失踪事件が始まって3週間が経とうとしている。主には子供がふっ、と居なくなってしまうという実にオーソドックスな失踪だがこれが20日そこらで40人を超えてしまったものだからもう誰も夜に外には出ない。
不思議なものだ、こういう事件が起こると人々は人ならざるものの所為にしようとするもので、今回はまた一風変わった噂が流れた。「幻想商人」というものである。子供の幻想を高い値で買い、暫くしてその子供の前に再びあらわれ、その子供や他の子供の沢山のイメージを元に作られた幻想郷、とやらに「招待」するというのだ、大分凝った話だなぁ、などと思った。
が青天井の好奇心と若気の至りと独特の視野の狭さを誇る思春期をひた走る若者にはそんな噂は逆効果である。夜は賑わった。僕はそんな奴らを横目に見ながら平穏に暮らしていた。
僕が「傘の女」に出会ったのは狗山の家に向かう途中だった。高校が期末テストで午前で終わってしまったため狗山の家で遊ぼうと思ったのである。彼の家はなかなかに大きく門扉から母屋までの広場で幼稚園の運動会くらいなら開催出来そうだし、鯉だの金魚だの見たことも無い虹色の魚だのが泳ぐ立派な池もある。家も大正時代から残っていてからくり屋敷のように異常なまでに入り組んでいて、狗山が居ないと確実に遭難して数年後には白骨死体となって発見されること請け合いである。要するに暇つぶしには事欠かない家だ。僕はどのように狗山家が栄えたのかが非常に気になる。
そんな家だからまぁ遠い、山の中だ。僕がぎらぎらと熱光線を刺してくる太陽の下、夏服を汗で貼り付けながら自転車で砂利道を走っていると、山の入口の森の方から女が歩いてきた、不思議な服装で和服の上にコートのようなものを羽織っている、そしてなんと言っても持っている傘だ。極彩色の傘で、虹色の魚や孔雀のような尻尾を持った狗などが描かれている。昔姉と夏祭りに行った時に何処かの店でこのような傘があり、2人でいたく気に入ったが買えなかったことを思い出した。この道で姉のことを思い出したことで姉も狗山の家を何度か訪れていた事を思い出した。すれ違ったが傘に遮られ薄い唇以外、顔は見えなかった。何故か脳裏にその不思議で滑稽な姿が焼き付いた。
狗山は冷たい麦茶を出してくれた。「犀川、今回は赤点は幾つ位なんだ?」とけたけた笑いながら開口一番失礼なことを言うので麦茶をかけてやろうか、とも思ったが麦茶に罪はないし、僕は「3.4個だよ、うるさいな」と答えた。実際この質問は僕にとっては失礼でもなんでもないのである。彼はまたけたけたと笑い、麦茶をぐいっ、と音がするように一息に飲み干した。
「幻想商人、ってお前は信じるか?」と彼が言ったので「いたら面白いんじゃないかな、名前ほどファンタジーな存在じゃないのが恐ろしいけどね」と答えた。今思うと狗山はこの時動きや表情に少し影が差していた、彼はこういった。「俺は会ったんだよな。」僕はどんな反応をすればいいのか考えたが結局彼が次に口を開くまでに思いつかなかった。「夜に帰ろうと思って歩いてたらさ、後ろから『貴方の幻想を買いましょう、新入りの傘の娘が貴方の幻想を加えた美しい幻想郷に案内致します』って突然言われるもんだから驚いて振り返った、らそこに男が立ってるんだな。そこそこ小柄だけど目が光ってるように見えた、俺は怖いのは苦手だから少し彼の話を聞いて逃げたけど…」彼はそこで言葉を一旦切った。そして麦茶のグラスを持ち、もう茶が入っていないことを思い出して苦笑してグラスを置いて続けた。
「あれはずっと行方不明になってたうちの父さんだと思うんだよな」
狗山の家には彼と家の護衛に黒服が何人かいて、狗山は彼らに「のっぽ」「ガマ」「蜥蜴」「骸骨」などと名前をつけてけたけた笑っていた。外見で決めた名前である、僕も心の中で彼らをその名前で呼んでいた。狗山が離れでゲームでもしようじゃないか、と言うので僕は彼の後ろをひたひたとついていった、ガマと骸骨が今日仕事らしい。
狗山は蔵の役割もある離れで沢山の本を見せてくれた。興味はないが色々見てみると、虹色の魚や孔雀尻尾の狗などの物語が綴られたものや、空の飛び方のハウツー本、カバー下に不思議な数列が記された裏世界の遊園地についての記録など少し気味悪いが面白いのである。著者を見ると全て狗山の父なのだ。彼は「父さんは幻想作家でさ、こういう本を書いていたんだよ。だから父さんなんじゃないかって思ったんだけど…あと幻想商人がさ、『私はずっと山で孔雀のような尻尾を持った狗に修行をつけてもらい、人の脳の中が見えるようになったのです、いかがですか、ひとつ覗いて証明してみましょうか』なんて言ってたんだ、それを聞いて怖くなって逃げたんだけど」、と言った。彼はトイレに立った。部屋を物色していたら金庫があったので適当に先程の数列を押してみたら開いた。中には「紫麻薬の配合の仕方」、といった本が入っており何となく薄気味が悪かったし、彼の足音がしたので金庫を閉じた。弱い電球で中途半端に照らされた離れの闇が深まった気がした、風邪がどろっと吹いて行った。
少し背中に不思議なものを感じながら家に帰ったら姉はまだ帰っていなかった。それからずっと帰ってこなかった。
心配になって学校を休んで一通り街を探してみたが姉はいなかった。幻想商人にでも連れ去られたのか、と考え、背筋を何かに撫でられるような思いがした。
狗山に呼ばれたので狗山家に行った。彼は心配そうな顔で心配している、といった旨のことを言っていた気がする。「姉さんはどこに行ったんだろう」と独り言のように空に言葉を投げると狗山は「お姉さんが幻想商人に連れ去られたなら連れ戻す方法があると思う。」と言った。
彼は離れで「幻想テェマパァク」という本を見せてくれた、前回来た時に気になって手に取った裏世界の遊園地の本だ。狗山父が考えた空想のテーマパークを事細かに書き記した非常に気持ち悪い本だがあまりにちゃんとしているのでなかなか楽しんで読んでしまった。「地図があるだろ」と彼は言った。「その地図はこの街と合致してるんだよ、もし幻想商人が父さんならここ、この本の地図で遊園地が置いてある場所に居るんじゃないか、と思って」「なんでそんなことを今僕に言うんだよ、警察とかに言えばいいじゃないか」と僕が言うと「確証がないし俺は父さんがやってるかもしれないこの事件に正直関わりたくないから…」と言った。無責任だ、と思った。
その後これまた見たことも無い青紫色の草の生えた庭を抜け母屋に戻り、麦茶をもらった。不思議とさっきの青紫が麦茶に浮かんで消えた。思わず「紫麻薬…」と口にした。彼は気づいていないような顔で宙を見ていた。
帰り道は足元がふらついた、疲れが溜まっていたようで、電柱が三本に見えた、街が異様に明るかった、傘女の持っていた極彩色傘が脳内でくるくる回った。不意に背中に衝撃を受けた。最初は転んだのかと思ったが違う、世界は揺れているが転んではいない。何者かに攻撃されている、と思った時には遅く、後頭部に打撃を受けた。薄れる意識の中で、彼らを見た。黒い服の背の高い男と同じく黒服の蜥蜴顔の男だった。
目を覚ますと物に境界線のない不思議な世界にいた。目の前に傘女がいて、ぬるりと笑っていた。顔は見えない。僕は「姉さん」と呼んだ。反応はなかった。
まだ意識があるかないかのところで後ろから声がした。「幻想商人なんているのかね、どう思う?」と声がした。狗山の声だ、と気づくと同時に口を開いていた。「どういうこと?お前が会ったって言ったんじゃないか」「言ったっけか、覚えてないなぁ、まぁいい、紫麻薬について知られたまま表で生きられると面倒だしね」狗山は何やらごにょごにょと呟いた後、間を溜めに溜めて、ぬらぬら光った目を向けて芝居がかった仕草で大仰に口を開いた。「貴方の幻想を買いましょう、新入りの傘の彼女が貴方の幻想を加えた美しい幻想郷へ案内致します」