第11話 ネコ大臣カルル

 歩き続けていると、ぐるぐる、とウサギのお腹が鳴り始めた。

「お腹がすいているの? 何か食べてからの方が……」

 言いかけて、口をつぐむ。

 腹ペコウサギは、どれだけ食べても満たされないのだった。

「私のことを気にしないで。勝手にどうにかする」

 後ろをついていきながら、ふと彼女は考える。

「どうにか……当てがあるということ? あなたのお腹を満たせるたった一つのものは、もしかして、すぐそばに……」

「察しがいい。私が求めているのは……」

 その顔は、無表情だった。だが、わずかに口を開けるさまは、まるで野性というものを露わにしたようだった。今にも爛々と獲物を狙っている……。

 ウサギは長い耳をせわしなく動かした。

「あぁ、やはり異変に気づかれてしまっているか……。少し急ごう」

 早足で進み、手近な部屋に入り、扉をきっちり閉める。その外で、バタバタと幾つもの軍靴の音が通り過ぎていく。

 胸を撫で下ろすその前に、部屋にいた人物がシシィの腕を掴んだ。

「姫さま。いけないでしょう。今宵はあなたにとってもっとも重要な夜。――花嫁という立場なのだから」

 憎々しげに、彼女を見下ろしている。

 飛び込んでしまったその部屋は、彼の執務室。彼がいて当然だった。

「な……な、に言っているの。カ、ルル兄さん。私が、花嫁だなんて、悪い冗談……」

「前々から、お伝えしていましたが。姫さまも喜んで承知したではございませんか」

 掴まれた腕がきりきり痛む。

 彼女はわけがわからなかったが、力が強いために振り払うことも出来ない。

 ネコは舌なめずりをして、取って食わんとばかりにシシィを見ている。

だが、唐突に、ネコの身体はポーンと、ボールのように跳ね上がった。

「むぎゃっ」

 様子を伺っていたウサギが、下からカルルの身体を思い切り蹴り上げたのだ。

 ウサギの大きな瞳がぱちりぱちりと瞬く。

「いよいよタマゴをもってしても、矛盾を隠し切れなくなってきた」

「え?」

「嘘で出来た世界に出来た綻びを繕おうと、反動のように、次々と嘘で塗り固めている。よほど、この夢の主は、幻と知っていても醒めたくないようだ」

 すとん、と何かが胸に落ちる。ようやく理解が追いついた、という感覚。

「夢なら、すべてが納得できるわ。死んだはずの私が、こうしてお姫さまになっていたことも、ネズミやネコ、ウサギがわんさかいる世界でも。それに、私を嫌いな兄さんと、こうして会えたことも」

 カルルはネコの癖に綺麗な着地を決められなかった。腰から石床に落ち、ひたすらその部分をさすっている。

 彼は、どこまで覚えているのだろうか。

 この世で一番憎い男。……だって、一番愛して欲しいと願った男だから。

 彼女は、兄が何を考えていたのか、その口で聞きたくなった。

「ウサギさん。先に行って」

 ウサギは驚いたように忙しなく瞬きをする。

「……君の方が離れたくなかったんじゃなかったのか」

「今でもそうよ。だって、ウサギさんが大好きなのだもの。だから、大広間まで追いかけていくわ。でも、少しだけ兄さんと話したい。大丈夫、ダメで誰かの花嫁にされそうになったって、どうせ大広間で結婚するのよ、辿りつくところは同じだものね」

 そうか、と彼はこくりと頷いた。

 その場を出ていく。その瞬間は後悔したが、すぐにカルルに向き直る。

 彼は偉そうに後ろ手を組んでいた。

「にゃ、にゃにをよくわからないことを話しこんでいたのかね。ウサギと深く関わるな、とあれほど言っていたというのに……! 姫さまは、人の妻となる身でしょう」

 シシィの知る、あの兄が、ネコになって、目の前でにゃんにゃん言いながら、彼女に仕えている。

 考えるほどに、不思議な巡り合わせ。

 この世界は、夢でもあるが、まるで演劇のよう。

 シシィにお姫さま、カルルに大臣、フアナに侍女の役。

 本当の自分とはまったく違う役を割り当てられ、その役に入り込んでしまったような。

 役という仮面をかぶって、本当の自分を忘れてしまったのだ。

 真実を知っているであろうウサギからすれば、どれほど愚かに見えていたことか。

 実際、人は賢くない。

 賢いと思っていた兄さえも、大きな流れに逆らえず、こんなところでネコになっている。

 同じ人間だったのだわ。

 彼女自身が、彼の言われるがままに、自分を貶めていたことに気づく。

 賢い兄のすることだから、と疑問に思わなかったことがいけなかった。

 母のすることだから、と疑問に思わなかったことがいけなかった。

 きっと、母は欲に目がくらむような人だった。不器用な娘よりも、器用な兄に偏った愛情をそそぐような……母親になりきれなかった女だったのだろう。

 シシィの覚えている母は、今考えれば……子供のような人だったから。

「私……結婚するつもりなんてないわ、兄さん」

「これは大事な結婚にゃのです! そんな我儘っ!」

「どうして大事なの?」

「この国のために必要なことだからですよ! わかりきっているでしょう! お前は昔からいつもいつも! わたくしに口ごたえをして!」

「その昔、というのは、兄さんがヒトだったころのこと? もしも、それから後のことだというのなら……今からどれくらい前のことか、本当にわかっている?」

 カルルは思い出しかけている。

 シシィがお姫さまの時は、まだもう少しだけ優しかった。相手が冷たくなればなるほど、カルル大臣は元のカルルに戻っていく。

 怖くないと言ったら、嘘になる。

 彼女は胸に手を当てた。ドレスの上からでもほのかに温かく、心音が聞こえる。でも、それは偽りなのだ。

「私は、もう、今が暦の上で何年何月何日だということがわからないことに、気づいているわ。兄さん、本当の兄さんは……妹の私を何よりも憎んでいた人。私が身を売ったお金で、身を立てることが出来たでしょう? ……そんなことを忘れていてもらっては、困る。ずるいでしょう! 兄さんの人生は、私のものよりずっと幸福だったのだから、思い出してもさして苦ではないじゃない!」

 カルル大臣は眉根を寄せた。だが、口を挟むことなく、じっと耳を傾けている。

「大臣なんて、大仰な役職じゃなかった! 母さんの期待を一身に背負っていて、裏切らなかった! 頭が良かった! 器用だった! 自尊心が高かった! 気に入らないことがあると、すぐに手を上げた! 私と縁を切った! 家を追い出した! 狭量な人だった!」

 口にすればするほど、怒りが込み上げてくる。

 彼女があの耐える日々の中で、何も思わなかったわけではなかったのだ。

 卑屈な言葉を口にして、機嫌を取りながら……どこかで怒っていた。

「私は兄さんがこの世で一番嫌いだった! 母の悪魔の申し出を受け入れた領主さまより! 誰よりも! だって、家族だったのだもの! だから、絶対に許さない! 許して……なんか」

 つう、と涙が零れる。

「そこまで嫌わなくたって! 顔を見たくないなら、他の方法で他にやることだって、出来たじゃない! この、ひとでなし!」

 彼女がしゃくりあげる音以外は、恐ろしいほどの沈黙だった。

 カルルは静かに俯き、やがて上げる。深く息を吐く。

「私がひとでなしなのは、今更だ。私はとろいお前が何よりも嫌いだった、シシィ」

「思い出したの?」

 すん、と彼女は鼻をすすりあげる。

 違いを見出そうと兄を凝視するが、ネコであることに変わりはない。上向いてくゆらせていた尻尾をだらりと下向かせていることぐらいしか気づかなかった。

 彼は、いまだ書類が散らばっている執務机に寄りかかる。

「ここで、私に割り当てられた立場が、お前に近しいということに、悪意を感じる。お前のような女が、お姫さまとは。……フアナさまは、そうだ、先ほど、挨拶に来られて……でも、以前に死んでいて……いや、これは何度目のことだろうか。くそ、記憶が……」

「たぶん、間違っていないわ。私たちは、同じことを何度も繰り返していたのかも。誰かが死んでも、その人は何食わぬ顔で戻ってくる。おかしいことをおかしいと思わなかった」

「お前は姿が変わっていないからいいだろうが、こっちは妙な気分だ……。これは私の顔じゃない、身体じゃない……! 知っている人は、皆ネコやネズミ、イヌになっている! でも、手は五本指で、二足歩行。なんて、気味の悪い体なんだよ! こんな……こんなはずではなかったのにな」

 彼女は、兄が本気で頭を抱えて困り果てているのを、初めて見た。

 そして、その様子を眺めているという事実が、遠く隔たった時の流れを感じさせる。間違っても、妹に弱みを見せる人ではなかった男だったのだ。

 涙を袖でぬぐった彼女は、改まって、口火を切った。

「私は、二十五の夏に流行った病で死んだ。兄さん、死んだのはいつ」

「同じ年の夏。秋に近かった」

 彼女の顔が翳った。

「そう……兄さんだけは生き延びたと思っていたのだけれど。では、領主さまも、そのままお亡くなりになったのね」

「フアナさまとご一緒に。大きな屋敷だったのに、お二人の苦悶の声は屋敷の外まで聞こえていたよ。惨めなお姿だった」

 一旦言葉を切り、そして、

「あまりにも醜く変わり果てた姿に……私は絶望し、結局、逃げ出した」

 その時、彼女の頬に赤がさっと散った。

「兄さんって人は……!」

 反射的に、手を振りあげて……力なく下ろす。その代り、歯噛みするような心地で、兄を睨む。

「私を売ってまで欲しかったものを手に入れたんでしょ! 殴って、蹴って、引っ張って、私に言うことを聞かせてまで貫き通したものを! 最後の最後になって、一番に選んだ主君まで捨てたの? そんなことになるなら、私を苦しめる必要なかった! ……やるなら、徹底的にやってから、私の前に立ってよ! そんな……そんな、わずかでも懺悔する、みたいな態度にならないで! ずるい、ずるいわ……!」

「子どもだったんだよ!」

 ネコが、にゃあ、と叫ぶ。彼女には、泣けるほど滑稽だった。

「一番になりたかった! なり続けたかったんだよ! なんでも出来たって、父なし子、父なし子と呼ばれるんだ! それで、大したことのない奴が、私の上に立って、あれこれと指図してくる! そんなことに耐えられなかった!」

「兄さん!」

 彼女だって、父なし子だ。彼女と同じことを言われただけなのだ。

「私は、どれだけ同じ場面が来ようとも……同じ決断を下すとも……! お前を使って、私は出世する。間違っていたとは、思わない!」

「ふざけないで!」

 今度こそ、彼女は手を止めなかった。

 彼女の平手が、ネコの横面を打つ。人にやるのと違って、その感触はあくまで柔らかい。毛皮が、彼を守っている。

 でも、平手打ちをしたという彼女の罪悪感は消えなかったし、カルルは大人しくされるがままになった。

 彼女の顔はすでに涙でぐちゃぐちゃになっていた。お世辞にも、お姫さまらしくなかった。

「確かに、私は間違っていたとは思わない。最期、墓の上で野垂れ死んだのも天罰だろう。――病人の世話をしていたから、もう発症は時間の問題だと思っていた。だから」

 カルルは祈るように瞑目する。

「最後に、お前の墓だけ作りに行った。お前の身体はすでに沼に沈められていたが、それでも、お前の家でめぼしいものを見つけて、遺品として埋めた。野草だったが、小さな花を供えて……そのまま、死んだ」

 彼女の頬に新たな筋が刻まれていく。

 ありとあらゆる感情が、暴れまわって、苦しかった。

「私はお前が嫌いだった。何においても嫌いだった。憎らしいと言ってもいい。でも、憎らしいと思っていたお前以上に、私は狂って、常軌に逸した行動を取った。今なら、わかる。いや、母が死に、お前が死んで、天涯孤独になってからやっとわかった。だが、私が過ちを認めることは……自分の人生を否定し、幸せを奪ったお前に無駄を強いたということ……それだけは、絶対に、認めてはならないんだよ……」

「ずいぶんと……つごうがいいのね」

「うん。……そうだな」

 言葉を発するための唇も、喉も異様に乾いている。

 彼女は兄にかける「何か」を考えて続けることしかできなかった。

「失ってから気づくのは馬鹿のすることだと思っていたのに、自分がそうなるとは思わなかった……」

 シシィはネコにカルルの面影を見た。燦々とした陽の光が四角い窓から入ってきて、床にネコの影が伸びる。そのくりくりで今にも落っこちてしまいそうな丸い目は、床に釘づけだった。

そこに、彼の後悔が写っていた。


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