前回(
https://kakuyomu.jp/users/tekitokun/news/16817330667850814855)はアンチなろう系について自分の考えを語ってみたが、今にして思えば狭い視野に囚われていたものだと恥ずかしくなる。
そもそもの本質は、なろうがどうとか、もうそういう問題じゃあないのだ。
結局は、”力で解決””力をつけて解決”ってパターンのお話はありふれてるし、無理があるって問題につきる。
大抵の人には力がない、というより自分には力がないと思い込んでるから、力を持った主人公を想像して憧れる。だが、現実には力ある者がみんな幸せって訳ではない。
金も力も知恵もある筈の成功者が、人生の何が不満だったのか麻薬に溺れてたり、汚職やいかがわしい行為で逮捕されたりと、そんな話は世にありふれている。
自分はあの人達なんかと違う! 自分達には正義の心がある! と思う人も多いのだろうが、実際に彼等と同じ力を得たのなら自分がどのように慢心し、どのように心変わりするか本気で想像してみるといい。運動系の部活では、後輩の時にはおとなしくとも、先輩になった途端にこれまでの上級生と同じ様に威張り散らす奴だってザラにいるのだから。
それに目立つ事こそ少ないものの、力なくとも幸せな人だっている。力を得て報復するよりも、力がなくても幸せになる方法を模索した方が早いのが現実だ。
結局は”心”。魂を磨かねば、力がいくらあろうとも幸せになどなれないし、各創作物で語られてる”ありふれた正義”では魂が磨けぬからこそ、多くの人が自分が進むべき道が見えなくなる。無明とはよく言ったものだ。
で、今世に溢れる創作物の殆どは、一時的にストレスを発散する商品に徹している。力で押さえつけられている者達が、自分達の正義を掲げて力での報復を夢見られるように。
なろう系はドヤッて承認欲求を満たす事に特化してるし、ジャンプ系なら気に食わない奴をぶっ飛ばすバトル特化。
いずれも力の論理から抜け出せるものではないのだが、彼等の牙城を崩すのは難しい。向こうの娯楽作品としてのフォーマットは完成しているのに、僕の方はまだ一人で新しいフォーマットを模索し始めたばかりなのだから。
けど、いずれはこの状況も変わるだろう。いくら完成されてるからって、同じフォーマットを擦り続け過ぎだ。力の論理に飽きた読者が、もっともっとこれから増えてくるだろう。