先日久しぶりにTwitterを開いてみた。
もうXという名に変わっていることは知っていたが、それでも慣れ親しんだ呼び名というものはそうそう消えない。
やがて周囲がみんなXと呼ぶようになり私もそれに従ったとしても、Xと口に出すたびにかさぶたの痕のように少し心が引きつる気がする。
以前Twitterをしていた時のアカウントはもう消していて、新しく作り直した。友達が絵を描いて公開しているので、ちゃんと見て反応したかったのだ。
アカウント名は向こうも知っているこのペンネームにしておいた。
数年ぶりに見るTwitterはあちこちが変わっていて、前の姿の記憶が曖昧なのもあるが、ちょっとした機能に驚いてばかりだ。
あと、絵にいいねを押したらタイムラインがイラスト関連ばかりになって、これは軽々しくアクションできないぞと操作の一つ一つに神経を使うようになってしまった。
ふとした動作が自分や誰かの触れる情報を左右する。
そう考えると、自らの手による発信など恐ろしくてできたものではない。そういえば、以前も結局自分からの投稿はすぐにやめてしまったのだった。
今回も日陰でこっそり道ゆく人々の姿を眺めるだけにしよう。
そう心に誓った。
しかし、それから少ししてある人形博物館に出かけた時のこと。
そこの主人が人形の写真を撮っていいと言ってくれたのだが、それで私が喜んでスマホを取り出すと思い出したように「Twitterに載せといてください」と付け加えた。
昨日の今日で困った。
とはいえ主人にはよくしてもらっていて、その日もコーヒーを淹れてくれたし普段は出していない作品も見せてくれた。
やむを得ない。何事にも例外はある。
私はその人形博物館の軽い感想と案内を投稿した。
自分の投稿をしげしげと見ていると、端の方に数字があるのに気づいた。調べてみれば私の投稿を見た人の数らしい。
その数は50にも満たず、日陰のささやきにわざわざ足を止めて耳を傾ける人などそもそも少ないことにそこでようやく思いたあった。
恐らく、前回使っていた時には実感としては知り得なかったことだ。
私の声は小さい。そう受け止めていれば、向き合い方も変わる。
日陰で佇むようにTwitterを使う。
賑やかな往来を眺めつつ、口を開く時は雨の冷たさや風の爽やかさを愛でるようにそっとひとりごつ。
そう考え直すと、タイムラインを流れる情報にも幾分か親しみを感じられるようになったのだった。
多分、今のうちだけである。