いつの時代でも通史は難しいです。通史を書けたら一流だと思います。だから、魏収や李百薬、司馬光は凄いんですよ。
断片だけ食べるのは比較的簡単。我々は勘違いしない方がいいと思います。
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年末年始に田中芳樹『奔流』、陳舜臣『耶律楚材』あたりを読んでいました。両方とも初出は二十年も前ですが、よく出来た作品で文句なく面白いです。しかし、前者の舞台である南北朝時代や後者の舞台の南宋末期を描いた小説は、ついぞ現れません。
で。
『奔流』の主人公である陳慶之の列伝や関連記事を本紀あたりから抜いて訳してみようかと思って読みはじめたのですが、そこで「人物に焦点をあてた良作があっても、その時代のファンは増えない」と気づきました。
こういう場合、列伝をざっと読んでから『資治通鑑』と本紀で前後を把握し、さらに関係人物の列伝を調べる×『梁書』『魏書』『南史』『北史』それぞれでやる、人によっては『南齊書』あたりも必要になります。前者で俯瞰して後者で拡大するイメージです。
「これは手が出ないわけだ」と思いました。小説を読んで興味を持った人がやるには無理があります。キツすぎる。だから、面白い小説があればその時代が身近になるかと言うと、たぶんそうじゃない。
その小説は面白い、それだけです。それで十分ではありますが。
調べているうちに感じたのは、結局のところ、何かを調べるにせよ、小説化するにせよ、引いた目線で前後の歴史を踏まえないと面白くならない、また、説得力のある評価や解釈はできない、ということでした。
当たり前ですよね。
ただ、小説はある程度の情報の密度がないと成立しませんから、『通鑑』や本紀による俯瞰は後景に退き、列伝の記述と創作による拡大が前面に出ます。そっちの方が面白いですからね。これも当然です。
しかし、中国史を含む日本人には馴染みのない時代を知るには、まずは俯瞰が大切になります。実は、列伝だけ読んでもあまり面白くはないんですよね。ただ、本紀だけ読むのはさらに面白くないです。無味乾燥。
翻してみれば、これらのうち、少なくとも俯瞰が出来ない限りは小説から興味を持ってもその先に進むことはできない、ということです。この壁が高いかぎり、小説の良作も点で終わってしまいます。自分で調べようとは思わないでしょう。
『三國志』については『演義』が後漢末から晋の成立まで八十年を描いており、正史も翻訳されているので、この壁が低いです。だから、『三國志』マニアを大量に輩出できた。それ以外の時代にはこの環境がなく、壁が高すぎます。
そう考えると、『三國志』以降の時代についても、ある程度の時代の幅をもって俯瞰できる通史的役割を果たす必要があり、そのためには、面白くはないですが本紀を翻訳するか、または通俗小説群を翻訳するか、そのあたりを地道にこなすしか、いわゆるマニアが生まれやすい素地を作る方法はないのかも知れません。
そう考えると、『三國志後傳』の翻訳もあながち間違いではないのかな、と思った次第です。そこそこ通史的な役割は果たせそうですから。
あわせて、改めて『通鑑』を著した司馬光ってバケモノだなあと思いました。歴史を身近にするには、たしかに優れた方法の一つですし、現実に盛大に恩恵を受けていますから。
なので、浮気はせずに大部の通俗小説の翻訳を優先します。正史の翻訳は。。。誰か頑張って下さい。