3年前の今頃にちょうど演じていた脚本をようやく小説に書き直し始めました。
題名も改め、「てるた、君は。」というものになりました。実はこれは元々こういう題名になる予定だったものです。君は、の後に丸が付くところまで含めて、「君の名は。」(2016)より先にちゃんと思いついていました。よ。
3年前にどのような経緯やモチベーションでこの作品を書き始めたかということについて少し話してみようと思います。
まずはじめに自分が少年役を演じたいという気持ちがありました。女子ばかりの部活で1人だけ少年役を、というのはなかなか合う既成台本もありませんし、それだったら自分で書いてしまえばいいじゃないか、ということでした。
次に、高校演劇に限らずやはり演劇というものは何かしらのメッセージを込めたほうが良いということがありました。ではそのメッセージは何にしようかというところで、倫理か現代社会か何かの授業で「創造的破壊」という概念に触れる機会がありました。色々思うところもあり、この概念について書いてみればまるで何かメッセージがあるような話が書けるのではないか、ということになりました。
そうしてとにかく少年を出して創造的破壊について論じたように見せかけられるお話を作ろうということになり、それからは確か学校帰りの電車か何かでその2つを盛り込んだストーリーを思いついたような気がします。高1になりたての頃ですかね。その時はまだまさか大会用脚本になるとは思っていなかったです。
その後紆余曲折ありまして高1の夏休みごろから執筆を始めました。2作目ということでまだまだ書き慣れておらず書いては消してを繰り返していました。もちろん今もですが。1つの物語を書き終えるというのはなかなかに骨の折れる作業でした。さらに脚本という形態は声の出しやすさや動きの付け方というところまで目を配らなければならないというのが難儀でした。
この3年というのはおそらく私の人生の中でも私を構成する経験、環境、身体の中身まで1番変化が大きかった3年間なのではないかと思います。ツイッターを遡ったりしてみたところ、あの頃の私と今の私はまるで別人のようだなあと感じました。
思春期の前後で人間に連続性があるのかという話は人類の歴史の中でもしばしば語られ尽くしたような話であって、今更私が言及することでもないかもしれません。それでもやはり自分のこととなると、語ろうと分かろうと悪足掻きをしてしまうのが人間というものなのでしょう。私も例によって語ろうと試みてみます。
あの頃の私が描こうとした純な世界はもう私の心には響かないように思います。私の世界は代わりに不条理さや理不尽を詰め込まれてしまいました。一方で、あの頃伝えたかったことばの中で今でも変わらないものもあります。
そう考えればやはり3年前の私も今の私も連続した1人の人間の心を共有しているのでしょう。もしかすると思春期は新しい何かを読み込んだ後、古いデータは捨てずに圧縮して丁寧にしまっているのかもしれません。
結局私はこの3年間でどのように進化または退化を遂げて世間に適応してきたのだろうか、というようなことに思いを巡らせていますが、答えはやはり見つからないようです。
もし描写力や表現力という点で少しでも進化を遂げることが出来ているなら、以前は書きたくても書き及ぶことのできなかった世界をお伝えしたいな、と思います。
また、淀んで濁ってしまった感性も過去からつながる現在の自身の一部として受け入れ昇華させられるよう励みます。
そんなこんなでまだ1話しか書いていませんが、てるたをよろしくお願いします。