第10話 死者の国
齧ったリンゴの味の秘密――。それはシシィの罪の味。
旅人とはあれから二度と会っていない。大方、どこかで死んでしまったのだろう。
彼女が持つブローチを取り返しに来ることはなかった。
数日後、村から流行病の病人が出た。
最初は家の息子だった。兄、姉、母、弟、父、祖母と順々にかかり、全員死んだ。
その頃には、村中に広がり、一家全員死に絶えたところが少なくなかった。生き残っている者も、ほとんど病に倒れている。
三人の医者たちは最初の患者を流行病と診断した途端に、謝礼金だけ持って逃げ出したのだそうだ。
彼女の実母も死んだと聞く。兄は村にいなかった。
家の煙突から生活の煙が上がらなくなった。
村周りには、小さな石の墓標が何十も出来た。だが、遺体を埋める棺桶は不足していたはずだ。時折、近くの底なし沼に、ドボン、と何かが投げ入れられる音がしていた。
とうとう、死の鎌は、彼女自身をも襲った。
体中にびっしりと黒い痣が広がっていく。針仕事で怪我をした指先からとめどなく血が流れ出し、みるみる体がやせ細っていく。
目は霞む。
手足は動かない。
だが、彼女はまだ辛うじて生きていた。
なので、まだ覚えている。沼の泥がまとわりついて、ゆっくりと死へと沈み込んでいく、あの感覚……。
死にたくない、と叫ぶこともできないで、生きながら埋葬された。
彼女は、シシィはあの時、確かに死んだのに。
今、彼女の身を包むのは、豪奢なドレス。もう違和感しか覚えない。
彼女は一瞬の回想を経て、塔の屋上に立っている。
齧ったリンゴは地面に落ちて、ころころと転がった。
びゅんびゅん、と風が吹く。
空はやはり青く、眼下には町と湖がある。
茶色のウサギが、彼女を静かに見た。
「確かに君は死んでいる」
ウサギの声は言い聞かせるものだった。
「君はお姫さまじゃなかった」
お姫さまとは程遠い人生だった。
シシィは胸元に手をやった。薔薇のブローチをつまんでひっぺがす。布がびりびりと破れたが、彼女は気にしなかった。捨てるべきかもわからず、ウサギに押し付けた。彼は黙って受け取るのを見ながら、彼女は眉根を寄せた。
手に馴染んで当然だった。元々、これは彼女のもの。彼女の物にしてしまったものだ。
「このブローチはどこにあったの?」
「君の墓に埋められていた」
ならば、目の前の彼が掘り出して、今ここにいる彼女に差し出したということだろうか。
一体、どうして。
問いを投げかける寸前、彼は遮るように、
「先ほどの疑問に答えよう。この国に〈国王〉はいない。みんなが皆、それぞれに自分に都合のいい国王像を作り上げ、それを語っていたということだ。本来なら、誰もその違和感に気づかないはずだった。それほど、暗示が強く、完璧な世界だった。ここ数百年で稀なほどに、完成された世界だ。入るにも、綻びを作るのにも苦労させられた……それほどに、あなたの願いは、強かったということかな?」
ウサギの黒真珠の瞳が鋭く光ったような気がした。
「さぁ、シシィ。教えてくれないか。君は、黄金のタマゴに何を願った?」
彼は、以前と何かが違った。有無を言わせない威圧感が、彼女の小鳥の心臓をきゅっと締め上げる。
彼女は懸命に首を振った。
「知らない、知らないわ! 黄金のタマゴは台座に収められているのよ? 私が近づけるわけがない。だって、騎士さまがずっと守っていて」
なぜ、急に「黄金のタマゴ」を話に持ち出したのか、彼女にはわからなかった。
あれは伝説のようなものだし、彼女自身、近づいたことはないはずだった。
「君こそがこの世界の頂点にいるのに? 君だけがヒトでいて、周囲にかしずかれていただろう? 随分と、君に都合のいい世界だね?」
この世界、この国には、差別も、暴力も、殺人もある。しかし、それらがシシィに直接襲い掛かってきたことはなかったのだ。なぜなら、誰からも愛されるお姫さまだったから。
一方的に責められても、わからない。
「そうね。……でも、本当に私は思い出せないの。私は、流行病で、沼、に、沈められて……それで、終わり。本当なら、ここにいるはずもない。こんな変なところ。私以外が、皆動物で、人と同じように二本足で歩くなんて、おかしいわ」
ごくりと唾を飲み、ようやく先ほどから喉に出かかっていた問いを口にする。
「ここは、一体どこ?」
「ここ? ここは――」
風が、続きを聞くな、とばかりに強く吹き付けてくる。
だがもう遅い。彼女は確かにウサギの言葉を聞き、彼女は一瞬、平和そのものの広い眺望の向こうに、うっすらと――無数の墓標を見た。
「魂たちが囚われた牢獄で――そう、言うなれば、死者の国だ」
シシィは時を忘れたように、身体を強張らせる。
「え……なんて?」
「思い当たる節はないか? 例えば、身近な人」
「カ……カルル、兄さん? あと……実際に会ったことはないけれど、フアナという名前を、聞いたことがあるの」
その他にも、ネズミたちの名前や、イヌの門番たちの名前……知っている限りのネコたちの名前……全部が全部、知っている。
全員、あの村の人々だったのだ。
「本当のお姫さまは、私なんかじゃなくて……フアナさまだった……」
村はずれの大きな屋敷に住む領主の娘。
美貌は近隣にも響き渡り、わざわざ彼女を娶るために何人もの貴公子が彼女の元を訪れたというのは、村でも有名な話だった。
領主は、それはそれは美しい娘を可愛がり、醜聞を避けたためか、ほとんど外へ出さなかった。
「でも、そんな! ウサギさん、私には何の力もないの! こんな大それたこと、変な世界を作れる力なんて、ない。フアナさまに、何の恨みもないというのに……あんな、ことに、なってしまって。取り返しがつかない……」
完全に人智を超えている所業である。
それに、もう戻れない……フアナは死んでしまっている。
「さて、それはどうだろうか……」
ウサギは思わせぶりな言葉を吐いて、それからじっと彼女を見つめ、何かを確かめたように頷いた。
「だが、君の言葉は信じよう、お姫さま。黄金のタマゴに願ったのは君ではないようだから」
彼はくるりと背中を向けた。ぴょんぴょんと長い耳が跳ねる。
一度はそのまま見送ろうとした。
だが、一人で受ける風は、凍えそうなほどに寒い。
置いていかれることにもう、シシィは耐えられそうになかった。
「ウサギさん、どこに行くの?」
追いすがるように声をかけ、身体も動く。ぴったりと後ろをついていく。
そして、ウサギさん、と言いながら、実は目の前の彼の名前を知らなかったことに気づく。
そもそも、彼は誰?
彼は旅人だと言った。でも彼女が知っている限り、あの当時、滞在していた旅人は、たった一人だけ。
頭がこんがらがってしまいそう。
降参して、思考を手放した。
シシィは目の前のかっこいいウサギを信じ切っている。
やはり、旅のウサギが大好きなのだ。
頼もしい背中にぎゅっと抱き付きたくなる。彼女は胸に明かりが灯ったような気分になった。嫌なことを思いだしても、ウサギのことが好きなまま。それが無性に嬉しかったのだ。
ウサギは彼女に一瞥をくれると、そのまま螺旋階段をタッタ、と軽快に降りていく。
「大広間へ」
短く言い、廊下へと飛び出した。
歩き出してから、彼女は妙な雰囲気に気づく。
誰も見当たらないのも変だが、首筋がちりちりと刺激されるような緊張感が、漂っていた。
と、曲がった先で、ネズミとすれ違う。その時、頭を下げられた。
侍女のお仕着せを着た、女のネズミだった。
「あぁ、これははじめまして。わたくし、本日より姫さま付きの侍女となりました、フアナと申します」
「なぜ……ここに……!」
間違えようがなく、彼女はフアナだった。見た目も、声もまるで同じ。
体中が総毛だった。
多くの疑問が頭の中で渦巻いたが、ウサギは立ち止まることなく前へ進もうとする。
すべてを振り払い、ついていった。
死者の国。その意味を噛みしめていた。
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