第6話 殺人
巡り巡って、お姫様は大広間に戻ってくる。
城中のネズミたちに聞いても、誰もフアナの行方を教えてくれる者はいなかったのである。
最後の最後に、黄金のタマゴを守る黄金の騎士にたどり着く。
一筋の希望を持って、
「騎士さま。フアナがどこに行ったのか、知らないかしら? 少し、ブローチのことで聞きたくて」
「先ほど、おっしゃっておられた、ブローチのことでしょうか?」
「ええ、無くなってしまったの」
彼女はしょんぼりとうなだれている。
「おまえが知っているはずないのにね……。でも、どこの誰があんなことを……」
カシャン、と金属が床に擦れる音がする。
気を付けの姿勢を取っていたはずの騎士が、その一歩を踏み出したのだ。
「その答えは簡単なことですよ。我らの姫様」
手の甲に形ばかりの口づけを贈りながら、彼は一言加えた。
「今すぐ犯人を処断しましょう」
声には有無を言わさぬ威圧があった。お姫様は背中にぞくぞく、と寒気が這い上がってくるのを感じていた。
この騎士さまは、犯人がわかり次第、殺してしまうのではないかしら。
ウサギよりもがっちりと大きい黄金の甲冑は、彼のいい意味でも悪い意味でも固い意志を、槍先の鋭さは、彼の圧倒的な力を表しているように思えて、彼女は騎士を止めようと口を開いた。
「姫様。わたくしをお探しだったようですが……遅くなって申し訳ございません」
何もかもが遅すぎたのだった。
灰色ネズミが……お姫様がもっとも信頼を置いた侍女が……大広間の入り口に立っている。――立って、いた。
「や、やああああああっ!」
フアナは逃げようとしたに違いない。背を向けたところを、尋常ならざる速さで走った騎士が、問答無用で槍で貫き、抜く。お仕着せから、おびただしい量の血が噴き出す。
もうすでに手遅れなことは、この場にいた誰もがわかっただろう。
しとどに血に濡れた騎士は、死者を侮辱するように、さらに槍で再び貫く。
お姫様は声にならない悲鳴を上げた。
槍が抜かれ、騎士はいまさら思い至ったように、床に広がる血だまりを見ている。
「扉脇の真紅のカーテンに浸みてしまいました。替えなくては……替えなくては」
無感動で呟き、立ち尽くすお姫様に手を伸ばす。
「すべてはあなたのお望みのままに、姫様」
大広間は元々ほとんど誰もいなかった。今や立っているのはお姫様と騎士だけ。
ただ、彼女は騎士の顔が見られないことが、これほど恐ろしいこととは思っていなかった。その金色の面当ての下、彼がどのような表情を浮かべているのか。今までそれなりに理解していた騎士からの崇拝や、自分なりの愛着が、形を変えていく。
「殺してなんて……言っていない。言っていないのよ……騎士さま」
冷たい金属の手に触れることにも彼女は拒否した。
「言っていないわ! 騎士様!」
息苦しい。嫌な臭いがするせい。騎士さまが近づいてくるから。……私を、見ないで!
彼女は無我夢中で走り出していた。フアナの死骸を見ないように横切り、誰よりも優しかったお姫様は、どこに行けばいいかもわからないまま、闇雲に駆けた。
夢のように膨らんだドレスの裾は埃とほつれで見るも無残な姿になっている。
城の異変を、いまだ誰も知らなかった。
兵士たちは走る彼女を見て、追いかけたいような視線を送って、ふさふさの尻尾を振る。
家臣たちは互いにニャーニャーと議論を交わしたまま、風のように通り過ぎたお姫さまに気づかない。
召使いたちはチューチューと次の持ち場へ急ぐ。
カルル大臣は、通り過ぎかけてからやっと振り返って叫ぶ。
「姫様、礼儀作法はどこに!」
もちろん、彼女には関心を向ける余裕がない。
駆けて、疲れ切った彼女は、見晴らしのいい塔の屋上に至る。
内での凄惨な出来事にも関わらず、この日も抜けるような青空が延々と続いている。風が吹く。
すでに、先客がいた。振り返らずともわかる独特のシルエット。風になびく大きな二つの耳がついている。
旅のウサギが戻ってきたのだ。
「ウサギさん!」
思いの丈は、その呼び声にすべて詰まっていた。彼女は無性に目元が熱くなっている。
ぴくぴくと彼の耳が動く。
彼は無言でお姫様を見やった。
何を考えているのかわからない、黒真珠の瞳。でもどうしてか、騎士よりもはるかに安心できる。無性にその胸に飛び込みたくてたまらない。
走った。でも、一歩半の距離は辛うじて守る。
「どこに行っていたの? 私……私、ウサギさんがこんなところにいるだなんて、思わなくて……。どうしよう、どうしよう! フアナがっ、フアナが……」
「死んでしまいましたか?」
確認するような声音に、彼女は無言で頷いた。
ウサギの外套がパタパタとはためき、彼女の間近に迫っている。いつでも掴めそうだけれど、実際は掴ませてもらえないだろう。
「あなたさまはそれを望みましたか?」
「そんなわけないわ! 私は、一言も口に出していないの! だけど、騎士さまが!」
「あの、黄金の騎士が、やったのですか。血なまぐさいことをする。……それで、あなたは?」
逃げてきた、とは言えなかった。どうしても喉に引っかかって声が出ない。
ウサギが溜息をつく。彼女は直感的に、呆れられた、と思った。
「お腹がすいたな」
あまりも場違いな言葉を吐き、彼は手袋のはめた片手をお姫様に差し出した。
そこに、彼女の探し物がのっている。
「落ちていましたよ」
「え?」
受け取って、呆然とする。まさか、彼が持っているとは考えていなかったのだ。むしろ、探しているとさえ気づかせたくなかったというのに。
その耳元で、ウサギは噛みつかんばかりに囁いた。
「大事なことは、忘れてはなりません。忘却は、罪だ。シシィ」
暖炉の火が明々と燃えていて、しかも話し声は途切れない。
けれど屋敷の他の誰かがやってくることはない。
ふと思い立って、部屋を閉ざしていた分厚いカーテンをめくれば、ざざ、とラジオのノイズのような雨音が大きくなった。外は何も見えない真っ暗闇。
亡霊などを見かけたらたまらないので、今度こそカーテンを閉める。
旅人は、私の一連の仕草を観察していたようだった。
「……何か?」
私は思い切って尋ねる。恐怖に麻痺しただけかもしれないが、私は男に馴染みかけていたのだ。
「君に、何か思うことはないかと思って」
想像よりも簡単に答えをくれた。
「私? そうね、少し意外でした。もっとロマンチックな話になるものかと」
お姫様とウサギの恋に、彼女に片思いした黄金の騎士が加わった、美しいおとぎ話だと思っていたけれど、事はどうやら深刻らしい。
「ロマンチックさとはほど遠い……そんな甘い話ではないさ。それでも、聞いてもらわなければ」
彼は空のカップを弄ぶ。
「おとぎ話の世界は崩れる。気づいたときには別の世界が広がっている――」
暖炉の音が、また遠のいていこうとしていた。
私は眠るように目を閉じたが、一向に物語を紡ぐ彼の声は続かない。
「なぁ、君は」
私はぎょっとして身を捩らせた。
旅人は、私の顔を上から見下ろしている。ロッキングチェアは、軽く軋む音を立てているが、空になっていた。
「今、幸せなのか?」
「幸せ……だと思います。この屋敷を見ればわかるでしょうが、経済的に何の苦労もありません。それに、父母も遠くで暮らしてはいますが健在ですし、もうすぐ結婚する姉もいます。使用人も抱えているので、身の回りの世話にも困りません。……自分で言うのも何ですが、恵まれた境遇です」
生まれたのが、高級官吏の家柄だった。大きな屋敷で育った。教育は講師を招いて、自宅で行った。あとは良い縁談に、良い結婚、良い家庭を築けば、それこそ、誰もが羨む理想の女の人生なのだろう。
次々と結婚していく周囲の女性たちを見る限り。
私もそう思えば良かった。なのに、どうしてか、昔から私は、幸福を幸福として受け止められないところがあった。
誕生日に、父から花束をもらったことがある。とても嬉しい。……喜ばなくちゃ。
心の底から嬉しいと思ったはずなのに、「喜ばなくちゃ」なんて思って、笑顔を見せる。強制する必要なんてないのに。どうしてかぎこちないものになる。
別の誕生日に、母からぬいぐるみをもらったことがある。これも嬉しい。……でも、ふと喜ぼうとする心を何かが押さえつける。
姉が婚約の報告に来た。初めて会う彼女の婚約者。二人はお似合い。いいな、と羨ましがり、幸せな二人を祝福する。
私にも、いつかそんな人が現われるかしら、と思いかけ、天啓のように理解する。
出会ってそれからどうするの?
出会ったあの人を、引き留められる?
まるで誰かの囁きにも似ている。予感でもあった。きっと、その人は、一筋縄ではいかない相手。
私は旅人を見た。石像のような固まった表情だが、ひどく疲れ切っている。長い間の旅は、彼にとって良いものでなかったのかもしれない。
旅は荒野を彷徨うことだと彼は言った。
だが、古い時代、荒野を彷徨うことは死を意味した。食べ物も水もなく、凶暴な狼が人を襲っていた。だから罪びとへの罰として使われた。追放刑である。
創世を記す世界一有名な書物には、この世界で最初にこの刑を言い渡された男が登場する。ハラスの子、ヴィー。彼の罪は、世界を滅ぼしたこと。その罰は、この世界が終わるその時まで、あるいはたった一人の運命の女に愛されるまで、永遠に地上を彷徨い続けること――。
別に彼がヴィーなのだと言いたいわけではない。ただ、彼は、少なくとも彼自身は、己を罪びとだと思っていて、旅はその贖罪なのだろうということだ。
「そう……」
彼は私から体を離し、再びロッキングチェアに戻っている。
「君を殺してしまいたいよ」
「今まで恵まれてきたから?」
物騒な言葉にひるむものの、どうにか聞き返す。
本気ではないはず、と思いこもうとしながら。
「いいや。君が君であったからさ」
「変なことをおっしゃるのね」
「君にもいずれわかる。……さ、続きだ」
抑揚に乏しい声が、物語を動かしていく。
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