではなく、その場に全てをかき消していた。


 そして。

 夜明け頃、匿名の通報により現場には救急隊が駆けつけた。

 それから数時間後の現場検証で、その事故現場ではいくつかの不審点が見つかる。

 車から見つかった家族以外の者の子供の指紋。不自然に『切り取られた』後部座席。そして、事故で倒れたトレーラーに新たな車が突っ込むという二次事故が起きた際に、押し出されたそのトレーラーが何か『現場にない小さいもの』に衝突し凹んだこと。クシャクシャになったゴムが千切れた男の子が好きな番組のヒーローの仮面。 

 そして通報者の『後ろにいた子供は自分が病院に運んだ』という言葉と、実際にそれが行われた事実であるということだった。


 

 士郎は泣いていた。

 夜明けの道を歩きながら、小さくグズっていた。

 病院に少女を置いて、そこから逃げるように出てきた、

 家に向かって前も見ずに、自分の影だけを見て、歩いていた。

 その影に、大きな影がやってきて、士郎は止まった。

「シロウ」

 士郎は愛しい人を見上げて、こう言った。

「仮面……なくしちゃった」


 

 ヒーローなら、事故現場で、どうするべきだったのだろうか。

 ヒーローなら、今、どうすればいいのか。

 

 士郎は幸運だった。

 あの事故に巻き込まれた子と違って、それを教えてくれる人がいたから。

 エリノが教えてくれたのは、ヒーローならの答えではない。

 初島 士郎としてどうするべきかを、教えてくれた。

 士郎にはそれが、困難すぎるものだと思えた。

 手に負えなくなったら、絶対に俺に言え。

 そう、エリノは言った。だけど士郎は、そうできないと思った。

 これ以上甘えてはいけないという気持ちではなく、これ以上彼に手間をかけるのが、ひどくいけないことのように思えたから。

 だけど、それでまた、未熟な自分一人で何かをすることが、誰かにとって大事なものを失うことになるかも知れないことを、士郎はまた分からなかった。



 士郎が動くことができたのは二日後からだった。

 能力のおかげで、一度も病気らしい病気などしたことのない士郎だったが、倦怠感と継続した体の痛みを覚えていた。そのおぼろげな苦痛が心の問題であるということは、教えてもらわなくても薄々気づけた。

 夕方、士郎はあの病院へと向かった。自分があの女の子を担いで向かった場所である。

 あの子に会うためだった。

 しかし、その日は目的を達成させることはできなかった。

 少女の知り合いを装って(うそではないが)たずねてみたものの、彼女は面会謝絶とのこと。重症であるはずがない、と士郎は勘ぐったが、それが精神的な問題によるものであることを知る。

 当然のことだった。彼女は家族を失っているのだ。

 その事実は、これから彼女に会う士郎にも大きな負担を与えていた。それでも士郎は、毎日病院に通っては、会えず帰される日を続けた。

 数日後なら会える、という関係者の言葉はあったものの、正確にいつ彼女と会えるなんて分からなかったからである。

 三日目で、担当からお土産は控えるよう注意を受けた。たいした怪我を負っていない彼女が病室にいる理由を鑑みると、その土産は彼女に事故を想起させるだけにすぎないらしいからである。

 次の日から手ぶらで通い。

 そして、それを繰り返して一週間ばかり過ぎた頃のことだった。

 一週間、会うことすらできない彼女に会うために通いつめた自分は、すっかり「親しい友人」として認識されていた。こうして会えるようになったのも、何度も『親友』に会えずじまいの自分を不憫と思った医者の計らいかも知れない。

 だが皮肉なことに、士郎が彼女の名前をはじめて知ったのは病室の名札であった。

 案内してくれたナースが、彼女の病室の前から去っていくと、士郎は一つ溜息をはき、心を落ち着かせては、ノックの後、そこに入った。

 すでに日は落ちかけていたのに、病室に電気はついておらず、薄暗かった。

 最初に見えたのは、ベッドに座り窓を眺める、その少女――西河 ミハルのシルエット。こちらが入ってきたのにも関わらず、こちらに視線もくれなかった。

 電気をつけようと思わず入り口のスイッチに手を伸ばした。だが、そのスイッチの隣には何かが強い衝撃で凹んでしまった壁が見えて、それをやめた。

 士郎の予想とおり、彼女はそこに何かを投げつけていた。理由は語るまでもない。

 彼女と話すとき、いくつか注意を受けた。

 単純なようで難しいことである。

 たとえば彼女が自ら口にするまで、事故に関係する事柄、また連想されるような言葉を極力話さないようにすること。ただ、その注意と同時に起きてしまった事実を認めるという努力も必然で、もしもそういう話題になっても仕方ないかも知れないとも付け加えていた。

 正直、士郎は困っていた。本当に彼女と懇意ならば、話せる話題もたくさんあろう。しかし、彼女と自分のつながりは『事故』のみなのだ。

「……きいた」

「え?」

 最初に声をあげたのは少女の方だった。完全に枯れたそれから、おそらく彼女は長い間泣き叫び、苦しんでいたのだろう。

「毎日、私に会うために来てくれた子供がいるって」

「あ、ああ。多分俺のことだと思う」

「誰」

 士郎はすぐに打ち明けることはできなかった。だから、用意していた嘘を並べた。

「西河さんは知らないかもだけど、前に会ったんだ。その時は話しかけられなかったけど」

「君、どこに住んでるの?」

「どこって、この辺りだけど」

「私はずっと遠くから旅行に来たのに、そんな奇跡があったの?」

 完全に失敗だった。彼女が地元の人間でない可能性はまったく念頭にに入っていなかったのだ。

 士郎は口ごもってしまう。当然、立場が悪くなっている。

 だが、それについて彼女は追及することはなかった。そして、

「これ、君の?」

 そういって彼女が見せたのは……事故現場で無くしたヒーローの仮面だった。すっかり壊れ、ボロボロになってつけることができなくなったそれを、彼女は持っていたのである。

 彼女に表情はなかった。彼女が気を失っていた時に見た、一生わすれることのできない顔と同じ顔。きっと笑顔が似合う明るくかわいい子であったのだろう。

 士郎が答えを拱いてしまったことは、肯定と同じだった。彼女は仮面を差し出した手を再び自分の元に戻すと、窓の外へと視線をはずした。

「不思議。誰よりも好きだったお父さんとお母さん。生まれてずっと一緒で、大好きだった二人がいなくなったのに、今にでも泣き叫んで喚きたいのに、できないの。ここ数日は、なぜか」

 顔を見れば分かる。顔は痩せこけ、目の下には濃くくっきりとした隈ができている。頬にはまだ真新しい涙の跡が残っている。疲労がたまり、体が悲しむことを許してくれていないのだ。

 どういう言葉をかければいいか分からなかった。彼女は他人で、どんな言葉をかけても傷つきそうに思えた。

 そして大事な人を失った辛さを自分は知らないから。エリノがいなくなったら、と想像する他ない。

「俺も……いないんだ。親が」

 ずるい言葉だった。彼女より不幸な人間はいると、彼女に教えることになるのだ。

 もちろん彼女より不幸な自分が目の前にいても、彼女の不幸が薄れることはない。だけど、彼女の不幸への納得の理由付けとなり、さらには悲劇的な共通点を持つことで、できるだけ『まし』な会話ができると教えられたのだ。もちろん、エリノに。

 それに士郎は失ったわけじゃない。最初から知らなかったのだ。

 士郎は吐露する。

「お父さんは殺された。お母さんは……どこかで生きているらしいけど、死んでいるのと一緒って言われた」

「どういうこと」

「さあ。詳しくはしらないけど。でも、会う意味もないらしい。生まれてすぐに別れたから、互いに顔は知らないんだ」

 共感は持たれていなかったようだが、少し申し訳なさそうな顔をしているように見えた。

 多分、彼女は優しい子なのだろう。こちらもまた、申し訳ない気持ちになる。

「名前、なんていうの?」

「初島士郎」

「初島君が、助けてくれたんだよね? 私の事」

「えっ」

「ごめんね。ちゃんと感謝できなくて」

 どうやら『助けた』という事実だけを知っているらしい。

 どのような方法で救ったかまでは知らないだろう。当然だった。その方法は、まるで現実的じゃないのだ。事故現場から想定できるわけない。

「毎日来てくれたのはどうして?」

「……会いたかったから」

 どうして「会いたかった」とまでは聞かれなかった。

 会いに来た理由はエリノに言われたから――というのが真実だった。

 だが、エリノが言ったのは、彼女にあって来い、という短絡的なものではない。

 彼はこう言った。

 ――「事件に、彼女に向き合え。それがお前の勤めだ。そして分からなくなったら、何度でも俺に相談しろ」

 士郎には複雑な状況を単純にしか考えられなかった。

 それに正誤はない。士郎はともかく、言葉通り、彼女に向きあうことべきだと考えたのだ。

「ありがとう。初島君。もっと……早く会えたらよかったかも」

「あ、ああ」

「今日はありがとう。悪いけど……疲れたから、一人にして欲しい」

 そう言われると、士郎は退散するしかなかった。簡単な別れの挨拶を残し、士郎は病室を出た。入れ替わりに担当のナースらしき人物が病室に入る。

 士郎は彼女にも挨拶をして、病院の出口へと向かった。

「さよなら」

「……さよなら」

 士郎には分からなかった。

 自分に何ができたのか、何を彼女に齎したのか。

 たいした会話もしていない。自分の生い立ちを語り、ただ、感謝された。

 それが彼女にどんな影響を与えたのか分からない。それほどに彼女と自分は他人同士だった。

 彼女はこれからどうなるのだろうか。

 少し怖かった。それでも、士郎は彼女の心の内を知りたかった。もっと話して、もっと知りたかった。

 だが、それは彼女を想ってではない。

 それは自分が抱えるモヤモヤを払拭するための利己的な理由だった。

 本当に彼女を理解してあげようと考えていたわけではない。幼稚で無責任で――だけど当然の思考だった。

 どうして多くの人はヒーローになれないのだろうか。

 ――それが、答えの一つであった。

「あ、君!」

 病院の方から、女性の声が士郎を呼び止めた。振り向くと、そこには落ち着いた雰囲気を持つ中年の女性がいた。

「君が、あの……ミハルの友達?」

「友達……ってほどじゃないかも知れないですけど」

「でも、毎日会いに来てくれたんでしょう?」

 彼女声は喜びが混じっているかのように思えた。

「あなたは」

 士郎が訊ねると、

「ごめんなさい。私はミハルの叔母です。あの子を預かることになってるの」

「そう、なんですか」

「ありがとうね。あの子と会ってくれて」

 子供である自分に深く頭を下げる大人。良識があるような人に見えた。

「ミハルは、あの子はどうだった?」

「分からないですけど、でも落ち着いているように見えました。」

「そう……大学で講義中に急に連絡が来て……すぐにあの子の所にいったけど、会える状態じゃなかったから。……仕方ないわよね。あの優しい二人にアレだけ愛されてた子なんだから。本当に悲しいはずだわ」

 当然親族を失った叔母もそうであるようだ。表情は明るいものではない。

「あの子、あなたに会って落ち着いたみたい。眠ってたから」

「それなら……よかったです」

「足止めてごめんなさい。帰る所だったんだよね?」

 なんて彼女の言葉を聞いて、最初はそれにうなずいて踵を返そうとした。しかし、士郎はすぐに考えを変えた。

「あの、もしよかったら、お話聞かせてくれませんか?」

「え?」

「俺……実はあんまり西河さんの事知らなくて」

「それなのに、何度も会いに来てくれたんだ。やさしい子なんだね。いいよ。あの子も寝ているだろうし、少しお話しましょう。そこの喫茶店でいいかしら?」

 頷き、彼女と共に喫茶店へと向かった。


 病院から最寄の喫茶店で、士郎は彼女と30分ほど話した。

 分かったのはミハルのことと、叔母である彼女自身のこと。

 ミハルは元気で優しく、体は弱いものの頭もいい子だったという。身内びいきはあるだろうが、それでも士郎はそれを素直に信じていた。

 当然それは親戚である彼女からの視点。それでも、が知りたかったミハルとについて聞けたのはよかったと士郎は考えていた。

 また叔母である彼女は、大学の教授でそこそこの地位、そしておそらくは財力も持っているらしい。どうやら著名なコンピューター関係の研究に携わっているそうだ。

 それは士郎がまた心休まる事実の一つだった。少なくとも経済的に困ることはないからである。そして彼女は、あの不幸な子を愛してやれる人物だと思えた。

 また来てね、という言葉を残して、彼女は病院へと戻って行った。

「…………」

 安堵してしまう自分がいた。

 他人である自分にできることは限られている。

 ミハルの人生を背負うことはできない。しばらくそれをするのは、身元受け人になる彼女の役目だろう。

 士郎は帰ることにした。

 今日起きたことはすべてエリノに話す。そして、どうだったから、これからどうするべきかを聞くつもりだった。

 少し気が楽になった士郎は、エリノに携帯チャットで病院まで迎えに来て欲しいと連絡した。すぐに了承の言葉が返ってくる。すぐに彼の車はやってくるだろう。

 一人でもバスに乗れば帰ることはできる。だがそうしなかったのは、一秒でも早くエリノと会い、話したかったからだ。

 その選択は――きっと正しかった。


「…………?」

 日は落ちていた。だが、夜を遊びなれた目と卓越した視力は、夜の闇を苦手としない。

 だから、士郎は気づくことができた。

 秋の風が身を切るように冷たく感じた。おかしいことだ。

 士郎には寒さも暑さも認識ができる。都合のいいことに、温度の心地よさを知りながらも、温度による苦しみを苦痛とは思わない体を持っていた。

 だからこそ、その風の冷たさが温度のせいではなく、何か不気味な、物理的温度による影響ではなく、心身を凍えさせる『最悪』のせいだという事に気づけたかもしれない。

 悪寒、だ。

 士郎の瞳は、まっすぐに病院を見つめていた。

 正確には、その病院の、屋上の、フェンスを乗り越えた先の、縁。

「西河……さん」 

 その患者着が風に揺れるところまで、はっきりと、見えていた。

 まっていた。エリノの車を待っていたからこそ、気づけた。走れた。

 病院までは、百メートル以上ある。

 『普通なら』間に合うはずもなかった。すでに彼女の体は傾いていたから。

 縁から地面へ向かう――落ちるために。

「うああああああああああ!」

 どれほどの速度で走ったか分からない。

 真新しい靴の靴底が破れ、足の裏にとてつもない熱が発する程のもの。常人では、いや、超人少年であった士郎本人でさえ、考えられない速さであった。

 どうして死のうとするんだよ。

 彼女の――西河ミハルの体は、アスファルトから十数センチの所で止まった。

 少年が、自分の体の大きさとそう変わらない女子の体を抱えられた。

「…………」

 腕の中の少女の顔は、ただ歪んでいた。悲しみに涙を流し、無事だったことに驚きは微塵もなかった。

「……夢だと思った」

 声は震えていた。これは悲しみじゃない。

「車の中から私を出して、そして、向こうからトラックがやってきた。でも無事だった。背中でアレを受け止めてた」

「…………」

「なんなの」

「俺は……この力は」

「どうでもいい! そんなの!」

 それは、怒りだった。

「どうして、どうしてそんな事ができるのに、お父さんとお母さんを守ってくれなかったの! なんで、なんで私だけ助けたの!?」

 彼の父がミハルの存在を教えてくれた後。

 あの後、トレーラーが押し寄せるまで、できることはあったかもしれない。

 もしかしたら、三人を全員をすぐに車から出せたかも知れない。

 もしかしたら、押し寄せるトレーラーを、この超人的パワーで跳ね返せたかも知れない。

 もしかしたら、まだ、みんな無事だったかもしれない。

 もしかしたら、そうしたら、ミハルは死のうとなんてしなかったはだった。

 何も言えなかった。

 ただ、彼女と同じように、涙を流しているだけだった。

 病院関係者とエリノが来るまで、士郎はずっと、泣いている彼女を見ていることしかできなかった。



 病院前に止めた車の中にエリノと士郎はいた。

 士郎は後部座席で丸くなっていて、そんな士郎にエリノは自分が来ていたコートを布団のように被せてやっている。

「悪かった……」

 エリノが詫びる。 

「どうして、謝るんだよ」

「無責任だったからだよ。それに……お前ほど深刻に考えなかった。人が死ぬ事は大層なことに違いないのにな。麻痺しているのかな、俺」

 士郎はなんとなく気づいていた。エリノは人の死に何度も直面している。しかも積極的に。だが、それについて知る事に意味はないと考えていたし、これかもそうだと思う。

「シロウ。お前は……よくやった。けして間違ってない。助けなければよかった、なんて絶対に考えるな」

「ありがとう」

「ああ」

 エリノは小さく溜息を吐く。

「一応、お医者様とミハルの叔母さんには言っておいた。あの子……ミハルが自殺しようとしたってな。もちろん、飛び降りじゃなくて別の方法で。飛び降りたのを助けた、なんていえないからな。多分、監視しているか相応の処置をしていると思う」

「ありがとう」

「ああいうのは突発的な物だ。常に死のうと考えはしないさ」

「誰か……気づいている人はいた? 俺の、その……」

「別にたいした問題じゃない。病院の前にドリフト走行したタイヤ痕みたいなのが残ってるけど、誰もお前が走ってつけたなんて思わないだろうよ。飛び降りなんてなかったしな。監視カメラとかがあればちょっと困るけどな」

「また、引っ越す?」

「引越しがなんだ。別に友達もいねーだろう? それに……人の命が救えたんだ。引越しの一つや二つ、どうでもいいさ」

「……赤の他人は生活のために死んでもいいのに?」

 そんな意地悪を言ったのは、子供だから。わがままを受け止めてくれる彼の安心感が欲しかった。

 彼は受け止めてくれた。

「ああ。理不尽で馬鹿なんだよ。都合のよいようにコロコロ言う事を変えるのさ。大人って言うのは。特に俺は」

「俺に言った言葉も嘘か?」

「嘘もあったさ。でも、少なくとも今日は一度も嘘はついてない」 

 その言葉が嘘なんじゃないか、なんて野暮なことを訊くのはやめた。

「兄貴」

「うん?」

「さっき、西河さんは……常に死のうとは思わない、って言ったよな」

「ああ」

「じゃ、突発的には――今日みたいなことがおきるかもしれないのか? 今日のは多分……最初から決めていたようには思えたけど」

「今日、あの子と会ったんだろう。どう思うんだ?」

「思い返すと……突発的じゃなかったかも知れない。最初から、そうしようと考えていたかも。ずっと元気がなかったし、それに、あきらめているみたいだった。何もかも」

「それは感情的なよりタチが悪いかもな。なにもかも諦めているなら……生きる意味を見出せないなら、もしかしたら死ぬことしか考えないのかも知れないな」

「…………」

「厳しい言い方だけど、お前はやれるべき事はやった。あいつの命を二度も助けて、病んだアイツの為にお見舞いをした。だから、もうここで終わりでも、なんの心配もない。あとは彼女一人の問題だ。もう、お前が背負う必要はない」

 士郎は素直に頷けなかった。

「こんなことになるとは思わなかったが……お前に知って欲しかったんだ。ヒーローって何かってさ」

「…………」

「背負うことなんだよ。自分じゃない人生を。だから……色んな職業の、人を助けるヒーローはいくらでもいても、象徴のようなスーパーヒーローはいないん」

「……わかった」

「そっか。じゃもういいか。これ以上は話さない」

「だけど」

「ん?」

「ヒーローにはなれないけど、でも……悪党にはなれる。誰でも、簡単に。俺にだって」

「そうだな」

「兄貴……ちょっとまってて。すぐ戻るから」

 あえてエリノは何も言わず、後部座席を開き彼を送り出した。



 思ったほど、病院は静かだった。

 病院は眠らない。ここまでの大病院となれば、深夜でも常に稼動し人を迎ええている。

 だが、余計に静かだと感じたのは、自殺未遂――いや、自殺があったからだった。

 士郎はすぐに彼女の病室へと向かった。エリノの言葉では、自殺を試みた直後にしては落ち着いていたらしい。

 ありえない事態に驚愕したからか、それとも茫然自失なのかは分からない。

 彼女の病室の扉をノックしなかった。ただ静かに、扉を開く。

「…………」

 彼女はまだいた。一人で、だ。

 自殺未遂を行った事実はエリノの言葉で病院に伝わったはずだった。しかし、彼女の隣には誰もいなかったし、自殺防止用の拘束器具などもなかった。

 多分、彼女が冷静だったからだ。声を荒げることも、泣き叫ぶこともなかった。

 ただ醒めた目が、士郎をまっすぐに見つめているだけだった。

「あ、あのさ……俺……あれは内緒なんだ。だから……」

 答えはない。そして、その唇は開く様子はなかった。いつまで立っても、微動たりともしない。

 まるで、死んでいるようだった。

「もう……しないよな? 約束してほしいんだ」

 もう、彼女は興味がなかった。

 士郎から視線がはずれ、何もない壁に、それは向けられる。

 開いた目は何も見ていない。多分何も聞いてはいない。

 それは士郎を、ただ只管に不安にさせた。そして、この病室を後にしたら、自分の目が離れたら、彼女は何をするのだろうか。

 ただ何もせず壁を見続けるだろうか。

 だけど、数時間はそうであったとしても、いつかは動く。そして動く彼女は、いったいなにをするだろうか。

「ミハル」

 彼女を名前で呼んだ。そうしたのは、誇示するためだった。そして威圧するためだった。

 自分は彼女より『強い』存在だ。そうであるし、そうであるべきだ。

 覚悟の言葉、だった。

「事故のことで話したい事がある」

 少しだけ反応した。肩が、小さく、一瞬だけ震えた。だが、それはほんのわずかな変化でしかなかった。

 士郎は続ける。決めたんだ、

「あの事故」

 言葉を探した。最初からそうするつもりだったのに、言葉がうまく出てこない。だが、自分を戒め、しわを寄せ、強く低く、彼女に告げた。

「あの事故の原因は、俺なんだ」

「……なに、いってるの」

 彼女の「声」を久々に聞いた気がした。

 堰は切られた。もう止められはしない。

「あの道路の真ん中にいたんだ。遊んでた。危ないなんて思わないから、いつもやってたんだ。見ただろう? 俺の能力」

 今度は言葉が次々と出てくる。それが事実であるかのように。

「車にぶっとばされたって死にはしないから、だから、あそこで遊んでた。あんな時間だから車が通るなんて思わなかった」

「やめて」

「でも、たまたまあの日、大きいトラックがきた。俺はぶつかりそうになった。そのままぶつかれば、多分トラックは止まったと思う。だけど、あのカーブで、運転手はハンドルを思いっきり切ったんだ。だから」

「嘘言わないで!」

 彼女の悲鳴に似た叫び。ベッドから立ち上がった彼女は、士郎に詰め寄り、そしてその襟を掴んだ。

 怖かった。だが、表情一つ変えなかった。

 強い人間である必要があったんだ。

「そんなの……」

「でも、助けただろう? 俺がいなかったら全員」

 声は遮られた。彼女が思いっきり頬をたたいたから。

 だが一瞬だった。ビンタなど、何の意味もないように見えた。

 そう見えただけだ。

「――死んでた」

「!?」

「見てなかったのか? 俺のこと――」

 丸めたこぶしで、胸板を、肩を、頭を、何度も思いっきり殴られた。こぶしの甲で、側面で、指で。細い腕が風を切る音をさせるくらいに強く。

 そして、その細い脚が何度も脹脛を叩いた。

 痛かった。何よりも。

 だが、何も変わらない。動きさえしなかった。超人的な肉体は――トラックを跳ね返す程の力には、彼女の細いからだから行われるどんな行為にも動じることはない。

 やがて、鈍い音と共に、その腕の動きは止まった。

 ミハルの肩の関節が外れたのだ。自分の体の限度が分からなくなるほどに、殴り続けたのだ。

「なあ、無理だろう? 俺に力で勝てるわけないって」

 座り込んだ彼女は唇をかみ締め、こちらを見上げていた。

 恨みや憎しみ、あらゆる負の感情を集めたような表情。

 子供が作るような、そういうものじゃない。

 だけど、そこに『生気』はあった。

「俺の事をどうにかしたいなら、誰かに言ってみればいいんじゃないか? 怪力少年が事故を起こしたんだってさ。誰かが信じてくれればいいけど」

「うああああああああああ!」

 彼女にできることは叫ぶことだけだった。

 

 ……ヒーローにはなれない。

 だけど、力はあった。

 だから、悪党になるしかなかった。

 絶望の形が変わっただけかも知れない。

 だが、『悪党の少年』の方が『どうしようもない事故』よりかは幾分かマシだと思った。

 誰かの、何かのせいにできず、悲しみを一人で背負って押しつぶされるより、ずっと。

 自分が恨まれれば。その目的があれば。

 彼女は生きるかもしれない。

 ベッドで死を考えるより、ずっとマシなはずだ。

「いったいどういうこと?」

「おばさん」

「君は――」

 姪の悲鳴に向かって走る彼女と士郎は出会った。急ぐ彼女を足止めし、そして、

「これ、俺の住所と連絡先です。あの子に渡してあげてください」

 握っていたメモを渡した。

「今はそんな場合じゃ」

「何より大事なんです」

 士郎はメモを彼女のポケットに強引に突っ込んだ。訝しげに思う彼女であったが、すぐに走り去ってしまっていた。

「…………」

 

「じゃ帰るか? 家に? それとも新しい家でも探すか?」

 エリノは車に士郎が戻ると、そう口にした。

「引越しは……一ヶ月だけ待って欲しい」

「どうしてだ」

「それまでにあの子が来なかったら、俺は目障りってことだから。その後でいい」

「もし、本当に訊ねてきたらどうするんだ。復讐しに」

「わかんない……」

「適当だな、おい。はは、お前はあの子に殺されないかも知れないけど、俺は余裕で死ぬぞ?」

「……ごめん」

「それでもいいさ。帰るぞ。今度こそ」



 結局、一ヶ月の間、彼女は訊ねてくることも連絡もなかった。

 そして士郎の引越しの前日、彼女を遠目で見ることができた。

 その顔は叔母の言うような「優しいあの子」とは違う、怒りに満ちた物だった。

「考えられる中で最高の結果、だったよ。あの子、俺らの事を調べているってさ」

 エリノの言葉を最悪の気持ちで安心しながら、士郎は心の中で彼女に別れを告げた。

 誰もヒーローになれやしない。

「シロウ。もういいんだ。これ以上はいいんだ」

 その引越し先が、今の自宅である。

「ごめんな。お前のこと、守らなかった。強いからって。でも……お前は俺の弟で、息子だ。だから、守らないといけなかったんだよな」

 しばらく笑えそうもない。

 自分も、あの子も。

 士郎はそう考えた。


 そう、考えていたのだ。

「久しぶり、士郎君」

 大人になった彼女は、笑顔を見せていた。


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