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『しーちゃんのスカート』今夜完結。~本作が『男の娘』でも『百合』でもない理由~

この話を書くにあたって『男の娘』『百合』というワードを強くNGとして書きました。
理由は、
『性的趣向(指向ではなく、趣向)に基づく搾取物になってしまう性的少数者』
という側面を排除したかったからです。

主人公たちが小学生であり、
「当事者の子が読んでも苦痛に感じないように書きたい」
「より寛容な(というより、干渉しない)社会の醸成の草の根になりたい」
と思ったのも大きな理由です。
(これは千鶴のいじめた子たちを『あの子達』と表現して、描出を最低限に留めたのも同様の理由からです)


ただそれ以上に、この話を書くにあたって、私はyoutubeのContraPointsというチャンネルの「ジェンダークリティカル」というビデオコラムを参照にしました。
これはいわゆる『ターフ(TERF)』にトランスジェンダー当事者が言及し、その背景を含めて非常に理性的に向き合った動画だったからです。

その動画の最後に、
『トランスの悲しいこと』として、
「空き缶であること(おそらく性別適合手術後は子供が作れないこと)」と
「そういう性的趣向者の自慰のオカズになってしまうこと」がぼやかれていました。

本来「百合」も「BL」も「男の娘」も、
『性的少数者の実存に「間借りした創作物」』であるはずです。
その当事者である人たちが『搾取』として、苦痛に感じているのであれば、
私はより謙虚にあるべきだと思いました。

それにあたり、
「そういうものを描くのは、避けよう」と決意しました。

こうした倫理観を他者に強いる気はありません。

ただ私は
「これはタバコと変わらない。最後まで味わったら何も残らず消えるだけだ」
と気づいた日から、私はラノベを読まなくなりました。
これは主体性やメッセージ性を持たないエンタメに対しても感じることです。

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