第13話 黄金の騎士

 彼は同じ夢を繰り返す。身体のせいで蔑まれて村を追われたこと。ひたすら西へと目指して乞食となって旅をしたこと――西には豊かな国がたくさんあると聞いたから。野宿をしながら、ひもじい思いをしたこと。人の家の戸を叩き、殴られたこと。そのうち、病の噂が後ろから追ってきたこと。――病で無くなった村を見たこと。無人の村で金目のものを漁り、それを売った金で少しだけ良い思いをしたこと。でも、お気に入りの一つを残して、飲まず食わずで運命の村で行き倒れたこと。

 優しい娘に出会った。とても親切に世話をしてくれた。彼女はとても綺麗な娘で……まるで聖女のようだと思った。別れたくない、と思ってしまった。

 一日、二日、と滞在を伸ばす。彼女は構わないのだと笑う。

 三人の怪しげな男が訪ねてきた。奇妙な面だったから、三羽の鉄の鳥のようだった。

 彼らは唾棄すべき卑猥な言葉を大声で話しながら、どこかへと連れていく。

「御覧の通り、この村に病が持ち込まれました!」

 白い布で覆われた耳にも、声は届く。男たちは何かを話していた。

「ですが、今ならこのように身から出てくる瘴気を抑えております! このまま閉じ込めておけば、この村はもう大丈夫でしょう! お喜びを! 領主さま!」

 領主の前に引き出されたのだ、と気づく。

「そ、そうなのか。はは。それなら、安心だのう。フアナ」

「そうですわね。お父様」

 少し年老いた声と、若い女の声が続く。領主の声は軽いものだったが、同時に不安を無理やり抑え込もうとするものだった。

 こいつらは、自分たちが安心するために、流行病でない私を犠牲に仕立て上げたいのだ。

 女がさらに続けた。

「けれど、見て。白い布に血が滲んでいるじゃないの! この男、どんな姿をしているの?」

「はあ。見るもおぞましい、悪魔の姿をしております」

「まあ、怖い!」

 女の身震いが、目に見えるようだった。

「いけませんわ、お父様。こんなものを持ち込んでしまっては。わたくしは、嫁入り前ですのよ?」

「そうだね。こんな汚いものを見せたわしが悪かったよ。どうか、機嫌を直しておくれ」

「そうね。わたくし、機嫌が悪いのよ。これでもし病気が移ってしまって、わたくしの綺麗な肌にあばたとか残ってしまったら、誰も見向きしなくなっちゃうわ。殿方との恋愛ごっこもできなくなっちゃう。逢瀬だって。まだまだ、遊び足りないのよ、お父様。もっとたくさんの殿方にちやほやしてもらって、可愛がってもらいたいもの」

「そうかそうか。それで、お前はこの患者に何をしてもらいたいのかい?」

 女は楽しそうに声を上げた。

「地下牢に閉じ込めちゃって。日も差さず、骸骨が転がるあの牢ね。ほら、以前お話してくれたでしょう? ほら、『勿忘草の牢』! こんな男、地上に出さない方が皆幸せだもの。わたくしだって、二度と生きた姿を見たくないし。骸骨になったころならいいけど!」

「いいね、それ。わしもそう考えていたのだよ。じゃあ、そうしようかね。では、すまないが、三人とも。ここにいるわしの侍従、カルルについて地下牢へ連れて行ってくれないか」

「かしこまりました! お任せを!」

 次の瞬間には、どさっと重い荷物を降ろすかのように布を巻かれたまま硬い地面に叩きつけられている。凍える空気。地下に着いている。

 うう、と獣のように喘いだ彼を誰かが足で転がした。布の隙間から冷たい水が内にしみ、皮膚の傷口を刺していき、一際大きく叫んだ。

「うるさい」

 あっさりと誰かが彼を蹴る。

 芋虫だ、私は芋虫なのだ。

 体を丸め、いつしか自分に言い聞かせている。

 あぁ、人間じゃなかったのだ。とっくのとうに。

 でも一方で、胸に迫るのは、シシィと名乗った娘の優しさである。

 彼はだいそれた幸福など今まで一度も望んでいなかったというのに、ささやかな幸せであっても奪われる運命にあったというのか。

 ……どこまでが夢だったのだろう。

 時をはかる手段はそこになく、牢の格子の外側に取り付けられた燭台の蝋燭が、何本取り替えられたかを数えるしかなかった。だが、すでに絶えて久しい気がする。もしかしたら、彼の眼はとうに使い物にならなくなったのかも。

 食事も水も最後に与えられたのはいつ?

 体中が痛い。きっと、地下にいたネズミに生きながら食い散らかされている。そして、体内で虫が蠢いているのがわかる。腹の傷から入ったのだ。彼らは自分を巣にするつもりで。それでももがく力もなく、濡れたざらざらの床に横たわっている。

 牢には見張りもなく、訪れる者もほとんどなかった。

 ただ一度だけ、気づけば夢のように気配が現われたことがあった。誰かが彼を見下ろしていたのだ。

「妹が、死んだ」

 それは彼が久々に聞いた人間の声だった。ただ一言、死んだ、と。

 彼は誰の兄だというのか。聞き覚えがあった声の気がしたが、忘れてしまった。

 あれも、どれくらい前のことだったのか。

 どれほど寝て、どれほど起きていたのだろう。

 シシィは今も元気だろうか。

 地上に戻れる日が来たならば、真っ先に会いに行きたいものだ。もしまだ、足が動くようだったなら。

 彼は最期の息を吐く。その一息は普段と変わらぬ、あっさりとしたものだったが、彼の体は羽のように軽くなっていく。

 やっと死ぬのか……でもさ、神様、教えてくれ。どうして私はここで死ぬのだろう。こんな運命が、あるということ? いや……病で死ぬのではない……。人並みに、病を得ることもなく、人である権利さえ奪われて……これでは、獣と同じじゃないか。人に捕らわれ、生死を握られるイヌやネコ、こうして身体を齧る卑しいネズミ……それらと、価値が同じだと? 私は、そうじゃなくて……もっと高潔な人でありたい。野原を駆け回るウサギよりも自由な……どうせなら、美しい人を守るために戦いたいものだ。子供の頃、遠くで見た騎士さまは……とても格好良かった。そう……悪魔たちを退けて、いや、それどころか罪に見合う以上の罰を与えたらどうだろう。平和の騎士になって、どこかの王国を、そこに住むお姫さまを守ってみたいものだ……。

 彼の魂は、抜け殻となった身体から抜け出ようとしていた。でも、彼の死に際の思いが、辛うじて体と魂とを繋ぎとめていた。

 そしてその生死の境目にいたからこそ、掴んだのかもしれなかった。闇の中で硬い感触を得る。それは魂と身体のどちらで掴んだものかわからないが、確かめるように手を開く。

 まるで意志を持つように、それは宙に浮いた。

 黄金のタマゴ。

 不変の輝きを持つ黄金に吸い寄せられるように、彼は祈った。

 罪には罰を。五人の悪魔たちと、彼らに加担した者に報復を。そして、彼自身には永遠の幸福を……。

 確かに、黄金のタマゴは神さまと違って、祈りを聞き届けたのだった。

 男は黄金の騎士となった。過去を忘れ、ただただ誠実にお姫さまに仕え、彼自身の幸福を叶える黄金のタマゴを守る。醜い体を黄金の鎧で隠し、どうして隠しているのかもわからなくなっていたのだ……。






「私は――嫌だ」

 シシィの知る旅人が、這いつくばっている。

 彼は結局過去を語ることはなく、虚空へと目を凝らしている。やがて、一度だけゆっくりと蝶が大きく羽ばたいたような瞬きをすると、下を向く。

 かつては鎧の形を持っていた黄金の砂を床の上で握りしめた。さらさらと拳から零れ落ちていくのを、シシィは、見ている。

 嫌だ、という声にも、耳を通り抜けたあとにようやく気付いた。

「私は……何も、思い出さない」

 偽物の騎士は昏い声で呟き続けている。己の立場を確かめるように。 

「姫さまを守る清廉潔白な騎士で、功績が認められ、これから彼女と……婚礼を、挙げるところだったのだ」

「そんな……そんなの、おかしいわ」

 知らぬ間に結婚することになっていた男は、彼だったのか。

 シシィは男を見下ろし、ウサギに向かって夢中で首を横に振る。

 彼女の傍らにいたウサギが、顔の髭をひくひくとさせた。

「それは、願い主の君が願ったからだ。君の都合のいいように作り変えられた偽物の婚礼だとも。現に、黄金のタマゴの支配から自我を取り戻した君の姫さまは、何も知らない。彼女は君と結婚しない。――彼女も、思い出してしまったから。君は彼女を愛していたようだが、彼女の話を聞く限り、彼女は君を愛していなかった。それどころか」

 ウサギはちらりと彼女を見る。察した彼女は、言われるより早く遮った。

「あなたの……大事にしていたブローチが手に入るのかもと思って、あなたが捕まる時、止めなかったの。……ごめんなさい」

 薔薇のブローチは、今はもう彼の手に握られていた。ぼつぼつと出来物に隅々まで覆われた手の中に入っている。彼女はそっと視線を逸らした。

「いいんだ。あれは……あなたにあげようと思っていたのだ。気に入っていたようだったから……あなたの優しさへの対価には安すぎるだろうが。あなたになら、盗られてもいい」

 男は座り込んだまま、赤黒く染まった枯れ木に似た腕を伸ばす。手の中に、薔薇のブローチがあったが、それには薄く血の跡が残っていた。

「ううん。……いいわ。悪魔の囁きに気を取られてしまった、私が悪いもの」

 ごく自然に手を引っ込める。誤魔化すように、にっこり笑った。

 このやり取りを、ウサギはじっと眺めていた。腕を組み、重い息を吐く。

「今まで何人ものタマゴの主を見てきたが、君が一番憐れだ」

「何だって?」

「そもそも清廉潔白な騎士が、地下牢の住人たちに一方的な暴力を加えて、いたぶることで鬱憤を晴らしたり、守るべきお姫さまの意志も尊重せず、盲目的な愛情の末に侍女を殺害したこと、愛を捧げたお姫さまの気持ちが君に向かなかったこともそうだが……」

 彼は戸惑うシシィを見ながら、

「何よりも、シシィの本心を見誤っていたことがことさらに哀れだ。君にとって、シシィは良い女性ではなかったんだよ」

「ウサギさん……?」

 どくん、と彼女の胸が轟いた。それは誰よりも信頼していたウサギに、心を見透かされたことへの警告音だった。心を暴かれるという嫌な予感だ。

 どこでわかってしまったの。お願いそれ以上は言わないで。私……ウサギさんにだけは嫌われたくないの。お願い……私の浅ましさを、見ないで。

 夢中で、踏み出してはいけない一歩を越えてしまう。

 彼女とウサギの距離はいつも一歩半だった。止めたくて、残り半歩になってしまった。

 ウサギは、無言でさっと一歩遠ざかる。

 彼はきっと何も思っていなかったのだろう。彼の習性に従っただけ。それでも彼女は泣きたくなってしまうのだ。

「優しくされたと君は言ったが、一方で彼女だって、他の皆と同じく、君を蔑んでいた一人だった。君の手からブローチを受け取らなかったのも、君の手に触れるのを恐れたから。彼女が君の前で笑ったのなら、それは内心を覆い隠すため。笑う表情を作れば、他のどんな表情もできなくなるから」

「やめて……やめて、やめてよ、ウサギさん。そんなの、嘘よ」

 シシィは必死で否定しようとしたが、もはや何の意味もないことに気づいている。その言葉の空々しさや自分の惨めさが、かえって胸に突き刺さる。

 誰からも愛されるお姫さまなんて、ほど遠すぎる。嫌なところを晒されて、それでもみっともなく隠そうとしている。

「嘘……嘘、で……」

 彼女はウサギを見るのをやめて、尻すぼみに言葉が消えていく。

「君は、確かに、言葉の嘘はつかなかった。でも、その振る舞いで嘘をついた」

 彼はそう思うことに決めたのだ、と彼女が理解した途端、もう何も考えられなくなった。

 髪をかきむしり、大声で叫び。その場から走り出し、鼻水垂らして泣くことができたなら、いいのに。それでも、彼女はなけなしの理性で立っていた。

 脳裏に、執務室で別れた兄の姿が浮かび上がる。

 ああ、だから兄さんも私と別れたかったのかもしれない……。

 扉から出る直前の兄は、年老いて捨てられたネコのようだった。机に山積みになっている、無意味で不要な仕事の山をぼうっと眺めていたのだ。

 彼女は兄を責めたが、彼女自身も間違っていた。兄妹揃って、心が汚れていたのだ、お互い様なのだろう。

「そんなわけがない!」

 彼女が内心望んでいた言葉をくれたのは、皮肉なことに醜い男の方だった。

「シシィは私に食事と寝床を与えてくれた。その温かみを、嘘だと言うのか! 彼女は献身的に私に尽くしてくれたのだ。血だらけの身体を清潔な布で拭いてくれもした。私にとって、彼女は聖女さまそのものだったんだ!」

「それならば、どうして君はそんなに怯えたような目をしている?」

 ウサギは静かに尋ねた。

「そう。君は実のところ、何となく気づいていたのでは――」

「あああああああああああっ」

 男は獣のようにウサギに飛びかかった。その爪がウサギの毛並みに食い込もうとしたと思ったら、ウサギはひらりと躱してしまう。男は顔面から床に張り付いて、動かなくなった。やがて、か細い背中が震えだす。泣いているようだった。

 彼女は、男に一歩歩み寄り、ぽつりと呟いた。

「ごめんなさい……」

 好意を抱かれるのは、気分が良かった。感謝されることで、自分がちょっぴり偉くなったようで……自分の価値を認めてもらえる気がした。見下された自分が見下すことで、彼女は自身の価値を確認していた。

 誰にでも優しいシシィは、娼婦のようでも、心だけは綺麗なままだと思われたかったのだ。彼は、彼女の理想通りの姿であり続けるための道具にすぎなかった。

 前で両手をぎゅっと組み、彼女はこれ以上ない謝罪の言葉を口にする。

「本当に、ごめんなさい」

 男はさめざめと泣き続けている。

 ウサギは一瞥すると、とん、と台座の上に飛び乗って、剣を構えた。

 どう反応していいのかわからなくなっている聴衆を見回し、

「さて、願い主はもう繰り返すことは望まなくなった。世界が繰り返すことはもうない。君たち死者の魂は解放されるだろう。そして、またどこかで生まれ直してくるはずだ」

 彼が宣言した途端に、周囲の空気が揺らぐ。

 呆然と眺めていたシシィは、そこにいたはずのイヌとネズミの数が減っていたことに気づいた。彼らがいたところには、黄金の水溜りのようなものが溜まっていた。と、それがひゅん、とウサギのいる方向に向かって飛んでいく。だが、彼は余裕を失っていなかった。

「遅かったな」

 黄金のタマゴに、剣が突き立てられている。剣の入ったところから、ぴきぴきと亀裂が広がっていく。彼を襲おうとしていた水溜りは、泥のようにべたりと床に落ちた。

 タマゴに亀裂が入るのと同じく、その場のすべてが音もなくひび割れていく。

 玉座も床も、天井も、カーテンも、燭台も、湯気を立てていたはずの料理でさえ……。

 ゆで卵の殻がめくれるように今度は別の景色が現われていく。

 屋根が無く、瓦礫が積みあがった屋敷。雨が降っている。壁が無くなった屋敷からは、無数の石の墓標を見た。そして、元は家らしかったあばら家の塊は……かつて、村だったものだ。

 振り返れば、ウサギが砕けた殻を手に取っている。ウサギの手は光り輝いていた。

 そう、黄金のタマゴが砕けたその中身――それは、黄金以上に目を射る光だった。光はウサギの手に滴っている。

 彼は、台座に座り、殻で中身をすくって飲み干しているのだった。溢れんばかりのとろりとした光の蜂蜜が、ウサギの口の中に消えていく。満足そうに、嚥下させている。

 彼のお腹が満たされていく――。

「ウサギさん」

 彼女が呼べば、ウサギが何も言わずに視線を向ける。

「これで、お別れ?」

「君にとって、幸運なことに。もう二度と会うまい」

 崩壊を迎えた世界の中で、彼はそう言う。

「もう一度会いたい、とあなたはそう思ってはくれないの?」

 ウサギは不思議そうに首を傾げた。

 彼女だって、わかっている。自分が直前までどう言われていたかなんて。

 彼女はまだ剥がれていない床を伝って、近づいていく。

「ああっ」

 誰かの叫び声が聞こえ、一瞬だけ振り返ると、イヌたちの姿が透けていく。彼女もああなるのだろう。そもそも、生きている肉体ではないのだから、生者の世界には存在できない。強制的に死者の世界へと戻されるのだろうか。

 泣いていた男は、すでにいなくなっていた。

 やがて、断裂は広がって、彼女はそれを飛び越えて、台座に向かって、手を伸ばす。

「ウサギさん!」

 急に眩暈が彼女を襲う。立っていられなくなる。

 あと少し、あと少しで手が届いたのに……!

 ぺちゃりと何かが手に触れたのを最後に、彼女の意識はふつりと途切れた。



 

 崩壊は、大ネズミと鳥たちのいる地下牢、新米侍女が歩いていた城の廊下、大臣のいた執務室をも容赦なく巻き込んだ。城下町、湖も、消えていく……。

 代わりに、城は領主の屋敷、城下町は村、湖は沼になった。

――そして、最後、死の静寂が訪れる。一人の男の溜息が、雨を含んだ風に流されていく。

 主を失った薔薇のブローチが一つ、雨と泥にまみれて、忘れ去られていき。

 一つの村が、ようやく終焉を迎えたのである。

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