……羨ましい。
私は羨ましかった。純粋な兄妹の絆というものが。
まず私には兄がいない。
いるのは弟でお飾りの皇太子であるルスフェルと、その下に数人程度。妹もいるにはいるが、その関係性は希薄で他人と言っても差し支えはない。姉はすでに嫁いで幸せな暮らしを送っているだろう。
私から歩み寄ったことはなかった。どの口で羨ましいのかとほざくのか。期待していたって、自分から行動しない限り何も始まらないと知っているのに。
打算や裏がある絆。皇国ではそんなものは日常茶飯事で、真に信じる心など齢幾ばくかでとうに忘れた。
無条件の信頼や、無償の愛が怖い。何の見返りも求めない博愛精神など身の毛がよだつ。
それだけに、互いが互いに力を欲し、協力して迷宮を攻略するという達成目標がある上での絆。
スターティと育んだ確かな絆は、私にとって得難いもので……客観的に歪んでいても、それは確かな絆だった。
手放したくない。
……執着なのかもしれない。でもそれでも良かった。
子どもみたいな感情論。利益も利害もへったくりもない私の涙ながらの嘆願は、敵であったはずの婚約者に受け入れられた。
未だに何で受けてくれたのか理解ができない。
だけど、ちょっとした会話で、彼が情だけで動くような人間でないのは分かった。裏には何か思惑があるに違いない。
だからこそ……良かった。
怖い。私は何もかも怖い。失うのが。手放すのが。
何一つ取りこぼしたくなくて……。
あぁ、我儘だ。どこまでもクソ皇女だ。
自分のことしか考えてないクソ自己中皇女だ。
……もう、そんな評価どうだっていい。
我儘でもクソでも自己中でも、私は自分を貫き通す。
──そんな、甘い考えがあったから──。
☆☆☆
「あら……私の用意された部屋はどこだったかしら……」
ラスティと分かれ、自室に戻ろうとした私は、ここがどこだか分からなくなってしまった。迷子状態ね、恥ずかしい。
……近くに侍女もいないみたいだし。闇雲に探してもっと迷うのも勘弁だわ。一度ラスティと合流して案内してもらうことにしましょう。彼に頼るのは業腹だけどね。
そう思って、元来た道を引き返していると、一人の大柄な男が向こう側から歩いてきているのを見た。
武骨で精悍な顔つき……とまではいかないが、引き締まった筋肉とその身に帯びる重厚な剣は、彼が実力者であることを証明していた。
変な意味はないけれど、よく鍛えられた筋肉ね……なんて関心を覚えながら通り過ぎようと──
「貴様、ここらで見ないな。何者だ?」
──思ったら引き留められた。
てっきり私のことは周知されていると思ったから、意外だ。
男の表情には警戒心がありありと浮かんでいる。
「はじめまして。アンリ・ロワール・セルネスと申します。今日より客人として招かれました。以後よろしくお願いいたします」
誰かは知らないけれど、纏っている装備は一級品。王城にいることからも、位は高いだろう。格式張った挨拶を披露するのがきっと最適解だ。
頭を下げて男を見る。
すると、私の名前を聞いた男は表情を一変させた。
「《《セルネス》》? 《《セルネス》》だと? あぁ──なるほど……。父上や兄上が私に隠し事をしていたことはこれだったか。セルネス、セルネス、と。ははっ! しかし僥倖だ! よもや旧友の仇をこの手で討ち取ることができるなど。あぁ──幸運だ。幸運だとも。そう思わないか」
「……ひっ」
男は剣を抜いた。
──殺意だ。憎悪だ。これまでにない憤怒と憎悪もこの身に受けた私は、その場から一歩も動けなかった。
魔物とは違う。人間の生々しくてドロドロした殺意は、余りにも恐ろしくて……血走った男の目は常軌を逸している。
「何を恐れている。皇国は恐れに降伏した者すら冷徹な人間らしさの無い瞳で斬り殺したではないか。気概がないな、気概が。なあ……なあ! なあッ゙!! 何か言えよ殺人鬼がァァァッッ!!!!!!」
「──っ、っひ、ぃやぁ」
何も、言えなかった。
忘れていた、余りにも単純な事実だ。
なぜ和平交渉が上手くいったからといって、憎しみが消えると思った? 消えない。消えるわけがない。戦争の火種は各地に燻っている。
和平が成されたとて、復讐に走る者はいるだろう。この男のように。
私は悪くない。何もしてない。
その言葉だけは死んでも吐けない。責任の所在なんて求めていたってキリがない。勝者、敗者がどうであれ、私は戦争を引き起こした一族に連なる罪人だ。
皇国では是となる事でも、王国では違う。
当たり前だ。至極当たり前だ。
──死ぬ。
剣を向けられた私は直感的にそう思った。
人を斬る力を私は持っていない。
……嫌だっ、死にたくないっ!
まだ何も為せてない! 後悔だって、懊悩だって、全部これからなのに!! 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「わ、私は……死ねないっ!!」
「うるさい死ね。元より和平交渉などと気狂いな行動を引き起こした父上や兄上、そして愚弟が悪いのだ。大衆の心情に媚を売り、我らのような皇国に憎しみを抱く者を無視する。最早血に塗れた屈辱は、血を持って晴らさねばならぬ」
私に言い聞かせるというよりかは、自分に言い聞かせるように言い放った男は、恐怖で震える私の喉元に剣で狙いを定める。
次の瞬間には喉から血を噴出し、その命は呆気なく枯れる。そんな結末が容易に想像できる。
──何で動かないの、アンリ。
また期待するつもり? 期待しても、意味なんてないのに。期待が晴らされても、私は何も為せてないのに。動け、動くのよ、この手、足、余すことなく。
チャンスは──今ッ!!
男が剣を振りかぶった瞬間、私は思い切り男の陰部に向けて強烈な蹴りを放った。
「──貴様ッ。潔く死んでいれば苦しまずに済んだものを……ッ!!!」
「嫌よ……っ! 私にだって死ねない理由があるのよ! 殺人鬼だって、何だって罵られようと、私は私を突き通す!!」
「そうか、では苦しんで死んでもらおうか」
男は剣を構えた。最早その瞳に油断はなく、無手の私に対してもまるで容赦という言葉すら無い。
対話での解決は望めない。
体が動いたとしても、私は無手であり、精神面でも万全とは言えない。でも死ねない理由があるから、私はとことん抗ってやるのよ。
ニヤリと自分を鼓舞するように笑って、私の胸に突き出された剣を避けようとした時────
────カァン! と金属同士が打ち鳴らされたような音が響く。
「何を、しているのですか。ファリエル《《兄上》》」
「貴様こそ誰を庇っているか理解しているのだろうな。《《弟》》よ」
私の目の前には、剣で男の攻撃を防ぐラスティの姿があった。
その仕草が──妙に誰かと重なる。
「……?」
……きっと気のせいね。
そんな違和感は、この状況に押し流されていった。
☆☆☆
「ふぁ、ファリエル王子が逃げ出しましたッ!!!」
「ハァ!?」
アンリを見送って少し経った後、汗だくの侍従が伝えてきた言葉に俺は驚愕と焦りを覚えた。
恐らくアンリがまだいると踏んで、最初に報告しに来たのだろうが、すでに自室に戻っているはず。……いや、だが自室までは少し遠い。その間にファリエル兄上に出くわさないとも限らない。
──第三王子、ファリエル。
唯一和平に異を唱えた者。セルネス皇国に激しい怒りと憎悪を抱えている、停戦前の最後の戦争の経験者。
十年前。
十七歳のファリエル兄上は、その歳ですでに軍略の才を買われて一軍隊を束ねるにまで至った。
ファリエル兄上は優しかった。そう、優しかったのだ。
だからこそ、自国民が苦しみ死ぬことを許すことができなかった。
平和的な猛将。
何とも矛盾するような通り名を付けられた兄上は、軍を一騎当千の強者に仕立て上げ、数々の皇国軍を討ち倒していった。
実質的な勝利の立役者でもある。
しかし彼は、最後の戦いで、側近であり幼なじみの親友を亡くし、悲しみと怒りに打ち震えた。
あれだけ優しかった様相は消え、苛烈で無慈悲で冷徹な兄上が現れた。囚えた捕虜を独断で虐殺する程に、兄上は怒りで周りが見えていなかった。
この虐殺が、暫しの冷戦の原因でもある。
最終戦、皇国は確かに負けたが、一度退いて立て直すこともできた……が、犠牲と軍備の残量を計算した上で停戦を打診し、今に至った。
兄上は狂っていた。
誰かが止めなければ単騎で皇国に乗り込みかねん勢いだった。いや、実際やろうとして止められた。
そんな様子を見た父上は、ファリエル兄上を地下に幽閉し、落ち着くまで暫しの猶予期間を与えたのだが……時間が経てど和平を受け入れられず、父上は仕方なしに幽閉期間を延長した。
殺すことはできなかった。
誰しも気持ちは理解できるからだ。皇国への憎しみ、愛しい人を亡くす遣る瀬無さと憎しみ。戦争においても活躍した功労として、父上は殺さず生かした。
「それがコレか……ッ! どこでアンリの情報を聞いた……? ……いや、流石に知らないはずだ。このタイミングでの脱走はおかしい」
アンリの情報を掴んだ上で事を起こすのならば、これ程の騒ぎにしていないだろうし、確実に殺すことができる夜中などに行動するだろう。
クソッ! 情報が少ねぇ。
「っ、一先ず俺はアンリ皇女を探しに行く。お前は父上や兄上たちに応援を要請しろ!!」
「は、はい! い、一応ですがこれを! 近くにいた衛兵に貸していただきました!」
侍従は恭しく剣を差し出した。
ここらでは珍しくないショートソードだ。室内ゆえの振りやすさを重視した軽い剣。性には合わないがそんなことは言っていられない。
「っ、助かる。後に褒美を」
そう言って、外に駆け出す。
アンリの部屋の方向には向かっているが、迷っている可能性がある以上虱潰しだ。最悪兄上さえ見つけられれば足止めできる。
アンリが見つかれば最悪だ。
間違いなく兄上を殺そうとするだろう。
もう、ネジは壊れてる。
戦争が勃発しようと兄上は──いや、戦争が起こった方が喜ばしいことなのだろう。それだけ皇国に恨みを晴らすことができるから。
「愚かなんてもんじゃねぇぞ……ッ!!」
恩情と、昔の優しい兄上の記憶があった!! だから誰も殺せなかったんだよッ!!
「父上の温情を無駄にするのかッ!!」
全力で、走る。走る。走る。
トップスピードに乗った俺は、あらゆる壺や絵を風圧で吹き飛ばしながら向かう。最悪はすぐそこまで来ている。
兄上がアンリを襲った時点で終わり。
頼む……間に合っててくれ。
──その願いは無惨にも散り消え、兄上の剣がアンリに振りかざそうとしている姿を見た途端、政治も国も思考から消え──
──ただただ怒りが体を突き動かした。
「何を、しているのですか。ファリエル兄上」
「貴様こそ誰を庇っているか理解しているのだろうな。弟よ」
……やっぱり強ぇ。
腕がじん、とした痛みとともに痺れる。
純粋な膂力で勝ち目がないことは理解していた。だが、長年の幽閉生活……さては鍛えていたな?
俺の知っている兄上よりも一回り体格がデカい。
そういうストイックなところを俺は尊敬してたんだよ。尊敬……してたんだよ。
「理解しています。理解しているからこそ、それだけは絶対にしちゃいけないでしょうよ……!!!」
「私を昔と重ねて見るな。国を憂う私はもういない。どうなったって良いのだ。皇国に復讐さえできれば。私の身などあの戦争ですでに捧げた。……私を殺すか? ラスティ」
「殺すしか……殺すしかねぇんだよ、兄上」
もうこうなってしまえば終わりだ。
……恐らくアンリには何らかの監視が付いている。人ではない……魔法か魔道具かによって、少なくとも位置情報と会話は聞かれている。
じゃなきゃそもそもアンリを王国に派遣しない。諜報活動というわけではないが、あくまで監視と護衛の意味を含んでいるはず。
つまりは、この一連の出来事は把握されていると言っても良い。
終わりだ。
終わりだが、こちら側が何らかの譲歩とこの出来事の下手人……ファリエル兄上の首を以て収めてもらうしかない。
「ラスティ、貴様はあの地獄を。亡くした痛みを知らないから、和平などとふざけたことを抜かせる! もう血塗れなのだ……!! 私の手は敵国の血で汚れ! 私の体は! 友の血に塗れている……ッ! この血は消えぬ。この胸の痛みは癒えぬ」
「──ッ」
──殺意の波動とも呼べる迫力。
感情の籠もったその言葉は、俺が気圧されるに十分な憎悪が含まれていた。……痛い。兄上の言葉に、俺まで胸が痛くなってくる。
だが、俺にだって譲れないものがある。
「兄上の気持ちは分からねぇ! 俺は確かに亡くした痛みを知らないからだ。地獄を経験してない甘っちょろだ、って言われても仕方ねぇ。でもなァ、俺にだって譲れないこと、守りたい奴がいるんだよ……!!!」
今度は兄上が目を見開く番だった。
驚愕と……どこか微笑ましさすら感じる笑みを一瞬浮かべ──まるで嘘だったかのように憎悪に塗れた様相へと戻った。
「……互いの信念がぶつかる時。決するは力なり。脳筋兄上の言葉だ。私の言葉を否定するなら、まずは力を示せ」
「……望むところ」
距離を取り、互いに剣を構える。
最早瞳にはお互いの姿しか映っていない。
──先に動いたのは兄上だった。
地を這うような剣閃。身を低くして放たれた視覚外からの一撃。紛れもなく、俺を殺すつもりのある威力の剣技。
あぁ、これが手加減の一撃であれば。俺はまだ踏み出せなかったのかもしれない。心の弱さを理由に諦めていたのかもしれない。
──そこにはすでに《《俺はいない》》。
「──【認識誤認】」
兄上が放った一撃は、俺の首元を《《すり抜けた》》。
「なに……!?」
「さよなら兄上」
剣を振り終えた兄上の《《真横》》に立っていた俺は、そのまま兄上の体に剣を突き立て──
「【無気結界──内殻】」
──ることは無く、アンリの結界によって阻まれた。
「何を……!! ──ッ!?」
何をしているのかと問おうとした時、結界に包まれた兄上が目を見開いたまま気を失った。
「はぁ……はぁ。無気結界。結界内に相手を閉じ込めて意識を喪失させる魔法よ。真正面からじゃ絶対避けられる。あなたに全ての意識が向いた時がチャンスだったわ」
「──違う。俺が聞きたいのは、何で邪魔をしたかだ。分かっているのか? せめてもの面子として兄上を殺さねぇと、和平が白紙に戻る。いや、前よりも戦争は激化する。今ここで!!」
──兄上を殺さなければ。
今回の件は、全面的に王国側が悪い。何一つ言い訳も思い浮かばない程に、その罪は重い。
和平に対する反乱分子である兄上を早々に始末することなく、幽閉という処分を取っていたこと。レニエル殿ならば、躊躇わずに殺したことだろう。
「──切った。切ったのよ。私に掛けられた盗聴魔法と位置情報魔法を」
「はぁ?」
まさしく寝耳に水な言葉に、俺は呆けて答えた。
「何かしらの監視手段を取ると思っていたけれど、その手段が分からない。だから、結界魔法で解析していたの。ようやく分かったのが王国に来る二日前ほど。事が起こるその前に切ったわ」
「そんな……そんな都合の良いことがあってたまるかよ……。それでもお前が襲われた事実は、その身を以て恐怖になってるだろ……?」
余りにも都合が良すぎる。奇跡のような出来事がそう簡単に起こってたまるかよ。覚悟を決めていた。覚悟を決めていたんだ。
これで殺さずに済んで良かった……なんて思うわけがないだろ!? 火種は元を消さねば燃え広がる! 兄上は決して復讐を諦めようとしない!
それに、どうして襲われたのに助けるような真似をする?
「怖かった。怖かったけれど、和平が成せずに死ぬ方が怖いし、後悔が残るわ。それに……あなたは私みたいに、失うことを恐れて欲しかった。王族としては間違っていても、切り捨てることを選択肢に入れて欲しくなかったのよ」
「どうして……」
「あなたの本当の優先順位が家族にあるからよ」
俺は失うことを恐れている。
国が、民の命が……いや、建前か。
確かに俺の中の優先順位は、国が一番ではない。一番だと言い聞かせていたに過ぎない。
父上や兄上が好きだから。懐いてくれる妹が可愛いから。アンリを、守りたいから。
……だからこそ、ファリエル兄上は殺さなければならない。でも、過る。過去の記憶が。優しかった兄上の記憶が。
きっと俺はまだファリエル兄上のことが嫌いになり切れていない。だからこんなに苦しいし、胸が痛い。
「……例え俺が殺さなくても、父上は殺すぞ。その時、絶対に俺は後悔する。兄上の死を委ねたことを」
「それでも……スターティならこうしたはず」
「しねぇよ。俺がそんなこ──」
つい、口をついて出た。
出てしまった。
「──スターティ?」