第4話 侍女ネズミフアナ

 旅人は、乾いた喉を潤すように、ホットミルクに口をつける。

 物語がふつりと途切れ、現実へ引き戻される。

 雨の夜、明々と照らす暖炉、囲むように椅子に座る私たち。

「まるで、私自身が物語に入り込んで、お姫様になったみたい」

 そのぐらい、魅力的な語り口だった。もう、子供ではないのに、お話にどきどきと胸を高鳴らせている。

 腹ペコウサギとお姫様はこれからどうなるのかしら。

 私は思わずほうっとため息をつく。

「お姫様もシシィ、というんだものね。それでかしら」

 社交辞令だろうとも、美しいお姫様に自分の名をつけてもらったことは素直に嬉しい。そもそも女なら悪い気はしないはず。

 一度もお姫様を夢見ない女なんていないのだから。

 やがて、旅人が静かに尋ねる。

「君は、誰が気になる?」

 そうね、と顎に手を当てて考えた。

「ウサギさんも気になるけれど……黄金の騎士かしら?」

「どうして」

「だって、彼はまだ何もしていませんし。パーティーのときも出てこなかったけれど」

「あぁ、彼は……」

 一瞬、思考のために言葉を詰まらせた後、

「そう、タマゴの台座から片時も離れていなかった。彼は誰かが呼びかけない限り、離れないから。パーティーのときも、お姫様とウサギを羨望の目で見つめていたのだろう」

「華やかな輪に加わりたかったのですね」

「それは違うさ」

 彼は鼻先に抜けるように息をつき、ますます椅子に沈み込む。疲れた悲鳴が、きい、と部屋に響く。

「彼はあわよくばお姫様に跪こうと思っていた。跪いて許しを請おうとしていた。――姫様、どうか口づけを。この国でもっとも美しいあなたさまに、雨のように口づけを降らすことを、この騎士にお許しいただけないでしょうか」

 旅人は淡々と語る。どんな顔をしているのか、無性に気になって、その横顔を盗み見れば、彼は目を瞑っている。

「黄金の騎士は、お姫様に片思い。お姫様はウサギに夢中。大臣は困り果て、ネズミたちは大わらわ。しかも、お姫様には試練が訪れる」



 世界一幸福だったお姫様。

誰にも愛されるお姫様。

けれど、愛すべき彼女に、妬ましさを募らせる者がいた。その者は、実はどんなネズミたちより彼女の傍に控えていたが、当の本人は知る由もない。むしろ、彼女の気の強さやはっきりとした意思表示を、好ましいものと思って重用していたぐらいである。

「おまえは素敵なネズミだわ、フアナ」

 お姫様はまったく言葉そのものの意味で感心する。

「この城で一番の働き者のネズミね」

 城の中でもっともお姫様を嫌っている者の心中は、不満そのものだった。

 あーあ、どうして気づかないの? 働き者? そんなの嘘っぱちなのに。

 主人に頼まれた用事は、要領よく下働きのネズミたちに押し付け、彼女自身は、お姫様のクローゼットからくすねたドレスやアクセサリーを身につけて、城下で遊びまわっていたのである。

 彼女が大嫌いなお姫様の侍女をしているのは、ほとんど辛い仕事を誰か他のネズミに押し付けられるから。同類のネズミたちの中で頂点に立っていられるからだった。

「お優しい姫様のためだからこそ、でございますよ」

 口ばかり達者なネズミが、心と裏腹な美辞麗句を並べる。

 あーあ、優しいというより、バカなお姫様なんだけれど! バーカ、バーカ! ……死んじまえばいいのに。

 あわよくばお姫様の足を引っ張ってやろうと考えていた彼女に、好機が訪れた。

 お姫様が何よりもご執心の、ウサギ。彼のためにパーティーを開くほど好かれようとしているのだから、その仲を引き裂いてやれば、どれほど主人は心痛めるだろう。

 侍女ネズミフアナは、お姫様の歪んだ顔を見たかったのだ。

 まずは、ウサギの世話をする侍女たちに近づいた。

「おまえたち、わたくしが誰かお分かりね? わかったなら、旅のウサギさまが姫様とどうのような会話を交わしたのか、つまびらかに報告するように。逆らうことなんて、あるわけないでしょ? だって、わたくしの方がおまえたちより、はるかに偉いのだから」

 二匹のネズミは、可哀想に、ぶるぶると震えて縮こまる。

 万が一にも聞こえていなかったら困るので、彼女は二人の耳を限界まで引っ張って、同じことを繰り返してやる。こくこく、と頷きが体の震えと同じくらいになるまでになれば、さすがに馬鹿でも理解できたはず。

 すべての御膳立てを得た彼女は、やがて、サンゴのブローチを一つ持ち、うきうきと城下に繰り出すことになる。



 腹ペコウサギのお腹を満たすことはできなかった。だから、抱き付くのもおあずけ。

 どんなにウサギの毛並みの艶にときめきを感じたって、ぐっとこらえなくちゃいけない。

 お姫様は恋を知らないが、旅のウサギが好き。毛むくじゃらの胸に飛び込んで、野生めいた匂いを息いっぱいに吸い込んだってへっちゃらだと思っている。

 そんなわけでお姫様はますます赤褐色のウサギにべったりだった。

「今までどんなところを旅したの?」

 石造りの城の塔の上は、びゅんびゅんと風が吹いている。

 ウサギの耳は頭に沿って寝てしまい、いつだって手放さない外套の裾は暴力的にはためく。黒真珠の瞳も、乾きに対抗するような瞬きで幾度も隠れる。

 召使のネズミたちが結い上げたお姫様の髪もかきむしられたように、乱されていく。

 彼は、百年の沈黙を守ったあとのような重苦しいため息をつく。

 こんなときの返事は決まっている。

「姫様の世界の外です」

 旅のウサギには秘密が多い。肝心なことは教えてくれず、続けて追求するのも躊躇わせる雰囲気がある。最初謁見したときに心中で望んだことは、何一つ実現できていない。

「あなたはそればかりね」

「ええ。今は何も話せません。……不機嫌そうにされても、駄目です」

「不機嫌そう? 私が?」

 お姫様がびっくりしたように、両手を頬に当てる。べたべたと触ってみて、彼女は初めて自分がむっと唇を尖らせていたことに気づいた。

「私……こんなことになったの、ずいぶんと久しぶりな気がする……ふふ、変なの」

 楽しそうに笑う。

「変になってしまったわ。どうして、こんなに嬉しいのかしら。ねえ、ウサギさん、あなたならわかるのかしら」

「一介のウサギにわかるわけがありません」

 冷たい口調に、そっけない態度のウサギだが、どんなにつん、と澄ましてみせたって、お姫様にとって毛並みを撫でてしまいたいほどに可愛いウサギである。

「ですが、もし……」

 彼は神妙そうに言い置いて、

「姫様が外をどうしても知りたいと言うのなら、これを差し上げましょう」

 手袋に包まれた手が彼女のすべすべとした両手に落としたのは、彼女の頬の赤みと同じくらい透き通るほどに美しい薄桃色をした薔薇のブローチ。

 そっと握りしめていると、不思議と手に馴染む。ずっと持っていた品のよう。

「これはサンゴで作られたブローチです。サンゴは海のものです。遥か遠くを想うなら、きっとこれがいいでしょう」

「ありがとう。とても綺麗な品ね」

 思いの寄らない出来事に、お姫様は胸をどきどきと高鳴らせていた。

「あの……ね」

 顔を真っ赤にさせて、ウサギを見上げた。

 ああ、どうしてこんなに簡単なことなのに、こんなにも恥ずかしく思うのかしら。

 お姫様ははじめての気持ちにどうしようもなく、髪以上に心を乱されていた。

「せっかくだから、ブローチ、付けてくれないかしら」

 お姫様の一世一代の告白は、胸元に伸ばされた両手で応えられた。

 白の手袋に包まれた手が、器用にブローチを留める。

 彼女からは近づけなかったが、彼から近づくのはいいということなのだろう。

 二人の距離が、一歩半から半歩に詰められた。

 鼻先に、熱い吐息を感じる。

 彼女の大好きなウサギの匂い。風で流されないほど近くにある。

 左胸に、薔薇が咲く。

 途端にウサギは離れて、じっと彼女に視線を送る。

 そこにうっすらと、憐憫の情が込められていたと気づくのは、もう少しあとのことだったのだ。



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