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創作論について

以前とあるキャスでとある作者さんが「自分で完全に制御仕切った小説を書いた」「しかし、だから、つまらない」と言っていたことがある。

僕はそれを聞いて「当然」だろうと思った。

小説の書き方は色々ある。
書きたいものが作者ごとに違うのだから、それも当然だと思っているのだが、それにしたって「自身の能力を制御仕切って書く話が面白いはずがない」。

商業作家さんなら「あり」だ。
売れるものをリサーチして、そこからとあるジャンルを生み出した人もいたし、僕はそれを凄いと思う。

でも、この人は違う。

創作が生き方と言うものに食いこんでしまっている。
であれば、求めるのは求道だ。

小説は等身大の自分である、と言うのが僕の持論で。

この方の言い分に準えるのであれば「私は私を完全に制御しました」だ。

はっきり言おう、んな事ァ、有り得ない。

自分の感情を、肉体を、心、脳髄を。完全に制御した?
本人が言うのならしたんだろうね。

ただ、それは。

制御できるレベルに落とした自分を制御しただけだろう。

出力が高いから不安定になるのはわかる。
だからと言って出力を落とせば、その程度のものしか出来ない。

勘違いしないで欲しいが話を聞く限り、この作者は化け物であると思う。

出力をどこまで落としたかは別として「制御仕切った」と言い切る程に制御したなら、それはすごい。

でも、それは本人の望むものではないと言う話。

僕のように破綻した物書きモドキなら、そもそも話に制御すらない。

数学において完全にランダムな数列は存在しないと言う話があったように思う。適当に入れた数字でもなにかの条件で秩序があると言う話だったと思う。

僕の場合はそうやって話を廻している。

ただ、創作が生き方に食いこんでしまっているのなら、自身で制御できる程度の出力で書くことを覚えてはいけないんじゃないかな。

他の作者さんも言っていた「話にはアソビを作っている、そのアソビが話を思わぬ方向に持っていく」。

それが、この人には必要なんじゃないかなと思った。

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