沿え付きの、ハーブ
生え抜きな、ショート
寿な、ゲーテ
些かな、ブーツ
‥‥‥
結構序盤から関係なくなっちゃった!
‥‥‥
はい、ハラ〇チから朝一、スタートしました
フと、なんでホラーが難しいかと言われているのかを
徐な、ヤーツ
で考えてみたのですが、昔って語りや怪談で怖さを表現していて、具体的なビジョンってのがそもそも無かったんですよね。
多くの情報は自分の脳内にある創造で想像するしかなく、大半が個々の勝手な最恐をイメージしてもらい、恐怖に慄くんだと思います。
この辺、自分も極力意識していて、出来るだけ読んで頂けた方独自の想像を膨らませるような所までで表現を抑えるようにしています✌
ただ、最近で言うと動画でも映画でも画質も良くなり、「あやふやさ」が鮮明になり脳内イメージも鮮明にしなきゃいけない風潮が支配的となってきているのではないか、と、フと思ったのです。
例えば
「打撃、斬撃を受けた」「ナイフで襲われた」
という情報があったとして、鮮血しているかどうかを説明するべきかしないでおくか
みたいな
超、分かり易く言うと、ですよ(≧▽≦)
読む力として、補整イメージを自己で解決していくのか、全てを委ねているのかも、「他人軸」か「自分軸」かのように普段の上記のような習慣により異なる気がしてます。
要は
TVゲームのようにレールを全て敷かれた上でしか楽しめない「他人軸」
一人旅のように行き当たりばったりな環境を一人で楽しめる様な「自分軸」
この二つで言えば「他人軸」が多くなってきていて
そして鮮明な「絵」や「音」で恐怖を演出してきている現代の環境
この要素にて
「他人軸」「映像や音の『一次情報』」
というのは、非常に個体差、個人差が生まれてきていて、そこに万人性が乏しくなっている。
この部分が難しい、ということなんだなぁと、しみじみ思ふ、ホトトギス
鳴かぬならの、ギース🐧