第7話 崩れる

 フアナが死ぬと、お姫様の耳には彼女の悪口が次々と吹き込まれた。

 誰か一人が、ではなく、フアナを知っていた者がすべて、だ。

 枷が外れたようだった。

「あの者は、姫様にふさわしくありませんでした」

「フアナさまほど高慢な方はおられませんでした」

「私たちを脅す方でした」

「死んで当然の方でした」

「黄金の騎士さまに罰せられて当然でした」

 同時に、フアナが城下で遊びまわっていたこと、お姫様の装飾品を勝手に持ち出したことなど……彼女が行ってきたことが明るみに出る。

 それを一つ一つ聞くのは、お姫様にとって辛いことだった。

 誰もお姫様を悪しざまに言う者はなく、いつも同情を集めていた。

 しかし、お姫様はそれでもフアナを信じていた。彼女は、死んでもなお悪口を浴びせられるほどの悪人ではなかったのだと。

 フアナの灰色のぼろ雑巾のようになった遺体を、お姫様は反対を押し切って、丁重に葬らせた。それでも町の外に埋めるほかなかったが。

 数人のネズミたちが荷車を押していった。

 裏門からひっそりと運ばれていく棺を、城壁に軽く腰掛けて見送る。

 傍には、精悍な顔つきのウサギもいて、じっと下を見つめていた。

 お姫様はぽつりと呟いた。

「フアナに……安らかな眠りが約束されるといいわね」

「それは無理でしょう。死んだところで終わりません。また、この世界のどこかで生まれ……あなたの元へとやってくるはずです。断ち切らない限り、何度も死ぬのです。あなたのせいで」

「私のせい? ……そう、あなたは私を責めたてたいのね」

「それは違います。私から見れば……あなた方は皆同じ。憐れな」

 言いかけて、彼は彼女の胸元に目をやった。薔薇のブローチが今日もついている。

「憐れな仔羊だ」

「そうね。ウサギさんから見たら、きっとそう。旅には何のしがらみも持ち出せないから……」

 旅のウサギは謎めいている。

 真の意味で彼らがどこから来たのかは理解できず、どんな人生を送ってきたのかわからない。眼前に立っている今こそがすべて。後には何も残さず、消えていく。

 今まで出会ったウサギはひどく無口だった。聞かれたことだけ返答し、言われるがままに城に滞在する。ひょこひょこと動いているというのに、ふわふわの毛の内側は空っぽのようだった。そして、いつの間にか消えていて、誰かがどこかへ出立したと教えてくれる。

 お姫様は自分があまり賢くないことはわかっている。ウサギの言うことをいつも半分も理解できない。きっと、大事なことを言っているはずなのに。言葉尻を捉えて、無難に聞き返すだけ。ウサギはお姫様よりはるかに利口なのだ。

「それだけじゃない。……君たちが、いつまでも死の舞踏を続けているから」

くるくる、くるくる、と……狂ったように巡り続けている。

ウサギはそう呟くと、独り言のように、

「お腹がすいたな」



 黄金のタマゴが、優美な彫刻をされた台座の中心で輝いている。古びているはずなのに一点の曇りもなく、宝石のような純粋な輝きではない。どちらかと言えば、太古から存在する遺物が、己の真価を無言で主張するようだった。内包された歴史の重みを見る人に突きつけるような畏怖の対象である。

 黄金の騎士は、黄金のタマゴを守る。古来よりの約束事として、そう決まっているのだが、誰との約束かも忘れ去られている。

 それでも、いついかなるときでも台座から離れることはない、はずだった。

 お姫さまは、心臓をぎゅっと掴まれたような気になる。

 黄金の騎士が、ネズミを殺してしまった。それは与えられた役目の外のこと、お姫さまには優しかった騎士が行うにはあまりにも残酷なことだ。

 心の奥底に薄黒い何かが溜まっていくようで、彼女はしきりに吐き出してしまいたくてたまらなかった。

 ウサギは賢いから、きっと答えを教えてくれるのだろう。でも、彼女がそう思ったとき、彼はそこにはいなかった。

 旅のウサギは近頃、ふらりと姿を消すことが多くなった。町に下りているのかもしれない。あちらには刺激がたくさんある。町のネズミたちが大勢暮らしている分だけ、活気があって。

「ねぇ、カルル。私も、町に出たいわ」

「いけませぬ。姫様はみだりに外に出てはいけない。どうしたって、姫様の容姿は目立つでしょう。おとなしくここにいるのがお似合いだとも」

 執務室の広い机で羽ペンを走らせていたカルル大臣は、顔を上げないですげなくそう言う。

「そもそも、たかがあんなネズミごときのために落ち込む必要はないのだよ。奴らは我々ネコのオモチャだったと思うがね」

「私にとっては違うのよ」

 お姫さまは首を振った。

「大事な、侍女だったの」

 大臣は口元のヒゲをぴくぴくさせて、彼女を見た。

「ならば、黄金の騎士を罰するとおっしゃる? 姫様にはそのような権限はございませぬ。国王陛下から城のことを任されたのは、このわたくしでもありますが、陛下も騎士を罰しますまい」

「いいえ、お父様はそのようなことは許さなかったでしょう。あなただって、ずっとよく見ていたのに!」

「姫様こそ、勘違いをされておられる」

 ふん、とネコは低い鼻を鳴らしてみせる。人差し指で触りたくなるほど可愛いが、お姫さまは衝撃を受けた。

 お姫さまが知っている父の国王は、虫一匹殺せない人だったし、お姫さまにもそうするようにと厳命していた。慈悲深く、ネコもネズミも分け隔てなく扱っていた。

「陛下は、ネズミを大層嫌っておられた。下賤の生き物だ、殺してしまえ、と。あなたはそのお父上を、怖がって近づこうともしなかったではないか」

「ち、違うでしょう。……父上は私などより遥かにお優しい方で。私は、父上に懐いていて」

「陛下はわたくしなどより遥かにネズミいじめがお好きだった。一日一人はネズミを殺さねば、イライラして仕方がないとね」

 彼女は息を呑んだ。

 カルルは平然と後ろの窓を開けている。風が部屋の中を駆け回っていく。

 柔らかな金茶の毛並みが波打つのは、大層牧歌的な光景でも、お姫様にとってはかえって彼女の知る日常との違和感を際立たせるだけだった。

「あなた……変よ」

「変なのは、姫様でしょうに。笑うことしか能がないくせに、笑うことも忘れてしまわれたようで、残念ですよ」

「……そこまで、意地悪だったかしら」

「甘ったれた姫様など、大嫌いに決まっているでしょう。何を今更」

 お姫様の知るカルルは多少意地悪だったが、あからさまに彼女を貶める発言はしていなかった。立場というものをよくわかっていたからだ。

 何かがちぐはぐで、行き違っている。

 彼女が語る国王と、彼の語る国王が明らかに違うことと言い。

 何かが、おかしい。

 彼女は胸元のブローチを握りしめた。

 指によく馴染んだ薔薇の花びらの感触を確かめて、息をつく。

「ウサギさんに、会いにいくわ」

 お姫様は、一言告げて、外に出た。


 

 城の外には滅多に出られない。いつもイヌの門番たちに止められる。一番気が合って、仲良しの門番にも、どうにもならない。

 お姫様はこの国でたった一人のヒトだから。その姿かたちを誤魔化せない。

 代わりに、イヌたちにこう尋ねてみた。

「父上のことをどう思っている?」

 彼らは口々に答える。

「影が薄い人だよなあ」

「よく笑う人だねえ」

「いいご主人さまかな」

「悪行が似合う人じゃないか 悪人面にも見える」

「いや、あれほど記憶に残らない顔はない」

「よくごはん抜きにさせられる」

「内緒だと言って、給料を上げてくれる」

「ひどい領主だ」

「金で動いている」

「皆に優しいぞ」

 ひとしきり言うと、彼らはきょとんとして顔を見合わせる。

「あれ……陛下って、どんな方だったっけ?」

「最後に陛下にお目にかかった時はいつだったか……。姫様は、覚えておられますか?」

 何気なく言われた言葉が、お姫様の心に薔薇の棘のように突き刺さる。

 彼女は思考の螺旋を駆け下りる。底へ底へと行って、きちんと思い出そうとしたのに、何も出てこない。

 それどころか、父親なのに……どんな顔だったかも覚えていない。声も、言葉も、名前も!

「なんで……? なんで、なんで、なんでっ?」

 わけもわからず、お姫様は得体のしれない怖さに打ちのめされた。

 触れてはならない禁断の扉があるとする。きっと、今、彼女の目の前で、それが開かれようとしているのだ――。

 そして、日常は崩れゆく運命にあった。

 ふと、彼女は城の中のどこにも寄る辺ないのだということに気が付いた。

 お姫様がいつも憂鬱だったわけ。それは、彼女が自分のいるべき場所ではない、と思っていたから。居心地の悪さのためだった。

 ウサギさんなら、理由を教えてくれるのかしら。

 お姫様は馬鹿だから、教えてくれなければわからない。

 もちろん、知ることは恐い。恐くて怖くてたまらない。でも、このままでは……もう、彼女は日常を過ごせないから。

 重い足を引きずりながら、彼女は城を彷徨う他ない。


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