『この財産、差押えます!』をお読みいただき、ありがとうございます。
以下は、本来本編の最終話に差しはさむ予定でしたが、そのまま載せるにはいろいろ問題も多そうなので、こちらでこそっと公開します。
必ず、本編30話までお読みになられた後、ご覧ください。
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「お世話になりました」
桐生悟史は、刑務所の通用門まで見送りに来た刑務官に頭を下げた。中の規律で短く刈りそろえられていた髪は、まだ以前ほどの長さまで伸びてはいない。
県税職員への暴行の教唆と銃刀法違反で実刑判決を受けた桐生は、刑務所内では比較的模範囚として過ごしていた。そして仮釈放を受けていま、久しぶりの塀の外へと足を踏み出したのだ。
刑務所でのお勤めを終えて、真っ先に桐生が向かった場所。
それは、広西会系春日組の事務所だった。
「お勤め、ごくろうさまですっ」
事務所で、若手にそう挨拶された。それに適当に答えつつも、桐生の表情はいつになく硬い。久しぶりにきた懐かしい事務所だが、いまは懐かしさよりも違和感の方を強く感じていた。
自分がしばらくいない間に、事務所内の様々なものが現組長流のものに変えられてしまっている。
すでに、前組長の面影はことごとく消されていた。そのことは、桐生の胸の内に寂寥の念を呼び起こすが、いま胸中を占めている思いはそのことではない。
建物の最奥にある組長の部屋を目指す。
三階建ての最上階。その奥に、大きなダークブラウンの木製の扉がある。
その扉の前に、桐生もよく知っている人物がいた。たまたま今日の見張り役としてそこにいたのだろう。かつて桐生の部下だった、大男だ。こいつは、いつでもアロハシャツを着ている。
大男は桐生の姿を見つけると、駆け寄ってきて深く腰を折った。
「桐生さんっ。お勤めご苦労様ですっ。ご連絡いただけましたら、お迎えに行きましたものを」
桐生は、まだ頭を下げたままの大男の肩をポンと叩いた。
「いや、いい。『おやじ』は、いるか。挨拶しに来た」
大男は久しぶりに聞く桐生の声に、緊迫したものが籠っていることを感じて、ハッと顔を上げる。
単なる出所の挨拶で済むはずがないのだ。
桐生は刑務所に入る前、組の大切な財産の一つを自らの意思で失わせた。オジキが助けの手を差し出したのに、それを無下に断ったという噂は組中の誰もが知っていた。
そのことへの、お咎めがないはずがない。
桐生もそのことを覚悟していることが、彼の緊張した様子からうかがえた。
「桐生さん……」
大男は、おろおろと視線をさ迷わせる。
そんな大男の様子を見て、桐生はわずかに片方の口角をあげた。
「んな、心配するな。お前らにも、迷惑かけたんだろうな。すまなかったな」
「そ、そんなこと……」
大男はあたふたと、もう一度頭を下げた。
その横をとおり、桐生は扉の前に立つ。
二度、素早く扉をノックした。少しの間ののち、中から扉が開かれ見張り役の若い男が彼を招き入れた。
室内に入って、桐生は息をのむ。
室内には、現組長だけでなく、組の幹部たちの顔がずらっと揃っていた。
現組長の舎弟であるオジキの顔が見える。そのオジキが、桐生を見てでっぷりとした頬を歪ませニヤリと笑った気がした。
(クソみてぇな、嫌な顔だな。相変わらず)
そんなことを思いつつも、桐生は強張った表情のままその場で深く頭を下げた。
「桐生 悟史、いま戻りました」
「ああ。お勤め、ごくろう。ほら、悟史。こっちに来い」
組長に促されて、桐生は大きな執務机の前まで行った。その両側に、幹部連中がずらっと立っている。
「お前が出所したと聞いてな。こりゃ、ちょっと相談をと思って、みなに集まってもらったんだ」
「……なんの、相談でしょうか」
緊張でかすれそうになる声をなんとか保ちながら、桐生は尋ねる。
「そりゃ。決まっとるじゃないか。お前の進退を、だよ」
すでに若頭補佐から降格した旨は、関係者を通じて知らされている。さらに相談をとなると、話は決まっている。
失態に対する処分の件だ。
桐生は組長が口を開く前に、深く頭を下げ声を上げた。
「オヤジ、お願いがあります!」
本来であるなら。自分は責任をとって死ぬべきだと、桐生は思う。
組の大切な財産であった湯川根の物件を失った。自分の判断で。
しかもアレは、元組長派の最後のよりどころになっていたものだ。その後、元組長派は全員、現組長のもとに下るか組を去ったと聞いた。
その元凶を作った自分が、のうのうと生きていていいはずがない。
(でも……)
死ねない事情がある。いま、ここで自分が死ぬわけにはいかない。
「ほぉ。なんだ」
組長が、一応、聞く姿勢をみせた。そこで、桐生は頭を下げたまま続ける。
「私を、組から抜けさせてください」
桐生の言葉に、場がざわつき出す。何を言ってんだ!と怒号をあげる者もいた。
しかし組長は、桐生のこの言葉をある程度想定していたのだろう。驚いた様子もなく、ほぉ、と呟いた。
「なんの責任も取ることなく、組を抜けるなぞ、認められると思っているのか?」
「いえ」
短く言うと、桐生は顔を上げた。組長と目が合う。自分は、こいつを組長などと本心から思ったことは一度もない。自分にとって組長は、前組長、自分の義理の父親ただ一人だ。
「責任なら、とります」
だからこそ。組のために死んで詫びるべきだと強く思うのも事実だ。前組長に義理を通すのなら、それが当然だと自分でも思えた。でも、それを前組長は……オヤジは望むだろうか。沙也加は、それを良しとするだろうか。
桐生はシャツの後ろに手を入れると、腰に挿していたものを抜いた。
それは、一本のドスだった。
柄を掴んだまま強くふると、鞘が飛んで落ちた。
露わになった刃が蛍光灯の光を受けて鈍く光る。
周りで見ている幹部たちも、だれも動かない。その場にいるのは全員ヤクザだ。ヤクザの責任の取り方は、だれもが知っている。
桐生は組長の前の机に左手をつくと、右手につかんだドスを左小指の脇に刺した。
これでいいかと組長に目を向けると、組長はじっと桐生の目を見返す。
桐生の行為を認める、という合図に桐生は受け取った。
(死ぬことなら、いつでもできる。元々、オヤジも沙也加もいなくなって、いつ死んだって良かったんだ。でも、今、俺が死んだら……)
アイツは、どうなる?
学もない。身寄りもない。籍もない。それで、このあとどうやって生きていく?
また、昔に戻るだけじゃないのか。
自分がアイツを見つけた時、アイツは闇風俗で寂しさを紛らわせるために脱法ドラッグに溺れてボロボロになっていた。なんの生きる意味もなく、ただ無駄に人生を浪費するアイツの姿は、かつての自分と重なった。
桐生は歯を食いしばると、机に差したドスを力いっぱい前に倒した。刃が固いものに当たった感触。激痛が走る。
思わず痛みに叫びそうになるのを噛み殺して、桐生はさらに力を込め骨を断ち切った。
ドスの刃が完全に机と接する。
明らかに短くなった小指の先からだくだくと血が流れ出し血だまりをつくった。
痛みを肺いっぱいに吸い込んで、桐生は吐き出した。
俺たちの命に、価値なんてない。
意味なんてない。
ただ、産み落とされただけ。
そんなゴミみたいな俺たちが生きていける場所なんて、どこにある?
(でも、一人じゃ無理でも。二人でなら、探せるのかもしれない。オヤジ……許してください。あと少し、生きていくことを許してください)
「……これで、責任取ったことにしてもらえませんか」
血の気の引いた顔で、桐生は組長を睨むように見る。痛みで体が小刻みに震えた。
組長は目の前で桐生が指を切り落としても動じた様子は微塵もなく。
「のぉ。悟史。今回はその指に免じて、お前の失態は不問にしてやっても構わん。しかしな、だからって組を抜けるのを認めるかどうかは、また別の話だ。そうだろ?」
我がままをいう子どもにでも言い聞かせようとするかのような口調で、組長はそう桐生に話す。
桐生の方も、これですべて認められるとはハナから思ってなどいない。
「わかっています。今のは、湯川根の分です」
桐生は自分の眼鏡をとって机に置くと、机に食い込んでいたドスの柄を逆手に掴み、力いっぱい引き抜いた。
周りが騒めく。先ほどとは違い、何をするつもりなのかと幹部たちに動揺が生まれる。
しかし、組長は、静かに嗤っていた。
桐生は騒めく幹部連中には目もくれず、組長をじっと睨むように見つめたまま柄を両手で持ってドスを顔の高さまで上げる。
(体なんて、いくら失ったって構わない。この先、生きていくことが認められるんなら)
桐生はドスの刃を顔に近づける。その長い刃が目の前に迫った。
一つ、決意を込めて桐生は大きく息を吸うと、刃を右目すれすれに構える。
そして一息に、刃を右目に突き刺した。
「……っ」
激痛に桐生の顔がゆがむ。気を失いそうな痛みの中、奥歯が折れそうなほど噛み締めた。
それまで普通に見えていた右目が、ドスの刃に潰されて機能を停止する。右目から血の涙を流しながら、桐生はドスを目から引き抜いた。
そして手に持っていた血まみれのドスを、組長の机に置くと、一歩下がってその場に膝をつき土下座した。
「どうか……これで、許しちゃもらえないでしょうか! 手切金なら、払います。だから……どうか!」
桐生の鬼気迫る様子に気圧されたのか、その場で異議を唱えるものはいない。
しんと静まり返る室内に、組長の「……わかった」という声だけが、やけに大きく響いた。
こうして、桐生悟史は春日組を辞め、新たな道を歩き始める。
(傷が癒えたら、アイツに会いに行こう)
そう、心に決めて。
もう、チョコは買わない。もう……必要ないから。
第30話追加話 おわり