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真実≠事実

こんばんは。
最近つまらないことが気になっています。

「歴史の真実」と聞いて違和感を感じるかどうか、という話なんですけど、個人的には違和感を感じまくりです。

文章を書くのが好きな方はだいたい違和感感じるんじゃない?、と思いますが、あんまりそうでもないのかなあ。

一般に、「歴史的事実」という場合、なんらかのエビデンスにより証明されて反証が難しい事柄とされます。
こちらは馴染み深く、「ふんふん」という感じで腑に落ちるので、歴史学の用語なのかも知れません。

一方、「歴史の真実」と言われると「ん?」という感じになるんですね。

真実は主観的な理解であって人の数だけあり、客観的な事実とは必ずしも一致しないはずです。

なので、「そりゃあ客観やなくて主観やからアンタさんにはそうであっても他人にはちゃうかも知らんで」というお話ですね。

まあ、口承文芸や証言はあまり歴史学との食い合わせがよろしくなく、現代史あたりの方が扱いに困っていた記憶がありますので、主観的証言をどう扱うかは未開拓というか、研究中の分野なのかも知れません。

何しろ、証言にはバイアスや意図が隠されている場合が多々ありますから、史実を探求する上での補強には使えても、それをもってエビデンスとするにはいささか弱いんですよね。

ただ、証言者がそう捉えている、または証言された以上、その方にとってはそれが真実です。

無論、「体験した人の発言だから間違いない」という方もおられるかもしれませんが、歴史学に関わる人間はそういう思考はしないと思います。

「そういう証言があるとして、それを証明するエビデンスはないか?」これが一般的な歴史学の考え方だろうと思います。

しかし、知人に聞くと、あんまりそこまで厳密に真実と事実を切り分けたりはしないみたいなんですよね。

なので「そういうもんかのう」と思いながら、色々なところにある「歴史の真実」という字句を眺めているわけです。

ふーむ。

9件のコメント

  • 真実なんてもんは立証のしようがないですよね。
    残された手掛かりからの推理ごっこしか、
    我々には許されていません。

    いつも思っていますが、
    歴史考察なんてもんは、
    どう頑張っても
    ブラックボックスが大きすぎます。

    そいつをこじ開けられる手だてがない以上、
    全ての歴史考察は鼻息で吹き飛ばされる
    リスクを抱えざるを得ない。


    こう考えたら面白い、までしか
    我々には許されていないと思っています。
  • 佐藤さま

    こんばんは。
    釣れそうだと思っていた佐藤さんがやはり釣れました(笑

    結局、推理して自分なりの物語として消化するしかないんですよね。それがまあ、自分なりの「歴史の真実」ということになるのかなあ、と。古代史を相手にする場合、当事者は歴史の闇の中ですから、観察者である我々以外には真実を保持する主体は存在しませんし。

    というわけで、研究書や史書にあたって「史実=歴史的事実」を蓄えつつ、結局ブラックボックスにならざるを得ない心情や動機を推測することが、いわゆる小説化なのかな、と考えています。

    歴史研究は前者の「史実」を増やす、または確度を上げることが命題なので、これはこれで萌え上がるために大事だと思います。

    > 残された手掛かりからの推理ごっこ

    それがすなわち小説化でありまして、ここにいるみなさまの一番やりたいことなわけですよね。

    そう考えると、当事者を欠く時代の真実は例外なく「自分なりの歴史の真実」であり「小説」なんですよね。

    だから、どうあがいても「こう考えたら面白い」以外になりようがないし、それが目的と言ってもよいのかな、と思います。

    趣味ですからね。
  • そんな気はしてましたw
    ありがとうございます。
  • 「歴史の真実」はあるでしょう。即ち、私達が現在、存在しているその過程としての歴史はどこかにあるはずです。

    多くの史料により、事実を積み重ねてより蓋然性の高い歴史を考察されています。また、考古学には科学的見地から確実といえる史料も多く見いだされています。ブラックボックスが大きいのは事実ですが、その全てを「推理ごっこ」などというのは余りにも行き過ぎな発言でしょう。

    また、曖昧とはいえ、当時の思想や政治制度も研究され、当時の思考も研究されています。これを全て蓋然性が高いもので小説で再現したら、書く人はともかく、現代に生きる読者にとって面白いものになるのは困難でしょう。

    やはり、「こう考えたら面白い」とする小説と歴史を研究する歴史学は別物でしょう。

    河東さんがなされている分かりやすくするための翻訳はともかく、時代小説は「いわば催眠術をかけられて、時間旅行をするようなもの」(私では説得力がないため、村松恒平「文章王」から引用します)です。読者を酔わせねばなりません。その程度の「真実」は必要です。

    そのようにお考えになると、「創作」がしたいのか、「歴史」を研究ししたいのか、その創作は自分に向けられたものか、読者に向けられたものか、分からなくなると思います。

    趣味だからとはいえ、目的がはっきりしないものは、しっかりしたものにならないのではないでしょうか。
  • まめさま

    こんばんは。
    真実と事実は実に面白い議論ですが、定義を明らかにすることが肝要と考えています。ここをゆるがせにすると噛み合いません。少し丁寧に考えてみたいと思います。


    〉「歴史の真実」はあるでしょう。即ち、私達が現在、存在しているその過程としての歴史はどこかにあるはずです。

    上記のご意見のうち、「真実」を「事実」と置き換えた場合、異論は一切ありません。必ず来し方には事実の堆積があります。ただ、第三者が観測するよすががないに過ぎません。
    私事ですが、父方の家系は過去帳がないので五代前より遡れませんが、六代前も七代前もいたはずです。じゃないと生まれてませんよね(笑

    で。
    議論を拝見するに、用語の定義に齟齬があるように思わされます。

    まず、歴史学を齧った人間は「真実」は自分たちの研究対象の外にあると考えているはずです。

    歴史学において「真実」という語はほぼ聞くことがありません。それは一般的な定義に馴染まないからです。

    私の理解では、事実が第三者に観察可能な「事象」であるのに対し、真実は個体が内面において体験した心情を含む「経験」であると切り分けられると定義しています。
    つまり、彼が彼女を殺した、は第三者に観察可能ですから事実、彼は病に苦しむ彼女を見るに忍びなかった、は経験ですから真実になります。
    つまり、真実は定義に基づくと主観でしかあり得ず、第三者の観察をいれません。

    この定義を共有していないと議論が深まりませんので。まずそれはそれとして与件としましょう。

    この時点で「待て待て」というご意見もあるかも知れませんが、その場合は定義の相違が見解の相違を生んでいます。

    よって、歴史的「事実」は研究できても、歴史の「真実」は少なくとも学問的な探求の対象ではない。なぜなら、それは経験であり、経験は主観であるためにエビデンスに基づく議論ができないからです。反証ができない、または、容易に反証されてしまうのですから、そもそも議論に馴染みません。

    以上より佐藤さんの「推理ごっこ」発言に私が同意した理由は、「真実」はエビデンスによる探求が難しく、事実で周りを固めても小説を書く方が知りたい当人の心情=経験は蓋然性の域を出ないためです。これを指して「推理ごっこ」と称しています。


    〉ブラックボックス

    以上より、ブラックボックスにも2種類あると考えられます。一つはエビデンスを欠くために反証不能な事実と認定されていない事象、これが歴史学の守備範囲ですね。

    この、エビデンスを集めて事実認定されていない事象を事実認定するための努力=歴史研究を「推理ごっこ」と呼ぶつもりはありません。
    立派な学問です。

    もう一つはそもそも追体験できない個人的経験の推論による復元、こちらは小説というか、広く文学の守備範囲と考えます。ただ、事実認定された事象を増やす意図は、実はコッチの精度を高めるためじゃないかと最近は考えています。


    〉曖昧とはいえ、当時の思想や政治制度も研究され、当時の思考も研究されています。

    特に異論はありません。
    ただ、当たり前ですが思想や思考は外部にOutputされた文字列からの理解であり、そこから考えた蓋然性の高い推論の域をでません。
    政治制度は任官された人間の所管範囲から外部的に観察可能ですから、それらとは一線を画しますね。


    〉「こう考えたら面白い」とする小説と歴史を研究する歴史学は別物でしょう。

    これは言うまでもなく、別物です。


    〉時代小説は「いわば催眠術をかけられて、時間旅行をするようなもの」

    面白い言い回しですね。同感です。


    〉読者を酔わせねばなりません。その程度の「真実」は必要です。

    こちらも異論はありません。それゆえに、「真実」は文学の範疇に入り、歴史学の管轄外だと考えています。


    〉「創作」がしたいのか、「歴史」を研究ししたいのか、その創作は自分に向けられたものか、読者に向けられたものか、分からなくなると思います。

    ここは少々見解が分かれるかも知れません。
    思うに、自分なりに歴史上の人物の経験を追体験したい、そのために事実を押さえる、という行為の目的を択一する必要はないと考えます。両方であってもよい。また、その精度の高低が創作の質を決めるわけではない点も、前段で言われる通りです。

    なお、極論すれば歴史研究を省いた時代小説もアリです。なぜなら、それが創作である限りにおいて面白いならば何でも許容されるからです。
    個人的にはあまり好みませんけど。。。


    〉趣味だからとはいえ、目的がはっきりしないものは、しっかりしたものにならない

    それはそうですね。
    ただ、三国志演義を楽しんだ方がその知識だけでスピンオフを書くのもアリだと思いますし、史実を掘り返して心情を追体験しようとするのも、ともにアリだと思います。楽しむのが一番です。

    創作において事実の収集や歴史研究は手段となります。それも趣味のよいところかな、と考えています。
  • おはようございます。

    夜中に書いたものをざっと見るに、前半はさて置き後半の理路はイマイチ言葉足らずな気がします。

    まめさんのご納得を得られるレベルかと言うと、疑問。思想と思考の件も日本人の儒学理解など傍証を挙げられたはず。

    あと、創作における史実の扱いはフェイクニュースの問題と相通じる部分があり、立場表明の大事さも論じられないとダメな気がしました。

    しかし、深く掘ると様々な問題にぶつかりそうな興味深いテーマです。
  • あ、ここでは真実をただの主観として捉えているのですか。

    >真実は主観的な理解であって人の数だけあり、
    >客観的な事実とは必ずしも一致しないはずです。

    これは、「主観が一致すれば共通の真実になる」とみなしました。

    なお、ネット検索の「歴史の真実」のほとんどは国語辞書でいう「①うそや偽りのない、本当のこと。まこと。②仮のものでない、絶対の真理」のうち、②で解釈しているので、勘違いもご容赦を。

    この言葉は定義は理解しました。

    文学としての文豪の書く小説は研究がなされるほど相当に計算されたものであります。

    なのに、ネット上の歴史関係の方が、ブラックボックスがあることをいいことに、「(個人として書くだけの)創作」、「(他人に見てもらうことを前提とした)小説」、「学説や史料を使っての歴史研究」、「想像力にも頼った歴史評論」をその時々で、目的が曖昧なままふらふらと使い分けしているのが、多々、見られるからと思うのです。

    私が不快なのは、私以外の人にはどうでもいいでしょうが(笑)、ツッコまれた時の言い訳と、その時々での書き手のおいしいとこどりでは、先人や読者にも失礼ですし、本人も、その場だけは楽しくてもいつまでも真剣になれず、一生の趣味にはなり得ないと思えます。

    昨日の氷月さんのお書きになった詩のツイートを読みながらそう思いました(笑)
  • まめさま


    こんにちは。

    〉真実をただの主観として捉えている

    そうなんです。先に定義を示せって話ですよね。
    ご不快をおかけしてしまい、すみませんでした。

    ちなみに、多神教世界では真実も神も人なくしては存立し得ないので、我々はfactは理解できても厳密にはtruthを主観としてしか理解できないのかもなあ、とも考えています。
    結局、神を持たない我々はtruthをrule=法則と理解してしまうのかなあ、と。
    ManMadeGod.


    〉①うそや偽りのない、本当のこと。まこと。
    〉②仮のものでない、絶対の真理

    辞書的にはそうですよね。結局、維新期の幕臣再評価のような「歴史の真実」読み物は通説または通念に対する異論です。無価値ではないですが、別に通説や通念より事実に近いわけではない。
    だから、「歴史の真実」は小説なら楽しみますが、研究方面で目にするとJAROに電話したくなります。

    小説、創作、研究、評論ですか。文章をカテゴライズするのはスタンスを明らかにする上で悪いことではないかな、と思います。
    個人的には、小説=創作は呼称の相違なので出入りして可、これを含む三者のうち、評論含む研究は可、逆は微妙に不可、小説=創作含む研究または評論は可、逆はかなり不可って感じですかね。


    〉本人も、その場だけは楽しくてもいつまでも真剣になれず、一生の趣味にはなり得ないと思えます。

    あー、それはあるかも知れませんね。
    目的を明確にしてそれを継続しないとレスペクトされないのもあると思うんですよね。せっかくの蓄積も価値が顧みられなくなってしまいます。

    だから、まずは翻訳とその解説から始めるのがいいと思いますよ(真剣


    〉氷月さん

    あの方は小説、漢文に加えて作詞もされるのですよね。なんつーか、振り切れてるなーと思います。
  • 他人のことは他人のこと、これ以上は大丈夫です。お付き合いいただきありがとうございました。

    >だから、まずは翻訳とその解説から
    >始めるのがいいと思いますよ(真剣

    確かにそうですね。しっかりこつこつとされている方もたくさんいらっしゃいます。他人の批判ばかりでなく、見習わなくてなりませんな。

    ※文面は一部修正しました。お手数をおかけしました。
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