「捕食者系魔法少女」第1巻発売を記念して短編を公開します。
内容は「東芙花から見た姉」を描いた短編、時系列は「残響」と「逐鹿」の間になります。
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東芙花には、東蓮花という姉がいる。
単身赴任の父と行方不明の母に代わって面倒を見てくれている。
誰に対しても優しく、芙花の知らない様々なことを知っている6歳上の姉。
憧れの存在であり、自慢の姉だ。
「東の姉ちゃん、すごいな」
「なんでも知ってますね……」
浅い水底のような青が残る夕刻の空に、少年たちの声が溶けていく。
その声には興奮と尊敬が入り混じっていた。
「ふふっ…そうでしょ!」
それを聞き、満足げに頷いた芙花は傍らの姉を見上げる。
公園を吹き抜ける初夏の風が黒髪を揺らす。
本人曰く恥ずかしくない程度に整えたロングヘアは、今日も艶やかで綺麗だった。
「なんでもは知らないよ」
困ったように笑う姉の横顔は、近所の大学生よりも大人びて見える。
ただ感情を表に出すわけではなく、一度冷ましてから色を加えたような──上手く言葉にできない。
そこに歯痒さを覚える芙花。
多様な言葉を知っている姉のようになりたい、そう思う。
「名前の由来、初めて知りました…」
芙花の親友にして耳年増な女子、本田咲が感嘆の声を漏らす。
昆虫が得意ではない彼女も姉の話に聞き入っていた。
その視線の先、公園の地面には達筆な字で深山髪切、そして天牛と書かれている。
カミキリムシの名前に関する解説の跡だ。
「あくまで一説だから注意してね」
そう言って姉は手に持っていた木の枝を男子に手渡す。
枝の上には、男子の捕まえたカミキリムシ──ミヤマカミキリ──が大人しく乗っている。
犬や猫には激しく威嚇されるが、虫だけは従順に従う。
姉の不思議な才の一つだった。
「…せっかく4人で遊んでたのに、邪魔してごめんね」
後ろ手に鞄を持ち、一歩下がる姉のスカートが風に揺れる。
公園に立ち寄った学校帰りの姉を引き留めたのは芙花たちだ。
邪魔など微塵も思っていない。
だが、人の輪を乱すことを嫌う姉は一定の距離を取る。
「そんなことないって!」
「そ、そうですよっ」
少年少女の言葉が嘘偽りない本心であっても遠慮してしまう。
それを経験則で知っている芙花は、別の方法で引き留める。
これから家事がある姉にとっては好迷惑──しかし、この機会を逃すわけにはいかない。
姉は滅多に外出せず、家事と勉強、読書に時間を費やす。
芙花が望めば、それらを置いて付き合ってくれるだろう。
しかし、我儘を言って困らせる妹になりたくなかった。
「姉ちゃん、あれは?」
そんな卑怯で、臆病な己を胸の奥底に押し込んで、芙花は純朴そうに振舞う。
指差した方角には、夕日の朱で染め上げられた池。
公園中央に築造された人工池だ。
「どれ?」
「ほら、あそこ!」
黒髪を耳にかけ、芙花と視線の高さを合わせる姉。
人工池の上から木製のベンチに降り立った昆虫を捉える。
細められる黒い瞳──そこに理知の光が宿る。
自身の蓄えてきた知識と向き合い、解を導き出す。
一切の妥協がない真剣な横顔は、その道のプロフェッショナルのようだった。
「ギンヤンマのオス、かな」
決して断定しないが、昆虫に関して外したことはなかった。
外見や体長だけでなく、季節や気候、生息地などの多角的な視点から判断している。
姉は、ただ昆虫に造詣のある学生ではない。
「オスまで分かるの?」
「どうやって見分けてるんですか?」
同じ疑問を抱いた男子、文学少年の菅野亮太と共に問いかける。
都市部で育ってきた子どもにとって触れ合う機会の少ない昆虫とは未知の領域だ。
姉は口元に手を当て、しばし黙考。
「分かりやすいのは、翅の付け根……お腹の部分が水色になっているの」
ベンチから飛び立ったギンヤンマの影を細い指先が追う。
芙花たちは目を凝らして見つめるが──
「分からねぇ」
「うん」
飛翔するギンヤンマから水色を見出すことは難しい。
静止と急加速を繰り返し、夕日を反射する水面を俊敏に飛び回る。
「そろそろ翅を休めるはずだから……ほら、見て」
眉間に皺を寄せていた同級生の松岡大成。
その肩に右手を置き、少し屈んだ姉は声を潜めて観察を促す。
無意識だ──他意はない。
されど、免疫のないスポーツ少年は落ち着きを失い、視線を右往左往させる。
「あ、あの…!」
観察どころではなかった。
脱兎のごとく逃げ出した松岡に、目を丸くする姉。
「その…えっと……」
同級生が相手であれば、照れ隠しの暴言が飛び出していただろう。
しかし、スポーツ少年は次の言葉を紡げずにいた。
「あ、ごめんね」
空いた右手を見てから自身の行動に思い至った姉は謝罪を口にする。
それから気恥ずかしそうに視線を逸らす。
先程までの理知的な雰囲気と打って変わり、女子であると強く認識させられる。
姉は顔に出やすい。
「…捕まえれば、ゆっくり観察できますよ」
人工池の方角を見つめて呟く菅野。
我関せずという体だが、頻りに姉の横顔を窺っていた。
「でも、虫あみを持ってないよ?」
「ゆっくりと近づけば、素手でも捕まえることができます」
芙花に問いかけられた菅野は得意げに眼鏡のブリッジを上げる。
年頃の男子とは、女子の前で見栄を張りたがるものだ。
その心意が読めた芙花と本田は半眼となる。
「本当に?」
「本当ですっ…そう、書いてありましたから……」
女子2人の訝しげな視線に対し、菅野の歯切れは悪い。
実際に試したことはないと芙花は確信していた。
菅野は知識を得た時点で満足してしまう男子だった。
「トンボは人間よりも時間の流れを速く感じ取れるの」
苦境に立たされた文学少年を見兼ねた姉が助け舟を出す。
「だから、どれだけ私たちが速く動いてもスローモーションみたいに見える」
「へぇ…!」
「超能力みたいです」
小学生でも理解しやすいよう専門用語は使わない。
そんな細やかな気配りの出来る姉は、先生に向いていると芙花は常々思う。
「ゆっくり動けば、動いてないように見える…?」
「その通り」
得た知識への理解を深める文学少年に頷きを返す姉。
口元を微かに綻ばせ、穏やかな笑みを湛える。
「そんな原理だったとは……知りませんでした」
年長者が相手でも素直に首を縦に振らない菅野が、大人しく無知を認めた。
本田と顔を見合わせた芙花は小さく頷き合う。
恐るべき姉だと。
「よし、さっそく試してみようぜ!」
「やりましょう」
競い合うように並び立った男子2人の影が地面に伸びる。
その動機は明白だが、ギンヤンマの捕獲には芙花も興味があった。
自慢の姉に活躍を見てもらう貴重な機会でもある。
「それは、また明日かな」
しかし、参戦表明は中断を余儀なくされた。
姉が指差した方向には公園の時計塔。
時刻は、外出禁止のサイレンが鳴る1時間前だった。
「大丈夫、きっと明日もギンヤンマはいるはずだから」
「でも、明日は……」
間違いなく姉はいないだろう。
芙花たちにとって誰と遊ぶかが重要だった。
しかし、人工池の水面を眺める姉へ声をかけることができない。
「あ……」
松岡の持っていた木の枝からミヤマカミキリが飛び去っていく。
植栽へ降り立つ影を見送り、黒い瞳が芙花たちを映す。
そして──
「嫌じゃなかったら、私も付き合うよ」
その申し出を断る理由などない。
夕刻の公園に喜びの声が弾けた。
「よっしゃ!」
「明日は友達も呼んでもいいですか?」
「虫以外についても教えてほしいです!」
目を輝かせる小学生に囲まれ、次々と質問を投げかけられる。
思わぬ反応が返ってきたことに困惑する姉。
姉は、自身の魅力に対して無自覚だ。
「また明日!」
「さようなら」
「さようなら、芙花ちゃんとお姉さん!」
ランドセルを背負った同級生たちは、手を振りながら駆けていく。
明日を待ち望む少年少女の足取りは軽い。
「うん、また明日ね!」
「気を付けて帰ってね」
公園の出入口で去っていく背中を見送り、それから帰路に着く。
空を朱に染める夕日を東から夜が追いかけている。
アスファルトに伸びる姉妹の影が黒を増す。
姉と一緒に歩けば、見慣れた通学路も特別なものに思えた。
「姉ちゃん」
「なに?」
車道側を歩く姉は首を小さく傾げ、芙花を見遣る。
これから姉は家事に取り掛かり、授業の課題や予習に取り組むのだろう。
「どうかした?」
「その……」
それを思い出した瞬間、罪悪感が襲ってきたのだ。
明日も付き合わせるのか、と。
姉のような思慮深さがない自身に嫌気が差す。
様々な言葉が胸中に浮かんでは消え──
「ありがとう」
感謝の言葉だけが残った。
純粋な善意で付き合ってくれている姉に送るべき言葉は、謝罪ではない。
そう思ったのだ。
「どういたしまして」
穏やかに、少しだけ寂しそうに微笑む姉。
芙花が言葉を飲み込んだことに気付いているが、それを無理に引き出そうとはしなかった。
自ら話したいと思うまで待つ。
姉は、夜のように静かな優しさを持つ人だった。
「芙花」
押ボタン式信号機のある横断歩道を前に、姉は足を止める。
その声色は、普段通りのものだ。
「何か飲まなくて大丈夫?」
姉に言われて、芙花は喉が渇いていることに気が付く。
男子に交じってミヤマカミキリの捕獲に奔走していた時は夢中で気が付かなかった。
「えっと…全部、飲んじゃった」
しかし、ランドセルに入れたボトルの中身は空だ。
学校でも活発に動き回る芙花は水分補給を欠かさない。
それが裏目に出てしまった。
「少し待ってて」
その回答を予想していた姉は口元を緩める。
手に提げた鞄を開け、質素なボトルを取り出す。
「ありがと──」
手を伸ばす芙花は、鞄の中に隠された小綺麗な手紙を捉える。
似たような手紙を受け取ったことがある。
だからこそ、直感的に理解した。
「姉ちゃん、それ」
ラブレターだ。
「……どうしたの?」
鞄を静かに閉じ、あくまで平静を装う姉。
しかし、その口元は微かに引き攣っている。
姉が学校でも人気者だと信じて疑わない妹は、それを照れ隠しと認識した。
そして、耳年増な親友から教わった言葉を唱える──
「やっぱり魔性の女だね」
姉は石像のように固まった。
◆
就寝前、私は勉強机と向かい合っていた。
テーブルライトに照らされた机上に手紙を置く。
小綺麗な白色、縦書き──フォーマルな手紙は文字で埋まっていた。
力の入った筆跡から記入者が如何に真剣であったか一目で分かる。
無意識のうちに溜息が漏れていた。
〈東さん〉
「どうした?」
ペンケースの上で前脚を振るハエトリグモ、もといパートナーを見遣る。
〈苦虫を噛み潰したような顔になっていますよ〉
「…そうか」
そこまで苦悶の表情を浮かべていたか。
しかし、この手紙の内容には、それだけの効果があった。
〈お手紙の内容……そこまで悩むものなのですか?〉
許可がなければプライベートに踏み込まないパートナーは、手紙の内容を確認していない。
人によっては喜ばしいもの──私にとっては悩ましいものだ。
他者へ読ませることに罪悪感はあるが、今は意見が欲しい。
ペンケースの前に手紙を置き、頭を傾げるパートナーへ頷く。
〈では、失礼して〉
鋏角を擦り合わせ、文字を眼で追うハエトリグモ。
パートナーは速読なため、そう時間は掛からない。
〈こ、これは…!〉
読み終えたパートナーは、心なしか弾んだ声を出す。
逆に私の気分は沈んでいく。
〈ラブレターですね!〉
「……そうだな」
改めて言葉にされると天を仰ぎたくなった。
送り主が真剣に思い悩んだ文面は青春を感じさせる。
しかし、傍観者気取りに笑っていられない──当事者は私だ。
私よりも魅力的な女子はいるだろうに、なぜだ?
〈まさか友達より先に恋人が──〉
「付き合うつもりはない」
これを手渡してきたクラスメイトが嫌いなわけではない。
クラスメイトである以外に何も知らないだけだ。
〈付き合ってみないと始まりませんよ…?〉
「興味がない」
〈むぅ……〉
付き合ってみれば何か変わるのかもしれない。
だが、そんな浅慮な気持ちで向き合うのは、相手に対して不誠実だ。
〈…この文面を見るに先日の一件は関係ないようですね〉
先日の一件とは、中庭で発生したバタフライファーム事件だ。
以来、クラスメイトから話しかけられる頻度は増えたが──
「あれで告白しようと考える人間がいると思うか?」
向けられる視線は好奇が過半数を占めていた。
私は間違いなく奇人変人の類で認知されている。
虫姫という反応に困る渾名が、その象徴だ。
〈み、ミステリアスも魅力の一つかと〉
手紙に書かれていた単語を抜き出すパートナーへ胡乱げな視線を向ける。
ミステリアスとは、不可思議、神秘的な様を表す。
色鮮やかなバタフライファームの中、一人佇む少女──なるほど、神秘的か。
それが私でなければ、魅力的に映るかもしれない。
「…理解できん」
前世の私であれば、送り主の想いが理解できたのか。
いや、どうでもいいな。
〈東さんの魅力は言語化が難しいですね……〉
前脚で頭を撫でながら唸るハエトリグモに、脱力感を覚える。
そんなことで悩むな。
ふと、脳裏を過る──魔性の女という言葉が。
そう評されるのは二度目だが、芙花は私の何を見ていたのだろう?
いつも表情が硬く、長い黒髪以外に特筆すべき個性はない。
あえて言うなら、コミュニケーション能力に難あり。
ファム・ファタールからは程遠い。
〈やはり、魔性の──あふっ〉
問答無用でパートナーの腹部を小突き、ペンケースを開ける。
今、必要なものは紙とペン。
断るにしても恋文への返事は、やはり手紙であるべきだ。
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