もう少し、批評について語ってみようと思います。
笠井潔は、「秘儀としての文学」の中でこう書いています。
「文学とは何か。それは視えないものを視るための近代における体系化された方法として独自の範疇である。」
この視えないものを視るというのは、問題なんですね。
もし、視えないものを視たとしても、それは視た瞬間視えるものに転じてしまう。
では、どうするか。
笠井潔は京極夏彦の「鉄鼠の檻」について、ミステリーのメタファーと語っていますが、それは文学のメタファーでもあると思うのです。
逃げるためには、まず檻を造らねばならない。
わたしたちが、文芸作品とよんでいるものは、案外その檻のことなんではと思うわけです。
実際の「視えないもの」は、ただ檻の歪み、ほころびとしてのみ顕現する。
では、批評の語るべきものはなにかというと。
・檻について語るべき
・ほころびについて語るべき
これが問題だと思います。
まあ、正解というものはない。
でも、ほころびをみつけるのもまた、批評ではないかと思うのです。
ただ、これはもちろん、問題なわけです。
つまり、デリダが否定神学とよび東浩紀が子細に解析したものこそ、これなんです。
結局のところ新たに神秘性を呼び込んでいるにすぎないという、問題にいきあたる。
これに対して、笠井潔は、「おれのはヴェイユの不在信仰だから、問題ない」といって東浩紀に怒られていたような気がします。
果たしてヴェイユで解決できるのかは、凡人にすぎないわたしにはよく判らない。
わたしに批評は難しいなあと、思う次第です。