第5話 舞台は廻る

 場面は転換する。同じ城の中でも、大仰な石の台座に収められた黄金のタマゴが輝く大広間へと。

 お姫様は、大広間の前を横切ろうとして、ふと思い直したのだ。

 彼女は一人きりだった。それは旅のウサギが滞在を始めてからほとんど見られなかった光景である。

 今朝はウサギが捕まらなかったのだ。部屋はもぬけの殻で、ネズミたちに聞くと、日の出前にはどこかへ外出する様子だったという。

 ウサギに置いてかれて、寂しさを覚えていたところで、大広間で起立したままの黄金の騎士に声をかけたのはまったくの出来心だった。

「ご機嫌いかが?」

「たった今、すこぶる良くなりました」

「それならよかった」

 彼女は微笑みかけてから、あ、と残念そうな声を上げる。ドレスの胸元をぎゅっと皺になるほど掴むと、

「ブローチを付けるのを、忘れてしまったわ」

「……最近ずっと付けておられると聞きましたが」

 鎧にも遮られることのない涼やかな声が曇る。しかし、お姫様はその変化にも、変化に含まれた真意にも、彼自身の感情にも気づかない。

「ええ、ウサギさんがくれたのよ。とっても綺麗な薔薇の形をしているの。一目で気に入ったけれど、何よりウサギさんからの贈り物だから」

 彼女は心から幸せそうな笑みを浮かべる。

 分厚い金属の鎧の下で、騎士がどんな表情をしていたか、想像に難くない。

「どうして、そこまでそのウサギを気に入られたのでしょうか?」

 ややあって、お姫様はお手上げだとばかりに首を横に振る。

「理由はないの。ただただ、どうしようもなく、ウサギさんを追いかけたいのだわ。ウサギさんのことを考えるだけで憂鬱なんて飛んでいっちゃうし、ウサギさんを見るだけで抱き付きたくなってしまうのよ。騎士さまにも、そのようなことを思われたことはおあり?」

「今も、ありますよ……」

「私たち、お仲間ね」

 お姫様は最後に笑みをひらめかせてから、沈黙の騎士を後にした。

 イヌの兵士の見回りやネコの貴族たちの談笑を横切って、彼女は真っ先に寝室に向かった。そこはちょうど、掃除中のネズミたちが二人いる。

「お疲れ様」

 さらに通り過ぎ、いつもブローチを仕舞っていた宝石箱を開く。

「あら……ない……?」

 他の装飾品はあるというのに、ブローチだけ綺麗に無くなっている。昨夜も確かに入れたはずなのに。

 フアナがどこかに仕舞いこんだのかしら。でも……あれだけいつものように仕舞っちゃいけないわ、と念を押したもの。彼女がそんなことするはずないわ……。

 お姫様はフアナを信じていたが、何か知っているかもしれないと辺りを見回して、

「ねえ、おまえたち」

「は、はい」

 清掃を終えて、部屋を出ていこうとしていたネズミたちを呼び止めた。

「私のブローチが見当たらないのだけれど、何か知らない?」

 ネズミたちは灰色の尻尾の先までぷるぷると震わせて、跪いた。

「な、何も私たちは存じません!」

「ええ、そうですとも、何も! お許しを!」

 神を目の前にするかのように、祈るように手を組み合わせている。

「いえ、おまえたちを責めていないわ。知らないのなら、いいの。では、フアナはどこにいるかわかる?」

「フアナさま……は」

 二人は互いに目配せし合っているようだった。長い鼻先を触れ合わさんばかりに近づけながら、チューチュー話し合っている。

「わかりません……私たちには、わからないのです」

「そう」

 彼女は廊下に出た。コツコツ、と石床に己のヒール音を響かせながら、城中を探し回った。

 他の宝石なんて、どうでもよかった。無くなろうとも盗まれようと気にしない。

 お姫様の宝物はたった一つ。ウサギのくれた、薄桃色の薔薇のブローチだけ。

 だから、彼女は行く先、行く先で、召使いたちに尋ねる。

 ブローチを知らない? フアナを知らない?

 皆が皆、口を閉ざす。逡巡の末の沈黙を選ぶか、言葉尻を濁していく。

 お姫様は段々と焦っていく。

 胸元の喪失感が、じわじわと身に染みてきて、たまらなくさみしくなったのだった。






 時はさかのぼる。

 侍女フアナは、左胸に薔薇を咲かせていた。

 しかし、笑顔になったお姫様とは大違い。飽き飽きした表情で、薔薇を摘み取ってしまう。

 安っぽいからすぐに飽きちゃった。いつものように売るのも面倒ね。

 町で散々遊びまわって、城に戻っていた。今更また町に取って返すのも、疲れてしまう。

 仕方がなく、どんどん地下へと潜っていく。彼女は、らせん階段を下っていたのだった。

 地上より、はるか下。地下倉庫よりも、さらに地に潜る。

 ううぅ、と断末魔にあえぐような不毛な呻きが下から上へと昇ってこようとしてくる。

 その先に、兵士さえも近づかない、地下牢があった。

 いつからともわからぬ囚人たちが住まう。

 誰が彼らを捕らえたのか。何の罰で捕らえられたのか。

 彼らを閉じ込めている頑丈な錠前の鍵は、どこにあるのか。

 かつては誰もが知っていたはずだが、皆忘れてしまった。

 フアナは、そこを勿忘草の牢と呼ぶ。

 もう二度と来るまい、と思いながら、頭から拭い去れなかったからだ。

 ただ、どうしようもなく悲しくなって……怒りが込み上げてきて……不気味さにも慄く奇妙なところだった。

 彼女は扉に四角くくりぬかれた穴から中を覗き込む。

 蝋燭の火で中を照らし出す。

 その時も、うめき声は続いている。わからない言葉の羅列が、身に叩きつけられるのだが、そのたびに彼女の胸は熱くなるのだ。

「あぁ、どうして、こんなにも……」

 泣いてしまいたくなるのだろう……。

 大部屋のようになった牢には、藁が申し訳程度に積んであり、囚人たちは皆、手や足を鎖で拘束されている。

 彼女が真っ先に目を向けるのは、いつも向かい側の壁に裸で張りつけられていた大ネズミだった。

 骨と皮と痣だらけで、ろくに毛も生えそろっていない大ネズミは、ひたすら低くヂューヂュー言っている。

 その左右には三人の飛べない鳥がいる。全身銀色の羽根を持ち、両方の翼を無残にも切り取られている。細い両足首に、鎖がつけられていて、頭を下げながら、よたよたとフアナの方に近づこうとする。

「ガアーガアー」

 いつも何かを訴えるようだが、彼女はわからない。耳元で囁こうと、銀色の嘴を穴に入れて、啼いても変わらない。

 ここは勿忘草の牢。忘れがたい汚れがあるところ。

 そこに通う彼女は、その時だけ少し臆病になって、意地悪な侍女ではなくなるのだった。

 カツン。

 彼女はびくりと体中の毛を逆立てた。

 誰かが地下へ下ってくる!

 とっさに蝋燭の火を吹き消して、壁際の暗がりに飛び込んだ。

 ぴたり、と獣たちの騒音がやむ。いっそ不気味なほどの重苦しい静寂の帳が下りてきた。

 やがて、フアナの知る影が、目が眩むほどの輝きとともにやってくる。

 驚きとともに、彼女のいる暗がりにも光が当てられた。

 相手は脅した。

 誰かに言えば、その命はないと思え。

 放心して座り込んだ彼女の前で、影は鍵を取り出して、なんなく開かずの扉を押し開けた。やがて響くのは、苦悶の声。

 何度も何度も、打撃音が。

 醜い音だ。

 フアナは涙を流し続けていた。ブローチが手から零れる。

「なぜ、わたくしがこんな目に遭わなくてはならないの……!」

 囚人たちだって、理不尽に痛めつけられる必要はどこにもないのに!



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