1話 「ゾンビガール」 後編
2000年代は携帯全盛期とまで言われている。その普及率は必須レベル達して、今では固定電話の概念すら失われつつある。公衆電話なんかは絶滅危惧種とまで言われているが、なにやら法律で緊急用の設置義務があるらしく、遠い間隔でそれが置いてある。
士郎は帰り道、それを探しては電話をかけた。
警察にである。内容は、タンバのことだった。
もちろん彼女の言うとおり、本当に深夜2時に殺人犯のタンバが現れるか、そもそも彼女……正確にはGHCの彼女らが、本当にそちらに向かうのかは分からなかったが。
それに警察への通報に抵抗はなかった。昔同じようにしたことがある。もっと小さい頃のことだけど。
士郎が通報を行うと、警察は過剰に反応した。どうやら警察もタンバの事件には敏感になっているようで、半信半疑ながらも色々と訊いてきたが「不確かな情報」という事を強調し一方的に切ってしまった。有力情報には金が出るらしいので、もしそれが事実ならそれを受け取れる可能性もあったが、それ以上に身元を知られたくなかったのだ。
もちろん、警察には女の子二人のヒーロー集団がやっつけるために呼び出した、なんて言えるはずもなく「タンバらしき人が話しているのを街中で聞いた」とそれらしい内容をでっち上げた。その場に命知らずのコスプレの女の子がいたら、保護はしてくれるだろう。
深夜0時も近いところで、士郎は自室のベッドに転がり見飽きた天井を眺めた。
夜はなぜか色々捗る。自然と睡眠時間のペースは乱れ、昼夜逆転は当たり前の生活だった。そういった怠惰な生活が年単位で続けば、人生の危機感すら失われてゆく。
当然、昼の彼女との出会いを思い出していた。
あの妙な女性との出会い――妙な会話を交わしただけに過ぎないが、それでも凹凸のない退屈な毎日を過ごしていた士郎にとっては刺激に違いなかった。とても愉快とは言えないものだったが。
士郎は考える。
ゾンビガールごと神流とやらが、ただのホラ吹きには思えなかったからだ。だからこその通報でもあった。
彼女の行動原理は、ただ正義と社会貢献の為に悪を倒す――その為に馬鹿なチームを作った――それだけなのだろうか?
自分のことを事件の被害者という面から調査してまで訪ねてきた目的は?
「…………」
彼女の見た目や言動のインパクトで殆ど呆れてばかりだったが、よく考えてみると彼女の言葉と行動一つ一つが気になってしまう。
普段から早い時間に眠るわけではなかったが、取り分け眠気はこなかった。
士郎は数日前に来た彼女からのメールを眺める。
このメールに最初は驚いたものだ――自分のことを超能力者と断定していたから。
少しばかり考えをまとめ、彼女に疑問を添えたメールを送ろうとした時のことだった。
手の中で携帯が着信を告げバイブレーションし、思わずビクッと身構える。
それもまた、珍しいメールだった。
しかもそれは、登録されていないメールアドレスからのもの。神流からの物ではない。
士郎はその新着メールを確認する。
送り主は『サウンド』。メール題名なし。
内容は、画像ファイルつきで一言。
――タスケテ
「なんだよこれ……!?」
添付画像を目にし、士郎は自分の目を疑った。
画像は全体的に暗かったが、遠く街並みの灯りと、それを反射する水面、そしてその水面の上に浮かぶ小型船そして倉庫が見えた。それが船が停泊する埠頭であることは間違いなかった。
そして、画像中央、アスファルトの地面に寝転がっていたのは、二つの水色の服を身に着けた人影だった。警官だ。
その警官の顔まで確認することが出来なかったが、脱力して固い地面に倒れこむ姿は……まるで死んでいるかのように見えた。血痕もあるような気がする。
既に士郎は冷静ではなくなっていた。
その埠頭は先ほど「タンバ」が来ると通報した場所。そして、そこに警官がいるということは……自分の通報で動いてくれた警察であると容易に想像できたのだ。
家をこっそり抜け、士郎は埠頭に走った。
彼の思考や感情、価値観は一般人のそれをある程度は相違なかった。
だから、警察ですら殺されるような場所、殺人犯がいるはずの場所に単身で向かうという愚かさを客観的に認識していた。
しかし、それと同時に彼は自分の事を良く知っていた。
そして、それを踏まえ、この行為は愚かではないということを認識していた。
通報以上の事が出来ると考えたのだ。いや、ずっと考えていたことだ。
今まで生きてて来てずっと。
それは身の危険を覚えたことのない、自分の欠落した感覚のせいかも知れない。
黒い彼女――神流の言葉は全てが嘘とファンタジーに塗れているよう思えていた。
だが、一つだけ真実があった。
だからこそ、彼女の言葉全てが嘘でないように思っていたのだ。
初島士郎は超能力者だったから――
埠頭は予想以上に暗かった。月が隠れているせいか、それとも先より街の明かりが減ったのか。
喉を塩辛く乾かせる海風は寒気を感じさせていた。士郎はその匂いを思いっきり飲み込んでは、辺りに目を凝らす。
辺りに人の気配はない。しかしながら、携帯に送られた画像通りの場所に、警官二人が全く同じ格好、同じ場所で倒れているのが見えた。先ほどの画像が、ここで行われていた現実を映していたことを証明している。
そこで取るべき、もっとも賢い行為……などと冷静に考えられるのなら、士郎はここにはいなかったかも知れない。
その警官たちの安否を確認するために近づこうとした時のこと。
――スッ、と風、もしくは音が士郎の右耳に吸い込まれた。
今まで味わったことのない妙な感覚だ。音が自然と聞こえるのではなく、耳の中に入ってくるような感覚なのだ。
士郎は反射的に、右に振り向く。
「君は?」
「しーっ」
少女だった。神流ではない、誰か。
フードつきパーカーを被った見知らぬ少女。肩に大きなかばんを掛けている。深夜二時前に少女が――いや、誰がいてもおかしいが、少なくとも彼女はタンバではないだろう。
彼女は手招きすると、倉庫前に積まれていた、ドラム缶が数段重ねになった棚に体を隠した。士郎も招かれ、思わずドラム缶を背に隣に座り込む。警官たちが倒れていた場所から死角となる場所だ。
彼女から隣に座り込むと、その彼女から妙な音がしていることに気づいた。
その音源は僅かながら彼女の顔――正確には耳から漏れているものだった。彼女はヘッドフォンを着用し、音楽を聴いている。その音だったのだ。
こんな時にである。まあ、彼女が今が『こんな時』であることを知らない可能性だってあるが。
「誰だ? どうしてここに。神流ってやつの知り合いか?」
「私もGHC。名前はサウンド。タンバを倒す」
彼女が、ゾンビガールごと神流が言っていたもう一人のメンバーなのだろう。
当然『サウンド』というのは二つ名、コードネーム。そして恐らく士郎にメールを送った張本人だった。
「お前が警察に連絡した。余計な事を。おかげでタンバに怪しまれた」
なんて常識的な行動を責められてしまう。
「こうなるなんて思わなかったんだ……って、タンバがいるのか?」
士郎の疑問にろくに答えることなく、彼女はぺらぺらと説明する。
「とりあえず、状況説明。今ゾンビガールが彼と話してる。プラン1は会話して自首させる。プラン2はゾンビガールと話して油断したところをしばくつもりだったけど、どちらも警察の介入で失敗した。警察はぶったおれた。多分死んでない。改めてゾンビガールがタンバと話してはいるけど、多分決裂する。そうしたら実力行使。君の出番。私は音を操る能力があるけどタンバとゾンビガールの距離が近かったら使えない。そうなったら、あなたの能力でやっつけて」
「音って……ちょっとまてよ。もっと現実的な対策をだな」
「人を殺したことは?」
「ねぇよ。現実的なって言っただろうに」
彼女はなぜか残念そうに肩を竦めると、懐に手を伸ばす。そして、自らのヘッドフォンとコードで繋がった小型の集音機を取り出し、士郎の胸に当てた。
「なにやってんだ」
「心音を聞いてる。緊張、不安、焦り……ネガティヴ。本当に超能力者なの。今の状況なんて、君にとっては危機ですらないでしょう」
「緊張してるし不安だし焦ってんだよ。それに、超能力者超能力者って……」
「違うの? ここまで一人で来た癖に――」
その時だった。
カンカンカンと金属を叩く音が響き、二人の会話は遮断される。死角の向こうからの音に二人は詰まれたドラム缶の間から音の原因を確認する。
最初に、倉庫の中から飛び出したのは神流だった。飛び出した、というよりふきとばされたようで、彼女は強く体をコンクリートの地面に打ちつけ、転がっていた。
「なんなんだよ。なんか気持ち悪いな。ん? ううん?」
甲高い男の声があって、続けて倉庫の中から声の主がやってきた。
その顔をネットニュースで士郎も知っていた。タンバだ。例の強姦殺人鬼である。
顔を知られてない、逮捕されていない男だ。
テレビやネットで公開された指名手配の写真にある凶悪な顔……間違いなく本人ではあったが、その凶悪さが誇張されていただけであることが分かった。
こうしてみると意外なほどに普通の男であった。
「どーやって俺を探したのかもわかん ねーし、何をしたいのかも分からないけどね? でも、そのなんだ。あのーそういう 願望の奴? ほら、殴られるの好きとか」
タンバの声のトーンは一定ではなかった。脈略もなく言葉が途切れることもあり、早口で一気にしゃべることもあり、その声質は不安定そのものだった。
「でも、ホラ、強姦殺人て呼ばれてん。死んじゃってもいいの? あ、俺はあまり殺すのとか好きじゃ、じゃないけど、俺じゃないし。殺してるの」
「多重人格? サイコパスには精神分裂症を患っている場合があるというけど」
冷静な彼女の分析。当然実際のものを見るのは初めてだが。
「どうするんだ? 何か考えがあるのか?」
焦る士郎の質問に、彼女――『サウンド』は答えず、ただ向こうの二人のやり取りを見ているだけだった。
神流が立ち上がるのと同時に、男は懐から果物ナイフ程度の刃渡りしかないナイフを取り出した。
「い、いまはあまりしたくないからいいよ。普通に殺すわ。殺すのは俺の役割じゃないけど、ん、他のは留守だし」
「良かったわ。服を脱がされずに済むのは。私、肌がきれいじゃないの」
「そ、そうだね。白いし、汚れてるから、俺は嫌い」
神流は傍観している士郎よりよっぽど冷静に見える振る舞いだった。
目の前で殺人犯がナイフを取り出しているのに、冗談を口にする程にだ。何か確信のような対策があるのだろうか――しかし、少なくとも隣の小さな彼女は、まだ微動たりもしない。
さらに男が距離をつめても神流は動くこともなく、はたまた立場を逆転させる何かが起きることもなかった。
遅々として男が歩み、そのナイフの距離が彼女の体に届く距離になっても、誰も何もしなかった。
そして、
目の前で、神流は刺された。首に程近い肩に、彼のナイフの刃全てが食い込んだのだ。
「!」
――だが、驚くほど静かだった。この場所は未だに無音に近かった。
男はナイフを抜かず、肩に刺さったままのナイフを手放して、一歩下がった。
そして、変わらない。
悲鳴が、なかったのだ。
射された神流は立っていた。
肩にナイフを刺したまま、流血し、そして、ただ突っ立っていたのだ。
その瞳は男を見つめている。焦点は乱れず、脚も震えず、声もなく、ただ静かに鼻で息をして、流血ほどに汗もなく、ただそこに立っているのだ。
「なんできゃーってならないんだ」
「ゾンビガールだから。死なないし、痛みを感じない」
「なんだそれ気持ち悪い」
男は肩を竦めた。もちろんタンバの淡白な反応は異常なのだが、男が異常であることは言うまでもない。
流血のままで、彼女は平静に問いかける。
「タンバ。どうして貴方はこんなことをするの」
「そうしないと皆に怒られるんだ」
それは『別人格の自分』ということだろうか。
「それじゃ、貴方のせいじゃないのね」
「でも、皆にほめられると悪い気はしない。でも、困ったことがあるんだ」
「なにかしら」
「誰も俺を助けてくれない。皆逃げちゃって、俺が悪者にされるんだ。子供頃からずっと」
「それは私じゃ救えないわ。だけど、きっと彼が貴方を救ってくれる」
「だ、だれ?」
彼女は嘲笑して、短く言い放った。
「医者」
――――
神流の肩が刺された直後の事。二人が何かを話しているが、内容はよく聞き取れない。サウンドは動かない。流血があっても、何も変わらない。不気味なほどに、まるで何もなかったかのようにだ。
彼女が刺されたことへのショックより、士郎はそれを受けて平然としている神流に驚愕を隠せなかった。
「お、おい、アレって」
「ゾンビガールだって言った」
「そんな事あるわけないだろう! 刺されたんだぞ!」
「神流は一度死んで蘇った。彼女の名前でググれば分かる」
「悠長にしてられっか。とりあえず救急車を」
「これ」
彼女は肩に掛けていた大きなかばんから、何かを取り出し士郎に渡した。
「ヘルメット……?」
それは比較的最近開発されたフレーム式のバイクヘルメットだった。
首から肩にかけて装着し、ボタンを押すことで畳まれた状態でうなじ部分についている頭部ヘルメットが展開し、頭から目、鼻先まで守る。
大げさで重いものだがプロテクターとしては優秀で、レーサーなどが愛用しているものだ。デザインは一般的なヘルメットよりずいぶん派手で、手製のカスタムが施されている。
「これで変身して」
「ふざけている場合かよ」
「でも、これでヒーローとしてプライバシーと頭を守れるけど」
「…………」
「どうしたの。助けるために、来たんでしょ」
「殺人犯と女の子だけで戦うなんて、なんて馬鹿なんだ、お前らは!」
士郎はそれを受け取って、すぐにつけた。顔を見せる理由などない。
そのヘルメットを展開すると、首から頭部のほぼ全域をカバーした。顔では彼を知るものでも彼を判別できないだろう。
士郎はマスク越しの視界の変貌に驚いた。そして、バイクヘルメットを装着したことのない彼だったが、それが普通のヘルメットでないことは明らかだった。
視界が加工されている。目の前にいるサウンドの表情が見えなくなり、青色のシルエットだけで彼女の姿が表示されていたのだ。
「それと、これ」
言うと、彼女は自分がつけていたヘッドフォンをはずし、ヘルメットの上から士郎に装着した。ヘルメットにそのヘッドフォンはぴったり嵌り、そのヘルメットがそのヘッドフォン装着を前提に作られているように思えた。
「しゃべらないで。その状態でしゃべると大声になるから」
ヘッドフォンからは回りの音が聞こえるくらいの静かなクラシックの音楽が聞こえていたが、
「神流を助けて。あの男をやっつけて」
と、サウンドがヘッドフォンを操作した。
「ヒーローになって」
ヘッドフォンからの轟音が士郎の鼓膜を叩いた。
その意味を分からず一瞬顔をしかめてしまったが、それが『音楽』であることに気づけば、障害ではなくなった。
むしろ、その激しいロックは士郎の心を何故か不思議と落ち着かせていたのだ。両耳を激しいビートが支配し攻撃的な音が士郎の緊張を和らげているのだ。
音楽を耳にするのは人間が余裕が日常の中だけ。危険が顕在し緊張を呼ぶ静寂という妨げを、それが緩和してくれていたのだ。
視界の向こうにあるのは……二つのシルエット。一つは青、一つは赤。
青はFRIEND。赤はENEMY。
ヘルメットの電子になって単純化した世界が、彼の目的を明確に定めてくれる。
もう士郎の視界には敵と味方がいるだけだった。
士郎は駆けた。
その足音はあまりにも大きく、そこにいる者の全ての視線を独占した。
殺人鬼に向かっていくために一番大事な物――
恐らくは勇気。蛮勇かも知れない。だけど士郎には、その両方など必要なかった。
士郎に必要なのは、少しの『覚悟』だけだった。
「誰も俺を助けてくれない。皆逃げちゃって、俺が悪者にされるんだ。子供頃からずっと」
「それは私じゃ救えないわ。だけど、きっと彼が貴方を救ってくれる」
「だ、だれ?」
「――医者」
タンバは強い男だった。
彼はアメリカと日本両方で育ち、成人するとアメリカで海兵隊に入隊した。
彼には才能があり肉体的にも向いていたが、その言動や態度、そして日本語訛りの下手な英語で他の面々を苛立たせ、そして暴力を受けた。
だが、彼はそれで終わらなかった。彼を気弱なジャパニーズをだと考えていた『仲間たち』は、そこで一緒に学んだ技術を使われ、さらなる暴力でタンバに『仕返し』をされた。その後、彼は逮捕され、数年の服役につく。
屈強な海兵隊を病院送りにできる技術の一つがナイフだった。痛みを強く感じ、死亡率の低い場所を刺すことも彼にとっては容易である。
そして、突然の背後からの襲撃に対応できる研ぎ澄まされた感覚と身のこなしを持っていた。だからこそ、彼は犯行を容易に行え、また日本の警察からの逃亡も容易かった。
――すなわち背後から足音を立てて飛び掛るヘルメットの少年を迎撃するのは、特に思考すら必要としない容易だったのだ。
「馬鹿!」
彼は叫び、体を回転させると同時に、懐にあった、先ほどよりずっと刃渡りの長いナイフを飛びかかる少年の胸に突き刺した。
――いや、突き刺そうとしたのだ。
その一瞬。彼は表情を変えた。
異常事態。『ありえない事実』。
だが、それを理解するまもなく、彼は倒れていた。
ナイフが、さっきの黒い彼女に刺したより、より鋭く頑丈なそれが、少年の胸に食い込むことはなかったのだ。まるで石壁にそれをぶつけたような。全体重を乗せて襲ってきた少年の胸部の肉に、彼の尖れたナイフの刃は一ミリとも通らなかったのだ。
そして、少年の拙い拳撃は男の脳天に炸裂する。
彼の体が、その衝撃を受けた頭部の勢いに負けて地面に叩きつけられる。
コンクリートの地面を小さく一度跳ねて、彼はアスファルトに神流より多い血をぶちまけながら、彼は意識を失った。
「……すごい」
神流が思わず口にする。
――それこそが、士郎の超能力の正体だった。
誰もが思い浮かべるような超能力とは違う。
サイコキネシスでも、テレパシーでも、パイロキネシスでもない。
これこそが、士郎が臆することなく、この危険な場所に駆けつけられた理由だったのだ。
彼の肉体は今証明したように刃を通さない程に頑強だった。
そして士郎は忘れていたが、その筋力は石を、そして頭蓋を簡単に砕いてしまうほどであった。
そして、今まで、その力を「人」に振るった事がなかった。
「…………」
そこには士郎のヘッドフォンから漏れるリズムだけがあった。
ヘルメットで神流からは彼の表情が分からない。そして士郎の視線には、ヘルメットのフィルターがかかった、倒れた男の『シルエット』だけ。
彼には見えていない。その大量の血も、男の破壊された顔面もだ。
そして、神流の表情も。
「俺――っ」
士郎は話せなかった。
ヘルメットで覆い隠していない部分――開いた口を、神流の唇が塞いだから。
甘い――鉄の味なんて気にならない程に、そう感じた。
そして思考は奪われる。時間によってわずかに生まれた冷静さがそぎ取られる。
耳元のビートがサビを刻んでいた。ドラムと、手の痺れと、キスとで、士郎の感覚は痛い程の高揚感に包まれる。
神流は士郎の体に触れる。本来なら胸を貫けたはずのナイフの跡。
若干の服の切れ目だけがそこにあって、神流はその切れ目に指を入れて、士郎の胸を直になぞる。
彼女が自分の唇から手を離し、何か言葉を口にしていたが、当然聞こえなかった。だが、その艶かしい動きに見とれて、もし言葉が聞こえたとしても理解できなかったであろう。
『サウンド』はどこか不満そうに眉を潜めていたが、すぐに二人の下にやってくる。
士郎の目の前で合流した二人が何かを話していた。しかし、ヘッドフォンのおかげで内容もわからず、それをはずそうとしたが、神流が両手で頭を押さえ、それを阻止した。
「一体……」
サウンドのシルエットの指がさす。
そこに視界を向けると『黄色』のシルエットが三つ、姿を見せた。UNKNOWN――すなわち不明。
だが、士郎以外には彼らの正体をすぐに把握することができた。
そこには同じ顔が三つあった。
すっかり変形したタンバの顔も含めれば四つ、同じ顔である。
彼らは三者三様、心地よいとは言えない笑顔を浮かべている。そして、その笑顔には地面に横たわっている『駄目な弟への侮蔑』も含まれていた。
「これが彼らの正体なのね。四つ子の変態だった」
神流がネタばらしに、どこか不愉快そうに鼻を鳴らす。
「多重人格でもなかったし、なかなか捕まらなかった理由もこれだったのね。それに……彼らは超能力者ってわけでもないみたい」
そこからは早かった。
神流が耳を塞ぐと、サウンドは彼らに向かって腕を伸ばし、掌を広げた。
それだけだった。
士郎のヘルメットをはずさせなかった理由はそれだ。
男たちは手を触れることもなく倒されてしまっていた。シルエットだけが見えていた士郎には分からず見えなかったが、彼らはサウンドの『超能力』で、鼓膜を破られ、気を失ったのだ。
実はそれは超能力ではないが――傍目から見ればそうとしか思えないだろう。
「そろそろ行くわよ。来たみたい」
神流は背伸びしては、彼のヘッドフォンをだけ外した。そしてついてきて、とジェスチャーし、サウンドと共に倉庫の向こう側へと走った。
すぐに士郎がやってきた方向から複数のサイレンが聞こえ、ランプの光がこちらに届くほどにパトカーが近づいてくる。
思考の隙もない現状に、士郎はヘルメット越しの「FRIEND」、青いシルエット二つを、ただ追うだけしかできなかった。
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