2話 「炎上」
肺の中の空気を全て吐き出しながら、その小さな女の子は悲鳴を上げた。
子供の小さな体にはあまりに酷過ぎる怪我だから。
赤く腫れた少女の肩。
それは夢だった。
だが、感触は確かにある。この手で少女の肩にふれ、そして砕いたのだろう。
成長期前の、同じ程度の体躯の少女の体を、そう出来てしまう。
こんなことは実際には無かったはずだ――似たような経験が一つに合わさり、悪夢を作っている。
だけど、事実はある。
確かにミハルは泣いていた。
士郎が眠りから覚め、薄く目を開いた時に、体を心地よく揺らしていたが振動止まった。視界には車のシート、そして隣に乱暴に放置された変身ヘルメットが見える。
(変身ヘルメット……)
士郎は心の中で繰り返し、同じく心の中で笑った。
黒い彼女――神流は運転席で士郎に声をかけた。
朦朧とした意識が戻るにつれ、眠る前の記憶が少しずつよみがえってくる。
このヘルメットを被り、殺人鬼を殴り倒した。その後三人は逃げるように現場から離れ、用意していた車に乗りこんだのである。
そのまま後部座席に座らされ、落ち着く間もなくサウンドは自分に再びヘッドフォンをかぶせてくれた。何かを質問しようとしたが、心を癒すクラシックは心地よく、緊張がほぐれていたせいか、そのまま眠ってしまったのだ。
車の中にいるのは神流と士郎だけだった。一緒に乗り込んだはずのサウンドの姿はどこにも見当たらない。
車が止まっていたの、とある高層マンションの駐車場だった。
優に車30台は止まりそうな場所だったが、士郎が降りて見回す限り、自分が今降りた車以外に車はない。
「ここは――」
神流に視線を向けて、士郎はやっと気づいた。
彼女のドレスの黒は更に濃く染まっていて、それは露出した腕と脚までに広がっていたのだ。
「お前それ――」
そう。そこはタンバにナイフで刺された場所だった。間違いなく夢ではない。
「大丈夫。傷は運転中にサウンドに縫ってもらった。汚れてるだけ」
「大丈夫なわけないだろう! あの男に刺されたのを、俺はこの目で見たんだぞ」
「何度言ったら覚えてくれるの? 私はゾンビガールよ。あの程度じゃ死なない」
「ジョークはやめてくれ」
「超能力は実在するでしょ?」
彼女は後部差席からヘルメットを取り、士郎に手渡してはとっとと歩いて行ってしまう。すぐに士郎もその後を追った。それしか出来なかったのだ。
彼女は刺された瞬間と同じように、平然としていたのだ。
「ここはGHCの本拠地。井垣グループ所有の高級マンションよ。二十階あるうち大体空き室。1階から10階までは社のお偉いさんが女を連れ込む時、使ったりするらしいけど、十一階からは完全プライベートゾーンで、私たち以外は出入りできないわ」
「井垣グループって……CMでよくみるアレか?」
「ええ」
マンションのエレベーターに乗り込みながら、彼女はこの場所のことをそう説明した。
士郎はまだ理解できないでいた。
確かに自分には尋常でない怪力や強靭な体がある。
だが、それは生まれながらに持っているもので、異質であれ常だったのだ。だからこそ、はじめて自分以外の『異質』が理解できないでいたのだ。
超能力者仲間――なんて、あのファイアーマンくらいで……それさえも超能力というよりはトリックだと疑っているくらいだったのに。
彼女は本当に『ゾンビガール』なのだろうか?
エレベーターが開いた先にはすぐに玄関があった。通常のマンションのようにいくつも部屋があるのではなく、このフロア全体が一室になっているようであった。
彼女がICカードで玄関を開き部屋に入る。長い廊下を歩き。そして神流は最初に見えた扉を開いては士郎を招いた。
そこは士郎の部屋より倍広い部屋だった。壁には風景画、テーブルに高級ダブルベッド高級ホテルの一室のようである。
士郎はベランダに通じる壁窓から外を見た。
見慣れぬ光景――もしかしたらそうでないかも知れない。多くの建物を見下ろせるそこが、高層に位置していることがはっきりとした。彼女はこれまた高級そうな化粧台の元に向かうと、そこの引き出しから何かゴソゴソと取り出しては、士郎の下に戻ってきた。
「早速だけど……お礼よ」
彼女が士郎に差し出したのは、茶色の封筒だった。人差し指ほどの厚みのあるそれを手にした時、簡単にその中身を連想できた。そして疑いながらも、その中身を取り出すと、
「これって……」
予想通り、そこに入っていたのは一万円札だった。
このマンションを利用している辺り、財力を持っているとは予想していたが、すぐにこんな金額が飛び出すなんて信じがたい。
「ぴったり百万円。足りない?」
「そうじゃなくて。どうしてお金なんて」
「あなたはGHCじゃないでしょう。助っ人。だから謝礼をしないと」
「金の為にやったわけじゃない」
「無償の奉仕? ヒーローみたいに?」
その一言に、士郎から返却の意志が少しばかり薄れてしまう。
「士郎。あなたはそれだけのことをしたのよ」
「何の話だよ」
「タンバを倒したから。思い出してみて。あなたは何人もの人を殺し、警察すら手に負えなかった殺人犯を倒してくれた。さらに、私の命も救ってくれた――まあ、私は死なないけど――それでも、助けてくれたのは間違いない」
「それは……そうだけど」
「多分あなた以外は出来なかった。相手のナイフを物ともせずに、問題を解決に導いてくれた」
「…………」
彼女は士郎の封筒を持つ手を封筒ごと包むように握り締めた。
「それは貴方のヒーローとしての感謝じゃない。あなたへの力への価値に対する対価よ。だから、受け取って」
士郎が気にかけていることの一つに、生産性のない自分への劣等感があった。ようは働かずただ飯を食っていることである。
保護者のエリノは問題ないというが、ひたすら消費だけをしてゆく毎日にむなしさも感じていた。経済的な問題に関せず、せめてアルバイトでもしてお金を作ることができまいかと何度も考えていたのだ。
だからその収入は、彼が始めて手に入れたお金だったのだ。
気分は――良かった。
「ねえ、一つ頼みがあるんだけど」
神流がさほど申し訳もなさそうに言う。
「もしかして、また同じようなことをさせるのか? また『悪』とやらを」
「いいえ。包帯を巻いて欲しいの。傷口はあるから。できる?」
「多分――」
わざとなのだろうか。それとも天然なのだろうか。
いや、多分彼女は――そういう奴なんだろう。
士郎は目の前の光景と同時に、キスのことを思い出してしまい、顔を真っ赤にしてしまった。
スルッと、彼女は目の前で黒いドレスを脱いでしまったのだ。
ドレスは、それ一枚だ。脱いでしまえば、その下にあるのは下着のみである。火傷隠しの手袋があったが……しかし、どうしてかブラジャーはつけていなかった。
彼女は白い肌と同じ色をした、慎ましい乳房さえも平然と露見させていたのだ。
「恥ずかしがらないで。仕方ないでしょう。これ一枚なんだから。それに、ナイフでブラの紐を切られたから――」
「説明しなくていいって。だからってド正面向いて脱ぐのかよ」
わざとらしく視線をそらす。
そういうものはアダルトサイトなんて死ぬほど見てきたが、本物を見るのとはわけが違う。少し細い気がするが、その白い肌は加工されたであろう画像なんかよりもよっぽど美しく思えた。
だが、完璧なものないといわんばかりに痛々しい肩の傷。そして、その黒い手袋の下には火傷跡がある。
「緊急時よ。ナイフで刺されたのよ? おっぱいなんかに気をとられないでやって」
彼女は初めて不機嫌そうになりながら、士郎に包帯の束を投げつけるのだった。
「あいつは? その、『サウンド』って言ったけ」
「学校。誰かさんと違って平日だからね。死人とニートは学校に行かなくていいわね」
二人は沈黙し、部屋には布すれの音だけがしばらく続いていた。
最初は彼女の肌に触れることに緊張していたが、図らずしも傷口を凝視してしまい、彼女の言葉通り、彼女の肢体に見とれている場合ではない事を認識する。
正直あまり直視したくない光景だったが、流血で汚れた傷口を拭くと、綺麗に縫われた傷口が見えた。
既に『ゾンビガール』なんて笑えなくなっていた。
確かに彼女は、目の前で刺され、流血し、こうして傷を残した。
そしてその上で彼女はここに平然といる。もちろん刺しどころがよく、死を免れたに過ぎないかもしれないが、いくらなんでも平然としすぎているのではないだろうか。
士郎は勘ぐってみた。
「痛みがないのか?」
「鈍いのは確かね」
「本当に不死身……か?」
「死んだのは一度だけだから分からないわね。ただ、脳天にナイフを刺されたり首を切られて生きていられる気はしない。あなたみたいに刺さらなければいいんだけど」
「やっぱり信じられないな」
「心肺停止して蘇生した女と、生肌にナイフが刺さらない男のどちらが信じられないかしらね。手から炎を出す男はいかが?」
時折、自分が非常識な存在である事を振り返る。
だが、それは驚く程に特別なものではない。力を人前で行使した事は殆どなかったからだ。
この力は呼吸と同じくらい密接なもので、他人がそれに目を向けて反応なければ自分の物であると認識することはない。
そういうものである。
「むしろ私より、あなたのオリジン――あなたが今のあなたになった理由の方がずっと気になるわ。人体実験? 魔法?」
士郎は答えなかった。答えられなかったのだ。
「自分でも分からない。気づいたら、だよ」
「そう。いいわ。詮索しないでおきましょう」
「本当に知らないっての…そちらも詮索されたくないだろう」
「あの子が言ってなかった? 検索かければ出てくるって。隠すつもりもないわ」
「『死んだ女が生き返った』なんてニュースあったか」
彼女は返事もなく、後ろを向いたまま士郎のズボンポケットに手を伸ばし、そこからスマートフォンを奪い取った。断りもなくそれを操作、ブラウザーを開き、あるページを出したまま士郎に差し出した。
「これは?」
彼女から携帯を受け取り、表示されたページを確認する。そこにあったのは過去のニュースページ。今から三年ほど前の日付のニュースである。
「題名は……神流グループ社長一家……心中……」
記事の概略は次のようなものだった。
神流グループという大手だが業界二番手の会社があったが、度重なる内紛事件により破産寸前となり、その責任を取るために彼が自宅に火をつけ、妻と娘と共に自殺したというものである。
「これは」
記事のしたには参考画像として犠牲者となった神流一家がパーティーに参加したときの画像があった。
そして、そこに映っていた娘は――
「確かに両親と共に炎に巻かれて死んだはずだった」
間違いなく、その画像にいる彼女は、ここにいる彼女であった。
「気の毒に思わないで質問していいわよ?」
気遣いなのか? 彼女は自分への嘲笑のような表情を浮かべる。
「双子の姉妹……もしくは運よく生き残ったんじゃないのか?」
「面白くない考察。現実的すぎる」
「そういう問題か?」
「ともかく、私は公的に死んでいる。それに生きていたら困る人も大勢いる。だから、ここにいる私の存在は『死んでいた女が蘇っている』とだけしか表現できないわ」
「そんな皮肉で『ゾンビガール』って名乗ってるのか?」
「面白いでしょう? 墓の中から蘇ったんだったらもっと面白かったけど。もしくは、自分の葬式に現れるとか。トム・ソーヤみたいにね」
「それじゃ、本当は死んでいないってことだよな」
士郎は彼女の傷を見る。
彼女はただ「焼死から何かしらの方法で死を免れた存在」でしかないとは思えなかった。
確かに彼女はナイフで刺されても平然な顔して、その肩のままで、彼にキスをやった。それは事実だった。
「何重に包帯巻いてるの? それとも触りたいだけ?」
彼女の言葉に士郎は手を離す。彼女は自ら包帯に鋏をいれ、束から自分の体に巻きつけている分を残して切断し、体の前でそれを止めた。
「ありがとう。さて……過去のことはこれくらいにしましょうか? 私の過去を知りたい理由もないでしょう? それに大事なのは過去ではなく、これから先のことなんだから」
「これから先……どうするんだ? もしかして、同じことを続けるのか?」
「だとしたら?」
「やめたほうがいい」
「どうして? あなたがいるのに」
「今回みたいにうまくいかないかも知れない」
「助けない、とは言わないのね。優しい人」
軽く、少し馬鹿にしたような言葉にも聞こえたが、彼女のその朗らかな笑顔は素直に嬉しそうにも見えて、士郎は思わず目をそらしてしまった。。
「それに、だな! 正直言って……お前が正義のためにやっている事とも思えない」
「どうして」
「なんとなく……というか、いまいち信じられないんだよ。別にお前だからとかじゃなくて、命をかけて正義を貫く奴がいるなんて」
「警察や消防の方に申し訳ない台詞ね。といっても……認めるわ。確かに別の目的があるにはある」
「正義以外にか」
「ええ」
士郎は安堵さえしてしまう。
正義の為に、という信念のために命をかけるというのは、あまりにもフィクションではなかろうか、と彼は考えていた。
彼女や、サウンドや、このGHCとやらのちっぽけな組織が、命をかけるまでに正義に固執する存在だとしたら、それを突き動かしている信念は恐ろしいとまで思える。
正義という漠然とした行動原理より『裏』があったほうがよっぽど健全であると彼は考えていた。
彼女は、その『裏』を語った。
「超能力者を探しているの。正確には『ファイアーマン』をね」
「どうして?」
「アレは心中じゃなかったの。神流一家の焼死はね」
「それって」
先ほど見せられたニュースだ。仕事のトラブルで神流一家が心中した……その真実であろう言葉を彼女は述べた。
士郎は察することができた。
復讐だろうか――わかりやすい――人間らしい行動原理だ。だが、それを語る彼女に感情の変化は見えない。士郎はそれ以上訊ねられなかったが、
「誤解しないで。復讐のためじゃないわ。少し訊きたいことがあってね」
「本当に、か? ファイアーマンに両親を……その……」
「これも調べれば分かると思うけど、私は二人の実子じゃない。養子よ。一緒に暮らしたのも大した年月じゃなかった。だからそこまで悲しくはないわ」
それでも身内が殺されて、こう淡白にはいられないと思う。
彼女は続けて、士郎の携帯を操作しはじめた。マナーモードを解除して音声をONにした後、テーブルの上、二人の視界に入るように画面を置き、とある動画を再生した。
それは最新のニュース動画であった。
ニュースは語る。
『――昨晩、連続殺人事件の容疑者であるタンバが緊急逮捕されたニュースの続報です。親族での複数による犯行であることが話題となったタンバ事件ですが、一応の収束を迎えたことによって、関係者および被害者家族からは安堵の声が寄せられています』
『また、容疑者を逮捕した警官たちは抵抗に遭い重症を負いましたが、いずれも命に別状はなく、状態が良くなり次第、今回の功労者である彼らへの表彰が行われるということです』
全貌を知る士郎にとっては不自然極まりない内容。神流は笑う。
「ニュースで功労した警察官の存在をわざわざアピールするところがなんともね。こんなニュースあった? 事実は匿名の通報でノコノコ出てきてボコボコにされた挙句、犯人を倒したのは謎のコスプレ集団、だからね」
「楽しそうだな」
「ここまで面白いことはないでしょう? こんな露骨な隠蔽を俯瞰で見られるとね。ま、私たちのおかげで警官たちの給料もあがるだろうし……入院手当てってことで」
「こういうニュースを見るためにやったことじゃないんだろう?」
「ええ。タンバを追った理由はちゃんとあるの」
彼女はニュースを閉じて、また携帯で何やら操作を始めた。
「目的は二つある。正義のため、という建前を加えれば三つだけど。まず、私はたちはタンバの犯行が『超人的』である事に着目した。ファイアーマンと一致するところよ。タンバ(達)は神出鬼没であり、まるで正体がつかめない――だが、事実は兄弟での同時犯行だったに過ぎなかったけど。つまり、一つ目の目的は、彼自身がファイアーマンである可能性があったから追跡した、ということ。それを踏まえて二つ目がある」
彼女が携帯で用意した動画は二つだった。小さい携帯の画面が二分割されて少し見難いものだったが、何とか何の動画かは分かる。
まず、彼女は左の動画を再生する。
それは十年前の――ファイアーマン事件の動画だった。
「これは、流出したファイアーマンの犯行の物。少しショッキングだけど、見て」
動画にはまず、一つの人があった。
指のつめ程度の大きさでしか見えず、動画のサイズも小さいところから殆ど詳細は分からない。そして、その見える人影以外の動画の大部分にはぼかしがかかっていた。多分そこにあるのは、「彼に焼かれた」人間なのだろう。
「これは犯行が行われた直後の、監視カメラの動画。彼は犯行を行った後、さっさとその場からは退散しなかった。彼はその場で10分ほどうろうろとしたの。はっきりと監視カメラの存在を知りながらね。しかも、このフラフラとした足取り、まるでダンスじゃない?。快楽思考による行動――目立ちがり屋。サイコパスにありがちな行動よ」
「…………」
「私たちは、彼のその性格をタンバの逮捕と共に利用しようと考えた。それが、この右の動画よ」
「これって!」
その動画が何か、士郎はすぐに察することができた。
あの埠頭での出来事だ。そこには昨晩、その埠頭で行われた一部始終があった。
タンバに殴りかかるヘルメット姿の男――ヘルメットのヒーロー。
そして、やってきた兄弟たちを一瞬で手も触れずに倒すサウンドの姿。
動画の最後には、複数言語である言葉が文字編集にて綴られていた。多分全てが同じ意味だろう。士郎は日本語を読んだ。
『――私たちはGHC。ファイアーマンを倒す』
…………
「……という動画を世界に向けて配信済み」
「ちょっとまて! 俺が映った動画を!? お前」
「なんのためのヘルメットだと思ったの? 誰もわからないわよ」
全てはこのためだったのだ。ヘルメットを被せてタンバを倒させたのは。
「売名目的だったわけか……GHCの……」
「ある意味ね。犯人逮捕の瞬間も多分監視カメラに映っているだろうけど、警察は絶対に公開しない。だから私たちが独自に撮影しておいたの。さっきの警察発表も踏まえて、信憑性とドラマ性は増すでしょうね。自分たちの失態を隠し、さらには自分の手柄にしようとした警察の横柄さと反比例して、GHCの存在は大いに目立てるわ。ほら、再生数もすごいことになっているし……SNSでもお祭り状態。GHCの公式SNSでも質問攻めよ。『本当に超能力者か?』『すごいCGだな』『警察は糞だな』。ま、上々ね。何か代表としてコメントする?」
「…………」
「間違いなくファイアーマンは動画の存在を知るでしょうね。あとは待つだけよ」
あまりにも手筈の良い、しかも全て公開済み、つまり『終わった』ということを知り、士郎は脱力してソファーに倒れこむように腰を下ろしてしまった。
「報酬の百万円には、これの出演料も含まれているから」
「なんなんだよ……ったく」
「どうして落ち込む必要があるの?」
「当たり前だろう。こんな風に利用されて、存在を知られて」
「だけど『ヒーロー』よ? 殺人犯を拳だけで倒した。それに、この動画からでは超人的な力で彼を倒した……ということまでは分からないでしょう? ナイフで刺されるところは写ってるけど、そんなの防刃ジョッキを着ているといえば説明がつくもの。だからその特異な体のことはバレないと思うわ」
「前にも言ったけど、ヒーローはそんな簡単な――」
「ほら見て」
神流は士郎の隣に座ると、肩に手を回して親密に体を寄せ、犯人を倒した『彼』に対する動画とSNSのコメントをピックアップした。
『なんだあの動き。人間じゃないみたいだ』『一発だぜ』『殺人犯を倒した!』『ナイフ刺されてなかった?』『無敵だよ無敵』『かっこいい!』
それらの言葉に続けて、神流は読み上げる。
「そして……『これで被害者の家族も報われます。逮捕されてほっとしました』。『同じ被害に遭う人が増えなくなって良かった』……っていうのもある」
「…………」
「これは全部事実よ。あなたは多くの人を悲しませ、苦しめて、不安にさせた殺人犯を倒した。ヒーローがイヤでも、貴方は人を助けた事実がある。その力で」
何の役にも立たなかった力。立てようとしても、そう単純なものではなかった事は知っていたはず。だけど、『悪を倒した』という分かりやすい正義が、多くの人を喜ばせていた。この文字たちは、その証拠だったのだ。
「ふふっ」
神流は文字を追いながら、突然笑う。
「何だ?」
「見てみて。このやり取り……英語のこれ。訳すると『このマスクをつけたイカしたヒーローの名前は?』だって。んで、あの子が勝手に返事してる」
「あの子って、サウンドが?」
「……返答は――NO EAR『ノーイヤー』。『耳なし』ね。もしかしたらNOEARで『ノア』かしら? なるほど。ヘルメットを被ってイヤホンをつけて耳が見えないから、ってことね。面白いじゃない? ほら、返答を貰った人も『クール』だってさ」
「本当に何もかも勝手だな!」
「それについては悪いと思ってる。大金を払えば解決できる問題でもないし」
彼女は士郎から体を離して、携帯を返却した。
そして、
「つき合わせて悪かったわ。もう、帰っても大丈夫よ。タクシーでも呼ぶわ」
「えっ……」
そのつもりはないかも知れないが……士郎は突き放されたような感覚に陥った。
強引に彼女は自分を付き合わせて、危険な目に合わせた。
埠頭に自分を嗾けたのは、人の感情につけ込んだ強引なやり方で陰湿でもあった。金が支払われたとはいえ、士郎は自分の人格を踏みにじられた行為であると気づいていた。
しかし、今になって、こうなったのが悪い気がしなかったのだ。
彼女二人が助かり、大勢の人が喜んだ結果があったのだ。
巻き込まれた事は迷惑と口にするべきだったはずなのに、彼女の別れの言葉が辛いとさえ思えていた。自分は必要とされている。それは間違いなく……嬉しかった。
「その、俺は――」
「まって」
「危険なのはやめた方がいいと思ってる。でもな」
「そうじゃないの。誰かが来る」
彼女は部屋を出て、玄関――二人が入ってきた地下駐車場直通とは別の出入り口を臨める廊下に立つ。それに士郎は続いた。そうして、二人は口を閉ざす。
すると確かに、扉の向こうから、コツコツと響く足音が聞こえていて、それは確かにこちらへと近づいていたのだ。
「玄関にオートロックはないのか?」
「本当に秘密基地ならまだしも、民家に『入ろうと思えば』いくらでも入れるでしょう。……管理人はまた出歩いているみたい。年中暇だからって適当な人を雇ったのね」
「もしかして……」
「ファイアーマンだとしたら随分早いわ。さすがに」
「サウンドじゃないのか? それとも別の」
「いいえ。あの子のはずがない……だけど、このフロアに用事がある人なんていないわ。だってここだけですから」
「…………」
警戒し、玄関と対峙していた彼女だったが、士郎はそれより一歩前に出た。
「士郎君?」
「……大丈夫だ。経験がある」
「経験?」
「焼かれた事があるから。もっと小さい頃に」
士郎はファイアーマンの被害者の一人。神流もそれがあったから、士郎を突き止めた。
「私だってあるわ。燃やされたこと」
「たとえ死ななくても、無傷ではいられないだろう。俺は傷もつかない」
「……ありがとう。本当にヒーローみたいね。かっこいい」
「茶化すな」
足音は少しずつ近づき、そして最も大きくなった所で音を止めた。間違いなく、その足音の主は扉のすぐ外にいる。
ガタガタッと乱暴に玄関ノブが回される。
当然鍵が掛かっているため、ただ金属音を出すだけで開くことはなかった。
すぐに静寂が戻る。しん、とした短い時間。二人はただ、その玄関だけを注視し、そのあとに備え続ける。
「あきらめたのか?」
士郎の疑問の回答はすぐに訪れた。
轟音。耳を劈くほどに弾けるような断続したそれが、何度も響いたのだ。
本物を聞いたことはなかったが、何度も映画やドラマなんかで聞いたことのある音だ。
「銃声……ね」
「ファイアーマンじゃないのか?」
「焼き切るより簡単なのかも――」
鍵が破壊され、玄関がわずかに開いていた。ききっ、と小さな音が聞こえて、扉が少しばかり開いたが、そこから人影がみえない。
すこしずつ、破壊された扉がゆっくりと開いてゆく。
当然士郎に銃弾を受けた経験はないが……ナイフを通さないことが分かったので、銃弾も致命的にはならないだろうと勝手に判断し、士郎はさらに一歩、玄関に近づく。飛び道具がない分、距離を縮める必要があったと考えたのだ。
扉は誰かが開いているわけではないようだった。
扉は破壊された小さな勢いで、ひとりでに勝手に開いているだけである。
そして、その扉が半分以上開いても、人が見えないのを見ると、すぐ隣かに隠れているのだろう。
士郎は生唾を飲み込み、さらに一歩、そこに乗り出したが――それよりも早く、事態は起きた。
「動くなこの野郎! この……や」
物陰からピストルを構えて飛び出したのは――
「わ、わわって、え、エリノ!?」
「シロウ!」
そこにいたのは、ピストルを構えた士郎の唯一の家族である、エリノだった。
「エリノ! どうしてここに!?」
「お前こそ夜中抜け出してどこに! 俺はてっきり……大丈夫か」
「どうしてここが分かったんだよ」
「携帯にGPSつけてるに決まってるだろう! ほら、こっちに」
「あら? 知り合いなのかしら?」
「なんだその裸の女は!」
三者がそれぞれ言いたいことを言い合って、混沌の坩堝と化す。
「ちょっとまってエリノ落ち着いて。説明するから! こいつは、違うんだ! こいつは、その、彼女なんだよ!」
「は!?」
「裸なのも、そのアレだよ! やることって言ったら一つしかないだろう!」
「とっさにしても最低の言い訳ね……」
神流がさすがに呆れる。
「んな訳ないだろう! 年中引きこもってるお前が彼女なんているわけないっての!」
「しらねぇのか? 出会い系だよ! いつも外に出られないから」
「待って」
その場を制止したのは、神流だった。
「ごめんなさい。私は士郎君の彼女でもなくて……仲間よ」
「仲間?」
エリノは怪訝な表情を見せる。
「彼の力のことを知ってる。だから私は彼に接触したの。私も同じ超能力者だから」
「…………」
彼女の言葉に、エリノは表情は変えなかったが……銃口を少し下げた。
「本当に……そうなのか? こいつの力の事を知ってて近づいたのか」
「ええ」
「それで、君も超能力者だと」
「信じられないなら、その銃で私を撃ってみれば分かるわ。私は怪我をしても死なないし痛みを感じない。そういう能力を持ってる」
「いや、エリノ。本当に撃つなよ。こいつの言うことは正しいけど、普通に怪我するからな。死なないだけで」
「まてまて、訳が分からない」
エリノは今度こそ銃を下ろして、その場に座り込んだ。
「えーと、シロウ。お前以外にも超能力者みたいなのがいて、彼女がそうだっていうのか? 撃たれても死なない?」
「この目で見た。銃じゃなくてナイフだったけど」
「そんな馬鹿な」
「もっと馬鹿な奴がいるだろう。ここに」
どうにかエリノを落ち着かせた士郎は大きく溜息を吐いた。
「あの会場にいた女だよな」
「ええ。あそこで士郎とはじめて会ったの」
新しいドレスを身に着けた神流と、士郎、そしてエリノは部屋に戻り、事情を話した。ただしヒーローの恰好をしてタンバを倒した事を除いて――ただ、彼女のファイアーマン捜索に協力しているということをおぼろげに伝えた。
「エリノはピストルなんて持ち出して……マジ何考えてんだよ」
「そもそも、現代日本でどうしてそんなものを」
「昔は外で悪い事をして食っててたからな。その名残だ。今回の件は、それ絡みで巻き込まれたと思ってな」
「何者なの? この……エリノさん、って方は」
「俺の保護者だよ。親代わり。銃のこともそうだけど……あまり気にしないでくれ。悪い奴じゃないんだ」
「いや、気にしたほうがいい。なんだか知らないけど、コイツを大分厄介ごとに巻き込んでくれたみたいだないだな。ファイアーマンを探すなんて」
エリノは皺を作ると、自分のひざの上で指をカタカタ動かして不機嫌をあらわした。
「カンナといったな。シロウのこと、どこまで知ってる」
「彼が特殊な力を持っているという事です。頑丈で、強く、速い。そしてそれを隠して生きてきた。訊ねられる前に答えておきますけど、彼を見つけたのは――私と相棒はファイアーマンを探していて――そのつながりで超能力を持つ、または疑わしいに人を探しています。そして、ファイアーマンの被害者で、怪我のなかった彼を知り、あの会場で接触しました。」
まるで用意していたかのようにスラスラと現状を話す彼女。
納得したのだろうか? 息を大きく吐き出してはいたが、特に何かを言うことはなかった。
「エリノさん。私からも一つ質問が」
「なんだ」
「士郎君の体の事……知らないはずありませんよね。どうしてそんなに慌てて、彼を助けに?」
「確かに文字通り殺しても死なない奴だけどな。俺はこいつの親だ。子供が無敵でも虚弱でも心配して駆けつけるのは当たり前だろうが」
「……そうですね。変な質問してすみません」
「でも、それだけじゃないのは確かだ。こいつの正体、他の誰かに知られていいはずがないだろう? それこそ一生閉じ込められて実験材料にされるかもしれない。そうなれば傷つくのは体だけじゃない。そうした奴を許すほど俺は心が広くない」
「消されるんですか? 私」
「シロウ。どうする? お前が殺して埋めたいならそうするけど」
「ゾンビだから死なないってさ。というか、実弾入りの銃を持ったまま物騒なことをいうのはやめてくれ」
士郎は当然エリノを良く知っていた。
士郎がそれに頷く人間というのも当然エリノは分かっているし、もしそれを士郎がお願いしても彼はけして実行しない。
二人のやり取りを見ながら彼女もなんとなく察したようで、怯えたりはしていない。そもそも彼女はそう感情を露にするタイプでもなさそうだが。
「言葉での確約しかできませんが……彼の正体は私が墓にまで持っていきます。ジョークじゃなくて。それに……私だって私のことを知られては困る立場なので」
「それに。こいつに報酬も貰ってるんだ。現ナマで」
士郎が吐露すると、
「いくらだ」
なんて値段を訊ねるエリノ。
「百万円」
士郎がエリノから貰った札束を出すと、エリノはさすがに驚いた顔をする。
「金額は問題じゃないかも知れないけどさ」
「いや、問題は金額だ。ただ遊びでやっている訳でもないってことなんだだろう。こいつを弄んでいるというわけじゃないだろうな」
「ええ。彼の力を借りる対価だと思っています。それに、個人的にも気に入っていますから。士郎のこと」
神流がわざとらしく、妖艶な流し目で士郎を見つめる。士郎は思わず視線をそらしてしまった。二人が口をつぐみ、しばらく時間が経った。
今まで口を開かなかった士郎が、こう声をあげた。
「俺、神流の事を手伝ってみる」
その言葉は、あの殺人鬼に襲い掛かった時のような覚悟のあるものではなかった。
だが、躊躇なくそういえてしまったのだ。
「そうか」
「大体、今までは間違ったことやったと思う。同級生怪我させたり、物壊したりさ。でも……助けられた事もあっただろう? 昨日の夜もそうだった。だから、そういう事ができるならやりたい」
SNSからの声は自己満足をさせてくれた。だが、その快感だけではない。
人を助けたという事実は人間として当然誇るべきもので、そうして誇ることはけして恥ずかしいことではないと士郎は考えていた。
エリノは席を立った。再びピストルに手を伸ばす事も、顔をしかめることもない。
「分かった。だけど、何か困ったことがあったら言うんだ。手伝える事もある。それに、分かっていると思うけど、誰かに知られないように気をつけろよ」
なんてエリノはあっさり認めた。
「手伝ってくださるのはありがたいですけど、できるだけピストルの世話にはなりたくないですわ」
「お前の隣にいる奴はピストルより強いぞ」
士郎は笑う。
「まあ、いくらなんでもピストルはヤバイだろう(ナイフは大丈夫だったけど)」
「いや、大丈夫だ。俺が保障する」
「は?」
エリノはシーッと笑って、
「もう試したからな。昔」
なんていいながら彼は士郎の左足首を指差した。
すぐに士郎がそこをめくると、親指つめくらいの赤い斑点がそこにあった。
「これって……」
「試したくなるだろう。そんだけ頑丈だし、俺にはピストルあるし」
「俺にそんな記憶がないってことは……」
「お前がこんなちっちゃい時の事だけどね」
「てめぇ!」
「はは……どうするシロウ。帰るか?」
それに代わりに返事したのは神流だった。
「もしよかったら、もう少しゆっくりしていかない? エリノさんも」
「俺はやめとく。仕事投げ出して来たから、急いで戻らないとな。じゃ、俺は行くわ」
いつもの調子を取り戻した彼は軽く手を振って、そこを去った。
そして再び二人きりになると、すぐに神流が感想を口にした。
「騒がしい人ね。でも、いい人」
「まあな」
「ありがとう。これからも手伝ってくれるなんて。素直に嬉しいわ」
なんて微笑に士郎は思わず照れてしまった。妙な格好をし、妙なことをする奴だったが……間違いなく美人だから。
「ま、まあ……危なっかしいしさ。それに」
士郎は続ける。
「もし、俺の力を堂々と使えるなら、危ない事ができればいいな、って考ええてたんだ。工事現場とか、災害救助とか……」
「残念ね。きっと士郎君が表に出ても、そんな風にはなれないわよね。社会がそれをほっとかないでしょうし。士郎君は士郎君、ただ一人なんだから」
「それをずっともどかしく思ってたんだ。ヒーローになって大勢の人を助けるなんて分かりやすくなくとも……もし、俺がいれば、何とかなったかもって思って」
「…………」
「な、なんだよ。そんなに見て」
「士郎君がそういう人でよかったなって。士郎君が悪い人だったら……GHCで倒さないといけないから」
「なんだよそれ」
「今までたくさん見てきたわ。人より強い人を」
「超能力者ってことか?」
「いいえ。普通の人よ。人より筋力が強い人。社会立場が強い人。自信にあふれる人。でも……そうして優れている事を認識している人は、残念ながら悪い人が多かった。だから嬉しい。士郎君のような人が、こんなに優しくて素敵な人なんてね。私、そういう人が大好きよ」
「からかうなって」
「あら、なんで? 女の子なら大半はそうでしょう? 別にゾンビ女だからって、腐った男が好きなわけじゃないわよ」
「…………」
「それに、このSNSみたいにみんなも、そういうあなたのことが好きになると思う。あなたはすごくヒーローに向いてるよ」
「なにくだらないこと言ってんだよ……何か飲み物ないか」
「冷蔵庫に色々あるわ。勝手に飲んでいいわよ」
許可を取り、大容量であろう巨大な冷蔵庫を開き、あまり見ないメーカーのジュースやお茶を物色していると、携帯のバイブレーションを耳で気づいた。一瞬、ポケットの自分の物に触れたが、それが神流の物であると知る。
「電話か?」
「ニュース。ニュースの全部は確認できないけど超能力的な、ファイアーマンに関わる情報があったらピックアップしてこうして連絡を――」
どうやら新着のニュースを確認しているところのようだった。
そんな彼女のスマートフォンを操作する指が、とたん止まった。止まったのは指だけではなく、表情も。その表情は芳しくなく、まるで苦悩するかのように皺が作られる。
「どうしたんだ」
「士郎。サウンド――あの子の所に行って。すぐに」
「何かあったのか?」
「……このニュース」
「…………!?」
時勢を反映する速報。だが、ニュースというフィルター越しの非現実的な事象であることが殆ど。
だが、そのニュースはそうではなかったのだ。
確かにそれは、自分たちが行った事によって生まれた事件だったのだ。
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