第8話 真実のリンゴ
ウサギは地下に行く。
鼻がひん曲がるような悪臭をものともせず、彼は牢へつながる穴から、囚人たちを覗き見た。満足に毛が生えそろっておらず、ぶつぶつのおできまでできている、哀れな大ネズミと、羽根をむしられて火傷でずるむいた皮を欠けた嘴で懸命に戻そうとする悲惨な銀の鳥。
彼らは喚き続けている。……正気を失った方が、どれだけ楽だったか。
ウサギは執務室に行く。
不機嫌そうにカリカリと羽ペンを一心に動かすネコ。机には山のように書物が積みあがっている。
あの女! あの女! 憎悪に彩られた呼び声の矛先は、逃げるように出ていったドレス姿の女性だろう。
ネコは、ウサギを気にも留めなかった。
昔から嫌いだった!
昔とは……「いつ」の「昔」だろう。本人もまだわかっていないはず。
ウサギは大広間を通り過ぎた。
ここにはまだ見るべきものはない。
ウサギは厨房に行く。リンゴを一個もらった。でも空腹は満たされないだろう。
ウサギは塔の屋上に行く。
圧倒的な大空が世界を覆っている。城があって、町があって、城壁の向こうに、湖と森、平原がどこまでも広がっているようにみえる。
風もさもあるようにみえる。
ウサギもさもウサギであるようにみえる。
「お願い。教えて、ウサギさん」
ようやくお姫さまは追いついた。ドレスの裾を大胆に上げて、お姫さまらしからぬ恰好をしていた。頬は赤く上気して、その顔はもう不変の微笑みを讃えてはいなかった。
「ウサギさんはたくさんのところを旅したから、私よりもたくさんのことを知っている。そうでしょ? こう思うのはおかしいと思うかもしれないのだけれどね」
息を吸って、吐き出す時は、言葉も乗せる。
「皆が語る〈国王〉が、まるで別人のように違っていて。それに、カルルも態度が変わって、前より怖くなって! どうしてなの、ウサギさん!」
お姫さまは禁断の扉を開け放とう、とはっきり決める。
ある者がこれを見たならば、無知ゆえの勇気だとあざ笑ったことだろう。事実、彼女は何の真実もこの時知らなかったのだから。
離れたところにいたウサギが、一歩一歩と距離を縮めていく。大好きなウサギさんが近づくというのに、半分逃げ出してしまいたかったに違いない。彼女の足は、わずかに震えていた。
保たれる距離はやはり一歩半。
「私が旅人だからですよ。旅人は日常の中の非日常に住んでいるから。そこにいるだけで、固く構築された秩序を乱していく。影響は水面の波紋のように広がっていくことになる――。そう、どんなところであっても。これは私のせいだ」
静かに言いきる様子には、後悔も懺悔も見えない。事実を事実として口にしているだけなのだ。その立ち姿にも言動にも、揺らぎがないようだった。
彼女はこの時、どうしてウサギと一緒にいたくなるのか、唐突に理解した。
それは、彼の世界が揺るがないから。ウサギの周りが、一番確かな場所だったから。
「しかし、この世界は姫様のせいでもある」
「それはどういう意味?」
ウサギはあるものを投げた。それは熟したリンゴ。紅玉のように照り輝いている。
「このリンゴは、本物でもあり、偽物であるということですよ。綻びが進んだ今なら……どんな味になっているかわかりません」
お姫さまは齧った。
一瞬、美味しいと思った。甘くて、瑞々しくて。
でも、苦かった。土の味がした。汚れた雑巾の搾り汁のよう。
くらり、と眩暈がする。断じて幸せなものではなく、不幸を誘う運命の手が、ひょいと彼女を摘み上げ、悲劇の輪へと……あるべき場所へと戻すものだった。
旅人は、雨の日にやってきた。
トントン、と彼女の住む小さな家の扉を叩いて。
彼女はまず怯えた。なぜなら、彼女は人目をはばかるように、たった一人村はずれに住んでいて、訪ねてくるのも限られた人々だけ。その人でさえ、彼女に優しくなかった。
「優しい旦那様……お恵みを。どうか、私に一夜の宿を、どうか……」
男の声。しかし、今にもずぶずぶと泥沼に落ちてしまいそうな声だった。
現に、家は沼の近くにあった。どんな獰猛な馬でも一飲みにする凶暴な沼は、今雨に煙っている。こうも雨の降る日なら、誤って落ちる者もあるだろう。
彼女が得体の知れぬ男にわずかながらの同情心が湧いたのは、無理からぬことだった。
わずかに扉を開けて、濃厚な水の香りを嗅ぐ。
小さな林を貫く一本径の隙間から、朧げに村の家々が見える。
ふと彼女の目は下に向く。誰かが倒れ伏している。
襤褸を纏った憐れな乞食が、彼女へと赤黒い手を伸ばしながら訴える。
「長い旅の末に流れてきた憐れな畜生めに、お恵みを……一切れのパン、一切れのチーズ、一滴の温かいスープで構いません……」
なんと醜い男だろう。顔中に赤いあばたが出来ていて、ひっかいたためか血が流れている。さらにかきむしられた瘡蓋の跡まであって、奇妙に痩せこけた顔にいくつもくっついていた。ただ、腐敗しかけの顔についた両の目ばかりが蝋燭の光にぎょろりと反射して、彼の生を物語っている。
「どうか……どうか……どうか」
皮が骨に張り付いたような両手が震えながら祈るように組まれる。
「優しい……娘さん」
ひび割れた唇がそう言葉を紡いだ時、彼女は乞食を家に入れることに決めた。
粗末なパンとスープを、男は獣のように貪り食った。食器までその蛇に似た長い舌でねぶる。その間にも、鼻がひん曲がりそうな匂いが辺りに漂い、彼女はそっと窓を開けた。危険を感じてはいなかった。こんな女のところに、好んで来る者はいないだろう、と。
落ち着いてから、男はぽつぽつと事情を話し始めた。
彼は西の果てからやってきたのだと言う。そこから逃げてきたらしい。
「家まで入れてくれたのは、娘さんが初めてだった。これまで近づきたくないために、食べ物も投げてよこされた覚えしかないから」
住むところを追われた原因は、一目瞭然である。化物のような醜悪な顔のため。
彼女の警戒をいち早くときたいためか、男はだんだんと饒舌になった。
男は重篤な皮膚病を患っていたが、これまで誰にもうつしたことはなく、近頃西から流れてきた深刻な流行病とはまったく別物であるので、安心していいという。
流行病の通ってきた後を辿ってきた彼は、誰もいなくなった村々の様子を語り、辛そうな息を漏らした。
「老いも若きも関係ない。貴賎も問わず、死の鎌は容赦なく人の命を奪っている。村に一人病人が出れば、瞬く間に村中に広がり、村には粗末な墓標が立ち並ぶ。墓守は一人、墓に囲まれながら、息絶える。まだ、この辺りには広がっていないようだ……」
「しかし、話には聞きます。黒い痣が体中に広がって、血がずっと流れ続ける病だと。死んだ時には、一目と見られないおぞましい姿になっているとか」
寝物語に聞かされた。
知っているかい、こんな怖い話があるのだよ。
あの男は、彼女が怖がると知っていて、言っている。案の定、彼女は子ウサギのように震えていた。病の恐ろしさなどより、ずっと心にずっしりと重みを加える、皺だらけの腕に閉じ込められたために。
「手足が伸ばせなくなり、体が丸まってしまうそうだ。遺体はイモムシに似ている」
「怖い話です。でも、よほど病より恐ろしいのは……人でしょう」
男は肯定も否定もしなかった。ただ、ちらりと彼女を見て、
「失礼なようだが……あなたは、私と同じ匂いがする」
「どうかしら。あなたより、よっぽどひどいのよ、私。死んだところでみんなほっとするだけ。汚点が消えたってね。こうして今生きているのも、自分たちの手を汚したくないし、怒りに触れるのが怖いから」
今この世には、彼女を愛してくれる人はどこにもいない。守ってくれる者も。いるのは、彼女を蔑みながら、素知らぬ顔で善人をしている人々と、彼女を守ると言いながら、自分の言いなりになる都合のいい女を捕まえておきたいだけの愚かな男。他にもいる。彼女を差し出して、自分たちの安住を手に入れた、人でなしの家族。
彼女はにっこり笑って、男の手を握った。その手も、赤黒く、ごつごつと不格好に隆起している。男がびくりと反応するのも気にしなかった。
「せめて数日でいいから、ここにいらして、旅人さん。幸い、食べるものには困っていないから、あなたに十分な食事は提供できると思うの。そういえば、名前は?」
「……だ。娘さんの名前は?」
「シシィ」
彼女は眉根を寄せながら、答えた。
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