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自失早世-あとがき-

 はじめまして、豆炭です。
 こちらは長編詩、「早世自失」のあとがきになります。よければ先に作品をご覧になってからこちらをお読みください。



 さて、お読みいただきありがとうございました。
 予定を大きく外して難解な話になりました。
説明を尽くそうとするうちに書きたい内容も入れ込んだおかげで文字がどんどんと増えましたが、もともと生誕日の11月11日を祝おうと思って始まったのにこんな長編詩になるとは思わず、私自身ようやく落ち着いたような気持ちです。

 不老不死のお話は人魚伝説をはじめとして沢山の作品が既にありますが、取り敢えずはこのテーマを取り上げたきっかけであるアニメ「刻刻」についてお話を先にしようかと思います。

「刻刻」は、時間が停止した世界である「止界」に主人公の家族一家や宗教団体など様々な人たちが巻き込まれていくお話です。登場人物の皆の様々な思惑や狙いが画策と張り巡らされていて、時間が止まっており場面が動かしづらいテーマであるにも関わらず、非常に面白く綺麗にまとまっているのが個人的に感動するばかりです。その中、最終話である12話には主人公が最終的にたった一人で「止界」に取り残されてしまう描写があります。

 物語の佳境を越えて、終わりが見えてくるストーリーの中で、この描写は私のなかに思案の種をそっと播いたような気がします。自己犠牲のもとに解決した展開のなか、献身的に支えてくれた祖父とずっと暮らしていく中で、だんだんとこの世界に居続けることや、わざと立ち止まる優しさの苦しさから衝突が起こる。最終的には彼をそっと世界から追い出してしまう。一緒の赤ん坊を一人で子育てをして、懸命に生きる世界で、だんだんネジが外れるように正気にさせられてしまいそうな致死量の「孤独」にだんだんと精神がこの世のものでなくなっていく感覚がする……
 その精神の蝕みを止めたのは、人ならざる同じ世界の住人で、くだらないところで向き合ってしまう自分の孤独から目が覚める。

 …言葉にすると陳腐に翻訳してしまうぐらいになんてことない場面です。ただのノイローゼなのかもしれません。ですが、「自分が自分でなくなっていく」ことから目が覚めるという感覚が、単に肌が触れ合っただとか、声が聞こえただとかそんなぐらいの瑣末な刺激で自分の大きなストッパーをしてくれる。または逆に自分を後戻りできないほどに突き出してしまうというのは、言葉にするよりも、案外漫画や文の中で表現してこそ生きてくる描写のような気がします。

 刻刻では主人公は狂気になりかけの状態から目を覚ますのですが、もしかすると「既に狂ってしまった状態から正気になって目が覚めた」という状態もあるのではないでしょうか。それは狂気に限らず、例えば薬物の効能が切れたとき、夢から目が覚めたとき、ぼーっとしていてはっと我にかえってきたとき、と色々とパターンを変えて私達の中にあるものだと私は思っています。今回の作品で表したかったのはここにあります。
 
 狂気に支配されている間の不在の「私」を、周囲は普通のことだと思って捉える。世界は「私」がいなくても回るものなんです。私がこの地にいる感覚がたとえなかったとしてもです、よくよく考えると不思議な気がします。
 そんな狂気の状態を誰よりも願う存在として不老不死のテーマを扱うことにしました。

 刻刻を視聴して得た創作のテーマが「不老不死になって味わう苦しみを脳内再現して体感してみる」というものなのは私の趣味嗜好も大いにあるとは思います。不老不死はロマンがありますが、実際なってしまうと苦しいばかりな気がします。作品みたいに平気で体をズタズタにすることはないかと思いますが、それでも心が不老の体に追いつかずに生まれる苦しみというのはいつしか過ごすうちに解消されるのでしょうか。もしリメイクする機会があるのなら、もう少し輪廻の世界観を取り入れてみたく思います。

 ところで、この作品では意識して残虐な描写を多く入れました。読んでいて気分が悪くなった方はすみません、あれは意識してのことです。
 主人公の私は、最初は痛みの恐怖から体が傷付くのを怖がっていましたが、生命の味を噛みしめることで、己の身から生命の元となる肉を作り出そうと決心します。以降私は、自分が自分でいなくなるためであれば、平気で自分の体を傷つけるようになります。痛みを感じる間が濃縮した時間の中でたった一瞬しか起こらないことなのだと気づいたからなのかもしれません。加えて、私のなかの痛みと、肉体的な痛みを常に比べていたのかもしれません。痛みの程度を比べて、そうして苦しくなってしまうのは、心が未熟であるが故の足掻きなのかもしれません。

 実は刻刻で主人公が狂気に陥ろうとしていた際、体が止界の住人であるカヌリニという異界の存在に変化しかける描写があります。この作品では心もそうして完全に変化した描写は入れませんでしたが、もしかすると完全に人間であった残滓を全て捨て去ってしまったら、私たちはある意味、動物になるのではないかとも思っています。実はこれは作品の裏テーマに据えているものです。「人の行く末は動物の道」というのは、不老不死の私がいつしか辿る道筋を暗喩しています。人間から逸脱した化物は、かえって人間の理性や感情の心がいつまでも邪魔をして苦しみを生み続けるのではないかと思います。
 
 ちなみにですが、私が生まれ変わらせた人魚の彼は、一応キャラクターとして存在しています。「お亀」という名前をつけていますが、男性のキャラクタです。彼はあまり性根がよくないので、平気で人を裏切ったり嘘をついたりします。彼が幼少期の間、私と出会って最終的に浜辺で再会するのは偶然なのでしょうか。実はそうではありません。
 これは描写していないのであくまで構想の域を出ませんが、彼と私の体の作りは根本的に違っています。彼は人魚として生まれましたが、体は長い時間をかけて成長する生物です。私はいわば後天的に体が変化した眷属のような状態なのです。さて、私は彼に手を引かれて海に浸かったあとで生き残れたのでしょうか。それもご想像におまかせしたいと思います。大方喋ってしまっている気がしなくもないですが。

 この作品から、少しでも苦しみや悲しさの一部を感じていただければと思います。なにかを感じていただけたならば非常に嬉しく思います。重ねてですが、この作品を執筆するインスピレーションを与えてくださったアニメ「刻刻」も非常に面白いので、よろしければご視聴ください。OPの”Flashback”は非常に洗練された映像となっていてオススメです。
 
 最後になりますが、ここまでお読みくださりありがとうございました。また何かの機会でお会いできればと思います。それでは。
2022年12月1日

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