https://twitter.com/natsui_festa/status/997746460715184128?s=19これとは少し違うのだけれど、昔似たようなことを思ったことがある。
随分と昔のことになる。
そのころ、自宅の近くに国立国際美術館があった。
自転車でも頑張ればなんとかいけるくらいのところ。
そのころは、毎週のように美術館にかよっていた。
で、休みの日に行くぶんにはそれほど問題はないのだけれども。
平日に行くと、ときどきうーんとなることがあった。
平日に行くと、観光バスでやってくる団体とはちあわせすることがある。
修学旅行ふうの中高生や、すこし年をめされたひとびとが大挙して列をなして美術館にやってくる。
それで、今はよく知らないけれど当時国立国際美術館は、主に現代芸術の企画展をやっていた。
まあ、ピカソなら美術についての予備知識なしでもぎりぎり楽しめるかもしれない。
けれど、シュルレアリズム、ダダイズム、まあブルトンやデュシャンみたいな作品は何も知らずにみるときついかなあと思う。
大挙して美術館を満員にする団体客たちはほとんど作品を鑑賞することもなく、わいわい雑談を大声でしながらとおりすぎていくことになる。
そうしたときに
「あなたがたは、この展覧会にはこなくてもいいのではないでしょうか」
と、思ったりしたことはある。
芸術作品は、おおざっぱに
・予備知識なしで楽しめる
・予備知識なしではきつい
の二種類に大別できるように思う。
多分美術だけではなく、音楽でもケージの4分33秒の演奏をなんの事前知識もなく「聴かされた」らきついだろうなと思う。
デュシャンの泉とか現存してなかったような気がするけど、あれは便器だしなあと思う。
何も知らず美術館に便器が鎮座しているのを見せられたら、きついだろうなあと思う。
たた、上記の二つの区分は厳密に区別されるようなものではなく、曖昧なものだ。
たとえば、ピカソの作品を例にとってみる。
もちろん、キュビズムのことを全く知らなくても楽しめるだろう。
けれど、キュビズムや展開の概念を知ったうえでピカソの作品をみると、みえてくるものがあるのも確かだ。
キュビズムについては、本をよめば理屈はわかる。
でも、それをわかったといっていいのだろうかという、仄かな疑問はのこるのだ。
キュビズムの先駆形態はセザンヌにみることができる。
おそらく、ピカソやブラックはセザンヌを意識していたであろうと思う。
セザンヌについては、かつて絵の師匠がおおむねこういう解説をしてくれた。
「たとえば、セザンヌの描くリンゴをみてみなさい。わたしたちは、リンゴは丸いものだという概念をつうじてリンゴを見るのでそれが丸くみえる。けれども現実のリンゴはなだらかな曲面などもっておらず、でこぼこした面の集積で出来ています。セザンヌの描こうとしたのは概念をとおして見たリンゴではなく、無数の面が集積した現実のリンゴなのです」
これもまあ、説明してもらえればなんとなくわかったような気にはなれる。
現象学の本質直感に似たようなことなのだとも、思う。
ドクサをエポケーすることで、たち現れるようなもの。
でも、実際のところわたしたちがどのようにリンゴを見ており、それが現実のリンゴとどのような差異があるかは描いてみないとわからないものがある。
いや、ただ描くだけではなく、きちんとデッサンを理論的に指導してもらわなければ判らないことがたくさんある。
正直、残念ながらわたしのレベルでは、わからないことがたくさんあるという程度にしか、わからない。
けれど絵を描いているひとからすると、セザンヌの絵から受けとるものは実に多くのものがあるのだろうなと想像はできる。
絵を学び、その技術をみにつけ実践しているひとが美術館で受けとるものと、絵を描いたことのないひとが受けとるものは、まったく違うものだと思う。
どちらがいいとかわるいとかを語る気はまったくないが、間違いなくそこには厳然たる差異がある。
で、たとえてみれば冒頭の話での絵を描くひとの気分は、こんなことなんだと思う。
「キリル文字で書かれたドストエフスキーの罪と罰を手にしているひとがいたから、ロシア語がわからないと読んでも意味ないよといったら、ものすごい勢いで罵倒された」