• 詩・童話・その他
  • 現代ドラマ

「終戦記念日」と黙祷

 お縫です。中等学校野球時代から、甲子園には何回か出とります。たまには高校球児以外のもんに化けてみたいけん、そや、デズニープリンセスいうのどうやろか? と野栗に言うたらめっちゃ笑われて意気阻喪しよります。

 今年は、市内進学校野球部担当の婆狸は予選敗退してしもうたんやけど(ええ加減、寄る年波はなんとやら、かもなぁ)、若い狸が何匹かしれっと徳島県代表で甲子園に行き、先日負けてしもうて眉山に戻ってきました。お土産は瓶詰の甲子園の土だけやったけん、ちょっとがっかりです。
 今日は台風で高校野球も阿波踊りも中止で、みな一日巣穴でゴロゴロしよります。

 だいぶ前に甲子園に行った時、うち、一度だけ、15日の昼の試合に出たことがあります。暑うて暑うて、化けとっても夏毛が焦げるかいう暑さでした。12時にサイレンが鳴って、守備位置に立ったまま戦没者追悼の黙祷を1分間しました。
 試合の最中やし、暑うてかなんし、相手は上位打線やし、試合の事以外考える余裕やかしどこにあるかいな、そんな感じでした。
 人間様のやる事にあれこれ言いとうないんやけど、あの黙祷ってホンマ何なん? と今でも思います。平和のために追悼してます、意識高う持ってます、そういうことなんやろか。
 試合の途中なんやけん、試合の事以外考えられるわけないでないでアホ。
 文句言えん立場のもんに、高野連のどアホずーっとこんなことさせよるんやろ。今どうで? 平和になっとるんで? ちゃうやろ? 

 原爆の話はようするけど、核攻撃から5年もたたんうちに起きた朝鮮戦争と、その「特需」で高度経済成長の足掛かりをつかんだどこかの国の話は、うちが耳ピコピコさせて聞き耳立てても、どこからも聞こえてこん。ホンマ、えらい都合のええ「平和」じゃ。隣国の人々の血と犠牲で戦後復興を成し遂げたって、この上もなくおぞましいって感じるの、うちが狸やからやろか? 平和は尊い! と熱弁を振るう人間様にこういう話すると、なんや知らんけど高確率で無視いうか、黙られてしまうんじょ。何なんやろ? ようわからんわ。

 かてて加えてここ数年、何やJアラートやいうの、あの試験放送がやかましゅうて。眉山の山奥の巣穴にまでガンガン響っきょるんじょ。自分の国が上げるのは人工衛星で、よその国が上げたらミサイルで? 沖縄の人は基地の負担させられて気の毒やけど、近隣諸国の脅威から守るためにはしゃあないって、なんしに平気な顔して言えるん? 「防衛」とやらの負担の押し付けと近隣諸国の悪魔化は、戦争への一里塚なんじゃ。 

 これがうちらの仲間があっつい思いして試合中断させられて黙祷積み重ねてきた結果か? アホ。

 動物は、人間様が戦争を始めたら最後、抵抗するどころか、逃げることすらままならんのじゃ。人間様が勝手に起こした戦争に、一方的に巻き込まれて殺されるだけなんじゃ。うちらの近縁種の犬なんか、毛皮をとるために軍隊に無理やり徴用されてどれだけ殺されたか。狸の冬毛がいつ狙われるか、うちらは山奥に隠れてビクビクしとったんじゃ。

 高校球児に戦争したらあかん、平和が大事やと教えたいなら、黙祷みたいなことさせんと、練習を1週間オフにして、なんしに人間は戦争をするんかしっかり勉強させるしかないでないで。

 万物の霊長やいうて人間様はいっつもふんぞり返っとるようやけど、このままやとホンマ、うちら狸を含めて、動物に馬鹿にされてもしゃあないわな。知らんけど。

2件のコメント

  •  こんばんは。
     個人的には黙祷自体は悪い文化ではないと思いますが、なるほど、選手にしてみればたまったものじゃないですね。体力面もそうですが、集中力が切れるのもつらそうです。玉音放送が正午だったそうですが、黙祷するにしても、何とかして試合前などのタイミングにした方が良さそうですね。
     また、戦没者の追悼に関しては、公益財団法人である高野連が選手に強制するのは、憲法で言う「思想および良心の自由」に反しそうな気もします。ただ、もし甲子園球児にイスラーム教徒が現れたときに、彼あるいは彼女が日課の礼拝をするためのタイムが認められるなら(加えてその前後に他の選手が休憩を取れるなどの措置があるなら)、そのときは、終戦の黙祷のために試合を中断することにも正当性が生まれる気がします。
     最後に、それらしく黙祷しておきながら、今の日本人が戦争と平和についてきちんと考えていないというご指摘については、全くもっておっしゃる通りだと思います。僕から言うことは何もありません。NHKなどマスコミにも、もう少し、歴史学や政治学、社会学などの観点から踏み込む番組を作ってほしいところです。
  • コメントありがとうございます。
    個人的に、「追悼の為」以外のイシューでそこに居合わせている人に「黙祷」を求めることに、強い抵抗感があります。追悼の形も追悼の対象も、人それぞれでありそれを同調圧力みたいにしてひとつの形を押し付けるのは暴力的だとすら思います。
    私の知人は、職場(公務員)で3.10東京大空襲犠牲者への黙祷を迫られた時それを拒否したと言っていました。日本の侵略戦争によって犠牲になったアジア民衆への追悼が先だろう! というのがその理由です。あまり深く考えていなかった私は、その言葉にはっとさせられました。
    黙祷に限らず「やってる感」の演出って、見ているだけでしんどくなります。こういうことが横行する風潮が、平和に対する最大の脅威なのかもしれません。
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する