第9話 悪魔の女

 村はずれに住む悪魔の女が、醜い乞食と共に生活をしている。

 彼女を無視しきれない純朴な村人は、すぐにその光景を目にしたことだろう。

 二三日も経つと、血相を変えた男が家に飛び込んできた。

 見るからに賢そうな顔立ちの賢い男が、賢そうな立ち方で、賢そうに言い放つ。

「お前という女はすぐに男を連れ込みたがる性分なのか。今すぐ追い出して、悔い改めるように。今なら、深い慈悲ゆえの行為だと、お許しくださるだろう。……さぁ、早く!」

 そうなの。彼女は心の中でぽつりと呟いた。

 皆が皆、悪い方に勘違いをしている……ひどい。

「何をおっしゃっているの、兄さん。困った方には手を差し伸べるのが人として当然の行いではありませんか。……それに、私は、ふしだらな女じゃない」

「はっ」

 兄は鼻で笑い、ついで嫌そうに顔を顰めてみせた。臭いぞ、と言わんばかりに鼻をつまんで上を向く。

「どの口がほざく。もう、まともに結婚できない身体だろう。それに、俺はもうお前の兄ではない。我々は縁を切った」

「嘘つき」

「おまえ、なんと言った!」

「痛い! やめて! お願いやめて!」

 ぐいと頭頂部の髪を引きちぎらんとばかりに掴まれれば、彼女にはもう何も言うことができない。

 話が長くなりそうだから、と前もって旅人に外に出て行ってもらっていたことは、彼女にとっての幸いだった。

 兄は服についた毛虫を見るような目で、妹を見た。

「ならば、呼び方を改めてもらおう。村に出て、しかるべき教育を受け、今は領主さまの忠実なる臣下となった俺に、相応しい呼び方を。馬鹿なお前にも、それぐらいはわかるだろう?」

「カ……」

「言わない気か?」

 さらに強く髪を引っ張られる。クルミ色の髪は、ぱさぱさとしていて、今にもぶちぶちとちぎれてしまいそうだった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! カ……カルルさま! この卑しい女に慈悲の心をお与えください!」

 血の気のない頬に、一筋の涙がこぼれていく。

 カルルと彼女は実の兄妹だった。兄妹で、妹は、兄の踏み台にされた。

「ああ、そうだな。おまえに慈悲を与えてやろう」

 急に猫なで声になり、癖のある金茶色を撫で付けた。それは、荒々しい行動に出た自分を取り繕わんとする見栄のための行動だと妹は知っている。

「だがな、不用意に旅人など招き入れるな。 旅人で、乞食で、病持ちと来た! 近頃の流行病の噂を聞いていながら、このようなことをしたのか」

「……症状を聞く限り、あの人の病は流行っているものとは別のものですから。カルル様のように知識をお持ちの立派な方なら、ご理解いただけるものかと」

 おだてれば機嫌を直すのがカルルという男だった。体面のために生きていて、自分が周囲から一目置かれなければ納得できない。

 だから、彼女は兄にとっての汚点になったのだ。

妹の取り返せない犠牲のために兄の幸福を得ることになったとしても、眉ひとつ動かさないような、頑強な精神を持つからこそ、彼は出世した。

流行病なんてどんどん流行ればいいわ。みんな死ねばいい。

いっそ、何もかもなくなってしまえばいいのに。

彼女がこのような恨み言を零したとて、誰が彼女を責めきれようか。

でも、シシィという女は良くも悪くも優しかった。理不尽さに泣いても、心底誰かを恨めなかった。どんな事情があったとしても。

彼が遠方で高等教育を受けさせてもらえることの引き換えに、彼女はある男の愛人として差し出された。愛人と言っても、やっていることは娼婦と変わらない。同じ客に金で買われ続けているだけ。いつだって、爛れた関係は女の方が悪いのだ。

彼女の白い体は望まぬうちに黒く染め上げられ、他の村人たちに蔑まれる。

そして、何よりも辛いのは、身を差し出すことになった原因こそが、彼女をもっとも蔑んだこと。

兄のために良かれと勝手に彼女を差し出した母。けがらわしい! と村の家から追い出した。

妹の不貞に怒った兄。おまえは家の恥だ、恥を知れ! 絶縁を宣言した。

父はすでにこの世の人ではなかった。

「理解? 理解はしているとも!」

 兄は喚く。珍しく、火に油を注ぐ結果となった。

「おまえのような女は死んでも生きていてもどうでもいいが、あの方を煩わせるのだけは御免だ! だから追い出せ、と言っている! どうして溺愛されておられる美しいお嬢様だけならまだしも、お前のようなだらしのない女を気に掛けておられるのかわからん! あの方はこのところ、忙しいのだぞ! 流行病が領民に広がることを恐れて、新しく医者たちを雇われたのだから」

 流行病は、医者にも止められないで流行るからこそ、流行病のはず。

 その医者たちは、病の治療法を知っているのかしら。

 話に身が入らない彼女は、他愛無いことを考えている。

「そうですか。……あの方は、すごいのね」

 最後の言葉は口の中だけで留めておき、あとは兄からとめどなく溢れる罵詈雑言に黙々と耐え、日の傾くころになってからようやく解放される。

 堂々たる後ろ姿が一本道の向こうへ遠ざかっていくのを不安そうな顔で見届けた彼女は、そっと家の裏へ行く。

 壁に寄りかかるように座り込んでいる旅人は、深くかぶったフードで、表情が見えない。

 ただ、赤黒いできものでびっしり埋め尽くされた両手が何かを持っているのが見えた。

「何を持っているの?」

 彼女の接近に気づいていなかったのか、小さく声をかけただけで、彼は大げさに肩を震わせた。

 あぁ……彼女は、思う。もしかしたら、自分と彼は、思っていたよりも、はるかに近しいのかもしれない、と。

「薔薇のブローチ」

 彼は彼女を見ずに続けた。

「海辺近くの村――ここも流行病でほとんど人が死に絶えたのだが、食べ物を探して入った家で見つけた。……あまりにも綺麗だったから」

 綺麗、と口にする彼の声はいかにも優しげだった。

 彼女も手元を覗き見て、神秘的な色合いに、細かな細工に、息を呑む。

「本当に……綺麗ね。銀製品じゃないのね」

「銀じゃなくて、サンゴだ。海で取れる」

「そうなの。海なんて……私には遠すぎる話で、想像がつかないわ。……ね、少しだけ見せてくださる?」

 果てがない海より、底なし沼が身近なのだ。

 男は躊躇したが、彼女に渡す。

 彼女は指の腹で丹念に薔薇の花びらの重なりをなぞり、あまりの美しさにほうっと息をつく。

 こんなものを身につけて外を歩けたらどんなにいいかしら。

 男を羨ましく思った。返すのも惜しかったが、彼女は理性を振り絞って、返す。

 けれど、視線ばかりは物欲しげに訴えていた。下を向いていなければ、男は彼女の浅ましい思いに気づいて少しは警戒しただろうに。

 受け取ったブローチの金具を弄びながら、男はぽつり、と言った。

「あなたは……大丈夫か」

「え? 大丈夫に決まっているでしょう」

「あなたは優しい。まるで……」

男がぼそぼそと言う間、彼女はブローチを凝視している。

 どうしても、欲しかった。

 だが口には出せなかったのだ。






 彼女の兄の言う、新しい医者は、すぐに知れた。

 あくる日、三人の異様な風体をした男たちが、彼女の家にもやってきたからだ。

 鳥の嘴の形をした異様な鉄の仮面を顔につけ、頭まですっぽり黒の外套で覆っている。

 扉を開けようとしたのを、一度拒もうとした彼女だが、隙間から落とされた文書についた印章を見るなり、顔色を変えた。その印章の主は……領主のものだった。

「何か?」

 仕方のない様子で入口を開くと、三人の男たちはぞろぞろと内に入ってきた。

 奥に積みあげられた藁の束に包まるように、旅人が眠っている。

 不気味な来訪者たちが最初にしたことと言えば、旅人のフードをはぎ取ることだった。

「おぉ、これは……」

「なんと、醜い……」

「これは悪魔の御業だ。そうでなければ、このような化け物がいようとは誰も思うまい」

 彼らは神妙そうに、各々頷き合った。

 その話し方は特徴的だった。知識を鼻にかけるような、自意識の高さが垣間見える。彼女がまっさきに頭に浮かべたのは、兄のカルルだった。カルルもこのような話し方をする。

 ただ、彼らの指摘もすべて否定しきれないのも事実であった。

 彼女は初めてフードの下を知る。頭頂部に至るまで、赤黒かった。

 すでに頭皮も半分以上、ずるむけているように見える。髪の毛は生えておらず、やはりごつごつしている。

 一方で、さらし者にされた男は目を覚ました。周囲を見るなり、逃げようとした。

「おい、取り押さえるぞ」

 三人の男たちが暴れる旅人を難なく取り押さえる。床にはいつくばらせ、後ろで両腕を縛り上げた。

「手間を取らせないでくれ。それに、悪く思うなよ。俺らだって、仕事なんだぜ? このまま何の成果もなかったら、解雇されちまうんだからな!」

 見たくないものだとばかりに、顔に、腕に、足に、白い布が巻かれていく。そうすると、彼の枯れ木のような身体が一層浮き彫りとなって、痛々しくなっていた。

「一体、どういうことでしょうか。説明してください!」

 引き立てられていくのを、見過ごさなかった。彼女は、入り口に立ちはだかる。

「この方は、流行病を持っておりません。だったら、私もとっくにかかっているはずでしょう。あの病は、発病に三日ほどかかるのですから!」

「いや? 違うね」

 一人の男がじろじろと彼女の体を上から下まで眺める。仮面越しでもすぐにわかる、下卑た視線である。

「俺たちの方が流行病に詳しい。なんたって、医者、なんだからさ、ここでは! ハッハッハ!」

 さらに彼は耳元で囁いた。

「あんたが領主さまの女でなきゃ、俺も相手してもらったのにさ。……今夜、領主さまが館でお待ちだ。迎えが行くそうだぜ?」

 別の男が割りいって、

「いや、領主さまの娘の方がいいだろ。フアナさま? だっけ、えらい美人らしいぞ」

 彼女の顔が歪む。怯んだ隙に、彼らは押しのけようとする。

 その最中、男たちの肩ごしに見えた藁の束の中から垣間見えた物。

 薔薇のブローチに、心奪われる。

 きっとその時、彼女に悪魔が囁きかけたのだろう。

 とうとう、彼女は一人になった。地面にそのまま座り込む。

 あの人を連れて行かせたのは、兄? 領主? それとも体のいい患者をでっち上げて、自分たちが病を防いだことにしたい、あの医者たち?

 これから彼をどこに連れていくのだろう。

 彼はどうなるのだろう。

 思うことは多かった。けれど、彼女が一番にしたことは、四つん這いで奥へと進み、震える手で、薔薇のブローチを掴んだことだった。

 何度も失敗しながら、胸元に付ける。

「私の……これは私の……」

 大事そうに、指で撫でた。

 



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