クレオパトラだ。あまりに綺麗な横顔にすっと通った鼻筋、簡単に断言できほどの説得力が彼女にはあった。
白い肌に肩まで伸びた白い髪がよく目立つ。こんなに美しい人がこの世にいるんだ…
真白が恋愛の対象として私の視界に入ることはなかったが、それでも一緒に過ごすうちに、いつも彼女の周りには何かしら人を引きつける魔力があるように感じていた。彼女は、ノンケである私の視線さえも独占する存在、まさに魔性の女。
椅子に座り、本を片手に紅茶を嗜む彼女が、ふと髪をかき上げた。一瞬、髪の隙間に光が反射し、私は思わずその動きに見とれてしまう。
ピアスなんて普段は着けてなかったような?少なからず、ルームシェアを始めてからは一回も着けているところを見ていない。
「どうしたの、さっきから見つめてきて」
「真白って普段、ピアスしてたっけ?」
「あー、うん。今日は会う人がいるから」
歯切れの悪い返事。プライベートに深く踏み入れてしまったことを自覚し、なんとなく居心地の悪さを感じた。
「夜は遅くなる?」
「うん、カギは開けたままだと助かるかな」
いつも通りに軽い返答だが、どこか含みがあるような気がした。
彼女はクレオパトラなのだから、彼氏がいても不思議ではない。それどころか、複数人いる可能性すらある。
それが魔性の女ってものでしょ。そう自分に言い聞かせる。
これほど魅力的な彼女のことを私は何一つ知らない。ルームメイトなのに。
ルームシェアを始めたてのころはよく話をしていたが、数週間もしないうちに業務的な会話しか流れなくなった。
好きな食べ物、休日の過ごし方、趣味、高校の話、好きな人のタイプ……私は何も知らない。
無意識のうちにお互いに距離を取っていた。よく言えばプライベートを尊重しているとも言える。
唯一知っていることと言えば、今飲んでいる紅茶と読書が好きということ。本が好きというのは私と彼女のたった一つの共通点である。
真白が本を読んでいる姿を見ると、それだけが私たちを繋ぐ接点のように感じた。
彼女のことを知ろうと努力していたら、今ごろ親友になっていたかもしない、一緒に肩を並べて本を読んでいたかもしれない。今更すぎる後悔。
すっと、目の前に本が置かれた。ぼんやりとした、あったかもしれない未来から引き戻される。
「読んでみる?結月もこの作家、好きなんでしょ」
「あ、ありがとう」
「ほら、隣に座って」
笑顔の彼女を見ると珍しく内面を覗けた気がする。
「ちょっと待ってて紅茶を淹れてくるから」
真白がキッチンへ向かうと、自然とその背中を目で追ってしまう。
彼女の白い髪がふわりと揺れ、まるでその動きまでもが計算されたかのような優雅さがある。
「…なんでこんなに美しいんだろう」
小さく呟くと、自分でも驚くくらい素直な感情が口から漏れ出ていた。自分が男だったら、好きになっていたのだろうか?
いや、一緒に暮らしているのに他人以下の距離感だし、それはないか。ただ…どうしても目が離せない。そんな気持ちだった。
やがて、真白が2つのカップを持って戻ってくる。彼女が隣に座ると、ふわりと紅茶の香りが広がった。
「はい、どうぞ。今日はアールグレイ」
「ありがとう」
真白の手からカップを受け取ると、ほんのりと暖かく、手元からじんわりと体が温まるような感覚が広がる。
それに加えて、彼女がこんなに近くにいることに少し緊張してしまっている自分がいた。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか、よそよそしくない?」
じっと見つめる彼女を瞳は、吸い込まれそうな深い色をしていて、目が合うとすぐに視線を逸らしたくなる。ドキドキする心臓の音が聞こえそうだった。
初めて彼女に会ったときのことを思い出した。家族以外と暮らす緊張感が蘇る。
「う、ううん。何でもないよ」
「そう?」
真白はくすっと笑い、紅茶に視線を戻した。その笑顔に、なぜか少し安心する自分がいる。
彼女との距離がほんの少し縮まったような気がして、心が軽くなった。
だが、それも束の間。再び沈黙が訪れ、妙な緊張感が部屋に広がった。何か話さなければいけない、そう思っているのに、言葉が出てこない。
すると、真白が先に口を開いた。
「そういえば、来週は少し家にいる時間が減るかも。用事が多くてね」
「そうなんだ…」
彼女の言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。用事って彼氏のことだよね?頭の中でいろいろな想像が巡り始める。
せっかく、彼女との距離が縮まる気がしたのに、来週にはまた戻ってしまうのか。
「結月?」
「え? あ…うん、そっか、分かった」
慌てて表情を整える。真白がじっとこちらを見つめてくる視線に、再び心音が加速する。
彼女は何かを言いたげな表情をしていたが、何も言わず、ただ微笑む。
きっと彼氏は、その笑顔をとっくの前に見ているんだろうな……
その夜、真白は部屋を出て行ったが、私の頭の中には彼女のことがずっと引っかかる。会う人がいる、という言葉が頭の中で何度も繰り返され、彼女が誰と会っているのか、どうしてそんなに気になるのか自分でも分からなくなっていった。
寝る前に、余り冷え切った紅茶を飲み、真白と同じ匂いをなった気がして少しだけ心が落ち着く。それでもどこか心の中で小さな波がざわついていた。
結局ピアスを身に着けた彼女は深夜を超えても戻ることはなく、帰ってきたのは朝方。
私は身支度をし真白のために作り置きを冷蔵庫に詰める。きっと自分で作らないから。
どんな顔をしていいか分からないまま、彼女の寝室に向かう。
扉を優しくノックすると「うーん」と力が抜けた返事が返ってきた。部屋に入ると服や本が乱雑に置かれ、悪い意味で生活感が溢れている。
毛布も無しに丸まって寝ている彼女に、私は自分が着ているコートをそっとかけた。
オシャレをしたのに意味なかったな。
しばらく寝顔を見つめる。
「真白…」
つぶやいた名前に、何の意味もない。けれど、その言葉が出るのは、何かを期待しているからかもしれない。
返事がないことがわかっているのに、答えを求めてしまう自分が嫌。
普段は凛とした彼女も、寝顔はこんなに無防備で愛らしいんだな……でも、昨日、この人を独り占めした人がいるんだよね。
……心を許している相手がいるのがズルい、私は家で孤独に過ごしているのに。嫌な嫉妬の仕方。
彼氏がいるのが羨ましいわけではない。本当は、田舎から1人で上京してきて心細くて寂しいからだ。
「はあ……作り置きがあるから好きに食べてね。いってきます」
そう告げて、立ち去ろうとしたその瞬間、真白が寝ぼけたような声で呟く。
「…お姉ちゃん、どこにも行かないで…」
耳を疑う。彼女の言葉に、一瞬だけ自分の心が大きく揺さぶられた。振り返ると、彼女はまだ夢の中にいるようで、無意識に私を引き止めていた。
コートが少しずれていたので、そっと直す。その瞬間、真白が私の腕を掴んだ。彼女の手は温かく、柔らかかった。
「…1人にしないで…」
その囁きが、胸にじんわりと染みた。私もずっと同じことを思っていたんだ。彼女の手を軽く握り返す。
「大丈夫、真白。私はここにいるよ」
小さな声でそう囁くと、彼女の表情が少し和らいだように見えた。「お姉ちゃん」と呼ばれる相手が誰かはわからない。
でも、今この瞬間だけは、私がその存在になれた。
その後、私は「いってきます」と伝え、静かに部屋を出た。