第12話 薔薇のブローチ

急げ急げ! 

花嫁のお支度はまだ?

お針子はちゃんと進んでる?

一針縫えば、幸せに!

二針縫えば、永遠に!

愛を讃えよう!

だって、花婿は花嫁を愛してる。

彼が約束するんだ、永遠を!

大丈夫、花嫁だって、君のことを好きになる。

だって、優しいお姫様の物語は!

だって、優しいおとぎ話の結末は!

だって、一途な愛ある男の行先は!

幸せ以外の何もない!



 ネズミたちは口ずさむ。歌えば、動く。

どこからか届いた贈り物を何段も積み重ねるネズミ。模様替えのために巨大な絨毯を抱えるネズミ。両手いっぱいに晩餐の皿を持つネズミ。手ぶらで次の作業へと走るネズミ。

示し合わせたように、同じ詩を、同じ歌を繰り返さずにはいられない。

「……かしましネズミ」

 ウサギが通り抜けようとすると、皆が皆恐れているように飛び退いた。

 彼らも、自分たちが空っぽだということに気づいている。

 ウサギが敵だと本能が知っている。

 黄金のタマゴは寂しがり屋だ。誰もいないということを極端に厭う。誰かの声を聞きたい、生命を感じたいと思い、にぎやかしを創りだす。

 だが、黄金のタマゴは熟しきれていないから、創り出したそれの中味は空っぽ。心を騙り、本物だと主張したがるのだ。

 彼にとっては数が増えるだけ邪魔だった。

 しかも今回は非常にやりにくい。偽物の中に、本物が混じっている。

 挙げられるだけで姫、大臣、侍女。そして地下にいる……。

 城下町にも多少なりともいるはず。城内のイヌ、ネコの中にもいるのだろう。

 ウサギは颯爽と大広間に現れた。

 バタバタと準備にいそしむネズミたち。配置について話すイヌたち。談笑するネコたち。

 正面の壁につけられた大きなタペストリーには、黄金のタマゴが描かれている。本物が取り付けられた奥の台座は、今も大きな存在感を放ち、誰も近くに寄らない。

 ただ一人の例外は、黄金の騎士。槍を持って起立している。

 次の瞬間、誰がウサギの行動を予想できただろうか。

 ウサギは素早く兵士たちに走り寄った。彼らが気づいて止めるより早く、剣を抜き放つ。

「うわんっ!」

 剣を盗られたイヌが伸ばした手は、ウサギが低い体勢を取ったために捉えきれない。

 彼は無駄のない走りで、台座に向かう。

 弾みを付けて、大きく跳躍。台座の上に立つ。

 黄金のタマゴは、上ってしまえば手が届く。

 迷いなく、埋まったタマゴの上で、剣を構えた。が、横から来た斬撃が、剣を跳ねあげる。む、と唸りながらも、ウサギは跳躍して、宙に上がったそれを掴む。そのすべてが危なげなかった。

 チッ。小さな舌打ちを耳にしたのは、一番近くにいたウサギだけだった。

 その男がウサギを攻撃したのだから、聞こえたところで当然だろう。

「君かい?」

 イヌたちがわらわらとやってくる中、ウサギは彼以外を相手にしていなかった。黒真珠の瞳が問うている。

「君は……偽物のように見えて、本物だった?」

「知るかっ!」

 ぶん、と恐ろしい死の音がウサギの喉元に迫ろうとしたが、ウサギはあっさりとのぞけってやり過ごす。ぴょんと飛んでくるりと回転、イヌたちの突き出した剣をもかわし、誰もいない空間に着地する。

「激昂するか……」

 彼は確認するように呟いた。「決まりだ」

 外套を翻し、剣を構える。その周りを、兵士のイヌたちが取り囲む。

「なんと無礼なことをするのだ!」

「成敗してくれよう!」

「我らの恩を忘れたか!」

 ウサギはただ深呼吸をするように肩を上下させた。余計な雑音を振り払うように。

「君に聞きたいことがあったのだ」

 剣の切っ先にいる人物に集中する。

「ここにある黄金のタマゴ。――君は目の前に現れたそれに何を願ったのか。ぜひとも思い出してほしいのだが……黄金の騎士」

 厚い甲冑の下はわからない。彼はさらにとある物を投げてよこした。

 騎士は槍の構えを解き、冷たい手の上に乗せられた物を凝視している。

「知らない」

 金属の掠れる音とともに、それを持つ手が垂れさがる。

「私に何の関係もない」

「彼女の話を聞く限り、元は君のものだと思ったのだが」

「お前が与えたものではないか」

「私のものではないよ。これは拾い上げたものだ。……記憶を呼び起こすよすがになるかもしれない、とね」

 ウサギはふつりとおしゃべりをやめ、ぴくぴくと耳をあちらこちらへとしならせる。

「生憎、私は鼻も耳も利く」

 黒い小さな鼻にちょんと手袋をはめた指を置く。

「たった一つの好物ぐらい嗅ぎ分けなければ、お腹が空きすぎて死にたくなるほどに辛くなっていただろうけれど」

 この間にも異変に気付いたイヌたちが駆けつけて、ウサギの周りにじりじりと詰め寄ろうとしている。騎士の前にも何重ものイヌたちが立ちはだかった。しかし、ウサギが焦りを見せることはない。

「我々を恐れないとはふてぶてしいやつめ!」

 一人のイヌが叫ぶ。ウサギは初めて気づいたがごとき視線を寄越し、

「慣れただけのことだ。長年地上を彷徨い続ければ、誰でもそうなる。……何が起ころうとも、あぁ、そうか、と済ませてしまえるほど、残酷になれる。誰でも」

 一同は気圧されたようにたたらを踏む。彼らも感じ取ったのだろう、言葉に込められた実感に。

「それに、助けが来ることもわかっている」

 大広間に飛び込んできた人影が、ウサギさん、と彼を呼ぶ。

 呼んでから、周囲の様変わりに戸惑ったように目を丸くする。それでもイヌたちを無理やりかき分けてウサギの元へ行く。ウサギの持つものにも二度驚く。

「どうして、剣を……」

「黄金のタマゴを割るため」

「どうして、割るの?」

 ウサギは大きく口を開けた。白く長い前歯が光る。

「そんなこと、当に決まっている。――食べるためさ」

 黒真珠の瞳が濡れている。イヌたちの垣根の、最後の砦の騎士の向こうにある黄金のタマゴへの渇望の光だった。

「お姫さま。さきほどの疑問の答えがここにある。私のお腹は、黄金のタマゴによってやっと満たされる。新世界が熟する前の、生のタマゴを啜りあげること……」

 ウサギは前へ飛んだ。あっという間にイヌたちの剣を跳ねあげて、黄金の騎士に迫った。

 これまで反応が見られなかった騎士も、槍を構えて応戦する。

「しっ」

「はあっ」

 剣と槍では、相手に届きやすい長さである槍に分がある。

 確かに騎士は強かった。一突き一突きに無駄がなく、身のこなしにも安定した型が見える。美しい舞踏を見るのに似ている。

 だがそれにもまして見事だったのは、ウサギだった。一撃、一撃と受ける中で、大きな身体をくねらせながら、着実に近づく。剣を合わせることなく、身体一つで騎士に迫った。槍の間合いよりはるかに近くなると、今度は槍が不利になる。近接してしまっては、剣の方が有利だった。

 彼は最後に横っ腹を薙ごうとした槍裁きを剣で一度だけ受け、高く跳躍して、天高く剣を突き上げ……思いっきり騎士の真上で振り下ろす。

「やめろっ!」

 騎士の懇願も虚しい。

 ガンッ、と金属同士が力比べをする音が響く。

 眼に見えて、面当てに、黄金の甲冑に、ひびが細かく入っていく。

「あ……ああ……」

 彼の身体を覆う黄金が砕けていこうとする。彼は必死に顔を手で覆った。しかし、その金属の手も、ぱりぱりとめくれて、彼の中身を晒していこうとする。

 シシィは、彼が誰なのか明らかになっていくさまを、固唾をのんで見守っていた。

 でも、半分彼女は気づいていたのかもしれない。彼が一体、誰なのか。

 剥がれた金は、彼の足元で金の砂となって散らばった。彼自身はへたりこんで、床に両手をつき、うなだれている。骨と皮ばかりの痩せこけ、襤褸を纏った身体。頭には毛がなく、すべてが赤黒い、醜い男。

「旅人……」

 彼女は、そっと立っているウサギと彼とを見比べた。

 何という皮肉なのだろうか。二人の旅人。旅人こそが、混乱と変化を招いていくのだ。

 騎士の正体に、誰もが戸惑っている。イヌたちは所在なさげに立ち尽くし、隅っこで大人しくしていたネズミたちは、チューチューと何事か深刻そうに話し合っている。だが、何か行動を起こすものはなかった。

 シシィはそっと二人に近寄った。途中で、かちゃりと足元で音がする。拾ってみると、それはウサギに渡していたはずの薔薇のブローチだった。

 刹那、彼女の時は、過去に戻る。だが、完全に戻れるわけではなかったのだ……。

 彼女は旅人の前に立ち、ブローチを差し出した。何といえばいいのかわからないので、無言のまま。

「さて、君に語ってもらいたい。シシィの物語の続き、そして君が黄金のタマゴに願ったことを。――思い出せ」

 ウサギの言葉は魔法のように男を動かした。

「私は――」

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