天《てん》の気分
一、灰色の十年
「えぇー、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いを一席……。
高いところから失礼をいたします。いや、物理的にこれ以上高いところ(高座)もございませんが」
嵐山《らんざん》は扇子で、凍りついた東京の街並みを指した。
余裕だ。足元で特務課員が雷撃に吹き飛ばされているというのに、彼はまるで寄席の演芸場にいるかのように語り出す。
「世の中には『怖いもの』というのがあふれております。
嫌いなもの、苦手なもの。人それぞれでございますな。
『あたくしはヘビが駄目です、あのニョロニョロを見るだけで鳥肌が立つ』とか。
『いやいや、俺は毛虫が駄目だ』『俺は高所恐怖症だ』なんてね」
彼の耳には、満座の観衆の姿と、賑やかな出囃子の音色が確かに聞こえていた。
◇
世界が灰色に塗り込められてから、もう十年が経つという。
かつて人々が「空」と呼んだ場所は、今や分厚い鉛の板のような雲に閉ざされ、地上は終わらない氷河期に沈んでいる。
全ての始まりは、二〇四五年にケンブリッジ大学から発表された論文だった。『古代儀式における音響共鳴と大気干渉の相関』。
かつての雨乞いは、神への祈りではない。特定周波数の「歌」や「語り」で大気中のナノ粒子を共振させ、地球の大気圏知性体――通称<天>の機嫌をとるための、物理的な干渉手段《エンターテインメント》だったのだ。
人類には観測不能だったそれは、進化したAIによって、その存在を確認された。
人類は歓喜した。これぞ「気象制御の黄金時代」の幕開けであると。
世界各国は直ちに「芸能特務局」を設立。
ニューヨークではスタンドアップ・コメディアンがハリケーンをジョークで散らし、ロンドンでは風刺作家がブリザードを皮肉で鎮め、そして東京では――「噺家《はなしか》」が高座に上がった。
芸で天の気分《き》を読み、操る者たち。
人々は言語やジャンルを超えて、彼らを畏敬の念と共にこう呼んだ。
――『天気《てんき》』、と。
だが、その黄金時代は、人類の奢《おご》りによって崩れ去った。
効率至上主義が生み出した「対気象用生成AI」の、魂のない完璧すぎる芸に、<天>は絶望し、心を閉ざした。
それが、十年前に始まった「大鬱《だいうつ》」だ。
以来、太陽は物語の中だけの存在となった。
かつて新宿と呼ばれた場所は、今や地下四階まで水没した巨大なドブ川だ。
その湿った暗闇の片隅、廃棄された地下鉄車両の中に、肉塊のようなものが転がっていた。
三遊亭嵐山《さんゆうてい・らんざん》。
かつて扇子一本でスーパーセルを消滅させ、日本最強の『天気』と謳われた噺家のなれの果てだ。
今の彼に、往年の面影はない。
油と埃で固まった白髪は雑巾のように縮れ、痩せこけた頬を髭が覆っている。
だが、何より異様なのは、その喉元に食い込む無骨な黒い金属の輪――『発声制御首輪《リミッター》』だった。
彼が咳払い一つすれば、局地的な乱気流が発生する。十年前、彼はその鋭すぎる芸で空を暴走させ、都市一つを壊滅させた。
ゆえに、声を奪われた。英雄から、大量殺人犯へ。
人々は彼を『天気』ではなく、『天災《てんさい》』と呼んで蔑んだ。
「……三遊亭。起きているか」
車両のドアを叩く音がする。気象庁特務課の工藤だ。
その声は、悲鳴のように震えていた。
「頼む、ドアを開けてくれ。今日の正午、シカゴの伝説的コメディアン、ボブ・ミラーがやられた。成層圏で、雷に打たれて黒焦げだそうだ」
嵐山は、震える手で一升瓶を抱きしめたまま、うずくまっていた。
ボブか。あの陽気な男も死んだか。
今の<天>は、もう誰の声も届かない狂気の中にいる。
「これで最後だ。パリのパントマイムも、中国の京劇役者も、全員空の藻屑になった。……残っているのは、世界でお前一人だけだ」
「……帰れ」
嵐山は、錆びついた鉄のような声で呻いた。首輪がジジと警告音を立てる。
「俺は人殺しだ。これ以上、何を殺させたいんだ」
二、十年遅れのファンレター
「……郵便だ」
工藤は諦めず、ドア越しに言った。
「AIが、配送不可データの深層から発掘した。差出人は『相田陽菜《あいだ・ひな》』。……あんたの、娘さんだ」
嵐山の心臓が、早鐘を打った。
陽菜。十年前に絶縁した、一人娘。
家庭を顧みず、落語に狂った俺を憎んで出て行ったあの子が、なぜ。
ガチャリ、と鍵が開く。
隙間から突き出された泥だらけの手が、封筒をひったくった。
消印の日付は、十年前。あの大災害の日だ。
封筒の裏には、拙い文字でこう書き添えられていた。
『代筆:さくら《7さい》』
……さくら?
聞いたことのない名前だ。俺に、孫がいたのか。
震える指で封を切る。中から出てきたのは、画用紙の切れ端だった。
『てんきのおじいちゃんへ。
はじめまして。さくらです。
ママは、おじいちゃんのことがキライだっていいます。
テレビにおじいちゃんがうつると、すぐにけします。
「あの人は、かぞくをすてて、空にこいをしたのよ」って言います』
嵐山の胸に、鈍い痛みが走る。
当然だ。俺は妻の死に目にも会わず、高座に上がっていた。娘に恨まれて当たり前だ。
『でもね、わたしはこっそり、おじいちゃんの落語のデータをききました。
“死神”のおはなし、すごくおもしろかった。
おじいちゃんのこえをきくと、雷さんがなっても、こわくなかったよ。
だから、わたしは、おじいちゃんのことがすきです』
視界が滲む。画用紙に落ちた涙が、十年前のクレヨンの青を溶かしていく。
俺を否定し続けた娘の、その子供が。
俺の血を引く孫だけが、世界で唯一、俺の芸を認めてくれていたのか。
『きょう、すごく寒いよ。ママがないてるの。
おじいちゃんは、空とおはなしできるんでしょう?
おねがい。空になかないでって言って。
ママをたすけて。
さくらより』
嵐山は、獣のような嗚咽を漏らした。
俺は何をしていたんだ。
世界を救うだの、名声だのと浮かれて。一番近くにいた家族を不幸にし、そして最後には、その孫の祈りさえも、俺自身の芸《暴走》で踏みにじったのか。
ドンッ!!
車両のドアが、内側から蹴り開けられた。
工藤が驚いて飛び退く。
「……工藤。この『さくら』という子は、そこにいるのか」
嵐山が、地を這うような声で尋ねた。
薄汚れた前髪の隙間から、ギラついた眼光が工藤を射抜く。
「あ、ああ。第9居住区だ。母親である陽菜さんは……残念ながら、10年前の寒波で亡くなっている。さくらさんは、一人で生き延びた。今は17歳になっているはずだ」
「生きているんだな」
「だが、時間の問題だ。あと48時間で寒波が直撃すれば、シェルターごと凍結する」
嵐山は、孫の手紙を懐ではなく、帯の間にキツくねじ込んだ。
それは、腹を切る覚悟のようにも見えた。
「用意しろ。……スカイツリーだ」
「え?」
「成層圏《あんなとこ》じゃ遠すぎる。客の目の前まで行ってやる。
スカイツリーのてっぺんを空けろ」
嵐山は歪に笑った。
それは英雄の笑みではない。業《ごう》を背負った修羅の笑みだ。
「死んだ娘には詫びようがねえ。地獄で土下座するしかねえ。
……だが、孫《さくら》だけは。
あいつの明日だけは、俺の命に代えても晴れさせてやる」
三、東京の墓標
出発の1時間前。嵐山は身支度を整えた。
伸び放題だった髭を剃り落とす。カミソリが走るたび、やつれてはいるが、彫刻のように鋭い顎のラインが露わになる。
ボサボサの白髪は椿油で撫で付けられ、髷《まげ》こそ結っていないが、美しい銀の流線を描いて背後に流された。
そして、作業着を脱ぎ捨て、袖を通したのは――
カビ臭いロッカーに十年間封印していた『黒紋付』だ。
背中と両袖に染め抜かれた「三つ組橘」の紋が、薄暗い部屋で白く浮き上がる。
そこにいたのは、薄汚れた浮浪者ではなかった。
三遊亭嵐山。
背筋を剣のように伸ばし、青白い鬼火のような瞳を宿した、伝説の噺家の姿だった。
凍りついた東京の墓標、東京スカイツリー。
特別仕様の雪上エレベーターが、軋んだ音を立てて最上階へ到達した。
扉が開いた瞬間、鼓膜を破るような轟音が襲いかかった。
ゴオォォォォォォ!!
地上634メートル。そこは、人間が存在してはいけない領域だった。
秒速50メートルの暴風雪。気温はマイナス60度。手すりはねじ曲がり、床は鏡のように凍結している。
その屋上の中心に、緋色の座布団が一枚、ボルトで固定されていた。
「……ひでえ会場だ。客席《空》が近すぎる」
三遊亭嵐山は、黒紋付の襟を合わせながら呟いた。
強風で体が吹き飛ばされそうになる。だが、彼は一歩も退かない。帯にねじ込んだ孫の手紙が、彼の重石《アンカー》だった。
隣に立つ工藤が、部下たちに絶叫した。
「展開しろ!! 円陣隊形! 嵐山師匠を中心防衛だ!!」
5人の特務課員たちが、嵐山を取り囲むように展開する。
彼らが構えたのは、武骨なジェラルミンケースのような装置――『携帯型・対雷撃偏向シールド』だ。
本来、軍事施設を守るための装置を、彼らは生身で背負っていた。
「いいか三遊亭!」
工藤がゴーグル越しに怒鳴る。
「あんたは前だけ見てろ! 風も、雪も、雷も、全部俺たちが止める!
あんたの噺《はなし》を、一言だって風の音に邪魔はさせねえ!!」
嵐山はニヤリと笑った。
10年前、自分を犯罪者として追い回した男たちが、今は盾になろうとしている。
悪くない。
「へっ、とんだ大名商売だ。……なら、特等席で聞いてな!」
嵐山は座布団に座った。
頭上数メートル。そこには、世界を絶望させている鉛色の雲の腹が、どす黒く渦巻いている。
四、決死の高座
パァンッ!!
嵐山が扇子を鳴らした。
暴風の音が、一瞬だけ遠のく。音響共鳴が始まったのだ。
「えぇー、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いを一席……」
嵐山が語り出す。演目は『太陽怖い』。
だが、<天>は即座に敵意を剥き出しにした。
《また人間か。懲りないことだ》
嵐山の耳には声が聞こえる。
天の声が。
雲海が紫色に発光する。雷の予兆だ。
「来るぞッ!!」
工藤が叫ぶ。
ドガァァァァァァァンッ!!!
太さ1メートル近い雷撃が、嵐山の脳天めがけて直撃する――寸前。
工藤たちが展開した見えない傘《シールド》が、プラズマを弾いた。
バチバチバチッ!!
衝撃で隊員の一人が吹き飛び、フェンスに叩きつけられる。
「ぐあっ……!」
「構うな! 陣形を維持しろ!」
火花が散る中、嵐山は眉一つ動かさない。
目の前で人が吹っ飛ぼうが、雷が落ちようが、今の彼は「噺家」だ。高座の上では、噺以外の現実は存在しない。
「……で、お前さんは何が怖いんだい? ヘビか? クモか?」
「俺ァそんな可愛いもんは怖かねえ。……俺が怖いのはな」
嵐山は空を睨みつけた。
その視線だけで、渦巻く雲を射抜く。
「俺は、『お天道様《太陽》』が怖くて怖くてたまらねえんだ!!」
ピタリ、と風が止む。
<天>が困惑した。
《……は?》
周りの人間にもそんな声が聞こえるような気がしていた。
いや、だが嵐山の耳にだけは、その声が明確に聞こえている。
《太陽が、怖い?》
戸惑ったような声。
その隙を、嵐山は見逃さない。
彼は立ち上がり、空に向かって大袈裟に震えてみせた。
「あの光! あれを浴びると目が潰れる! 肌が焼ける!
頼む、絶対にここを開けるなよ!
間違っても、雲の隙間から『日差し』なんてモンを、俺にぶっかけるんじゃねえぞ!?」
――挑発。
ひねくれ者の<天>にとって、これ以上の煽りはない。
ゴゴゴゴゴゴ……!!
雲が激怒する。
《生意気な。そんなに嫌なら、浴びせてやる!》
バリバリバリバリッ!!
怒りの雷撃が、雨あられと降り注ぐ。
それは狙い澄ました砲撃のように、守り手を襲った。
「ぐああああッ!」
二人目の隊員がシールドごと黒焦げになり、倒れる。
三人目、四人目。
シールドのバッテリーが爆発し、工藤の左腕が焼け焦げる。
「課長! もう限界です!」
「耐えろ! まだ噺の途中だ!!」
工藤は血を吐きながら、片腕で嵐山の頭上にシールドをかざし続けた。
その背中を見て、嵐山は腹の底から声を張り上げた。
命を賭けて舞台を作ってくれる裏方《スタッフ》がいる。
なら、主役《おれ》がトチるわけにはいかねえだろう!
「うわあああ! やめてくれ!
太陽だけは! 直射日光だけは勘弁してくれぇぇぇ!!」
嵐山はここぞとばかりに声を張った!
五、太陽と、命のオチ
嵐山の絶叫演技に、<天>のサディズムが頂点に達した。
カッ!!!!
雲が裂けた。
ほんの隙間ではない。空が、自らその腹を割いたのだ。
そこから放たれたのは、十年分のエネルギーを凝縮した、純度100%の太陽光ビームだった。
それは、嵐山を守っていた工藤のシールドさえも貫通した。
「がはっ……!」
工藤が吹き飛ばされ、嵐山は無防備になる。
――直撃。
黄金の奔流が、嵐山を飲み込んだ。
熱い。熱いなんてもんじゃない。全身の水分が一瞬で沸騰するような激痛。
だが、嵐山は倒れない。
光の中で、皮膚が焼け、髪が燃えながらも、彼は座布団の上で仁王立ちになっていた。
彼は、光の彼方で呆気にとられている<天>に向かって、ニカっと笑った。
焼け爛れた顔で。けれど、世界で一番晴れやかな顔で。
「……ひぃーっ、怖い怖い!
こんなにたくさんの太陽を見せられて、俺ァ震えが止まらねえや!」
嵐山は、燃え尽きる寸前の扇子を閉じ、パンッ! と膝を叩いた。
「ああ、怖かった……。
お天道様をこんなに浴びちまったら、喉が渇いてしょうがねえ」
彼は、黒焦げに倒れた工藤たち、そして地上のシェルターで震える孫娘に、最後のウィンクを投げた。
「今度は、一杯の『お茶《雨》』が怖いや」
パァァァァァァァンッ!!!!
扇子の音が響き渡り、オチがついた。
<天>が、満足げに笑おうとした、その瞬間だ。
消えゆく嵐山の目が、ギロリと空を睨みつけた。
「……おい、天!!!」
それは芸人の声ではなかった。
一人の人間としての、血を吐くような咆哮だった。
「笑ったな? 満足したな!?
だったらもう、二度と人間に愛想なんて振りまくんじゃねえ!!」
<天>がビクリと震えた。
嵐山は、空に向かって指を突き立てた。
「俺たちはテメェの玩具じゃねえ!
機嫌ひとつで凍らせたり、笑ったり……そんな甘ったれた関係は、俺《ここ》で終いだ!
この『三遊亭嵐山』という極上のネタを最後に、二度と人間に期待なんざするな!!」
嵐山の体が、光の粒子となって崩れていく。
だが、その怒号だけは雷鳴よりも強く、大気圏のコアへ突き刺さる。
「ただの風に戻れ! ただの雲に戻れ!
誰の声も聞くな! 誰の顔色も窺うな!
あるがままに晴れて、あるがままに降らせろ!
……あばよ!! 達者でな!!」
六、出囃子
その一喝が、世界を変えた。
嵐山の消滅と同時に、空から「意思」の気配が霧散したのだ。
まるで、憑き物が落ちたように。
光が、世界を満たした。
雲海が連鎖的に崩壊し、青空が爆発的に広がっていく。
スカイツリーを覆っていた氷が、宝石のように砕け散り、降り注ぐ。
工藤は、薄れゆく意識の中で空を見上げた。
眩しい。目が潰れるほど眩しい太陽。
そこに、もう<天>の気配はない。
ただの、物理現象としての美しい青空があるだけだった。
その光の中に、座布団が一枚。
その主は、凜と背筋を伸ばし、焼け焦げた紋付き袴を纏ったまま正座していた。
もう、その身体に命の気配はない。
「三遊亭師匠……」
工藤は呟き、嵐山に近寄る。
その死に顔は穏やかな笑みを浮かべていた。
生涯最高の寄席を演じることが出来たという、満足の笑みだった。
「ありがとう……嵐山」
工藤の呟きに合わせるかのように、ヒョウと風が吹いた。
燃え尽きた扇子の骨組みだけが、風に飛ばされていく。
まるで、天へ昇る龍のように。
地上。第9居住区。
通気口から差し込む強烈な光に、さくらが目を細める。
暖房が止まっていたシェルターの気温が、ぐんぐんと上がっていく。
人々が泣きながら抱き合う中、さくらは一人、モニターに映るスカイツリーの頂上を見つめていた。
そこにはもう誰もいない。
けれど、彼女には聞こえた。
風の音に混じって、楽しげな三味線の音が。
「……お爺ちゃん。上手だね」
さくらは涙を拭い、太陽に向かって拍手を送った。
それは、世界を救い、そして世界を「普通」に戻した大名人への、最初で最後のカーテンコールだった。
彼女の目には見えていた。
あの青空の向こう、陽炎のように揺らぐ高座の上で、黒紋付の男がニカっと笑って頭を下げている姿が。
「へっ、お後がよろしいようで」という、照れくさそうな声が。
風が吹いた。
どこからともなく、三味線の音が聞こえてくる。
それは世界で一番陽気で、けれどどこか切ない、伝説の『天気』の出囃子だった。
それから、半年が過ぎた。
世界は劇的に、そして静かに変わった。
スカイツリーの頂上から放たれた太陽光が氷河を溶かし、地球に四季が戻ってきたことは、ほんの序章に過ぎなかった。
最も大きな変化は、<天>が沈黙したことだ。
あの日以来、気象庁の観測モニターから「大気圏知性体の脳波」を示す波形が消失した。
どんなに凄腕のコメディアンが空に向かってジョークを飛ばしても、どれほど精巧なAIが最適化された音波を送っても、空はピクリとも反応しなくなった。
雲はただ風に乗って流れ、気圧は物理法則に従って上下するだけ。
科学者たちは頭を抱えたが、特務課の工藤だけは、その理由をなんとなく理解していた。
あの男が――最後の『天気』が、あまりにも完璧な「オチ」をつけてしまったからだ。
最高の笑いで空を満足させ、そして「もう構うな」とばかりに、幕を下ろして逝ったのだ。
人類は再び、天候をコントロールする術を失った。
台風が来れば備え、日照りが続けば雨を願う。そんな、不便で当たり前の時代が帰ってきた。
東京、第9居住区跡地。
復興が進む街角を、さくらは歩いていた。
ポツリ、と頬に冷たいものが当たる。
見上げると、灰色の雲から雨粒が落ちてきていた。
周囲の人々が、慌てて鞄から折り畳み傘を取り出す。
「あーあ、予報外れだよ」
「まったく、今日の天気は気まぐれだなあ」
誰かが愚痴をこぼす。
かつてなら、「芸人を呼べ!」と怒声が飛んだ場面だ。
けれど今は、誰も空に文句を言わない。ただ諦めて、傘をさすだけ。
さくらは傘を持っていなかった。
濡れるに任せて、空を見上げる。
それは、怒りでも悲しみでもない、ただの水滴。
冷たくて、どこか優しい、天然の雨。
「……あーあ」
さくらは、濡れた髪をかき上げながら、悪戯っぽく空にウィンクした。
あの日、スカイツリーのてっぺんで、大好きなお爺ちゃんがしたように。
「お天道様をたくさん浴びたから、一杯の『お茶《雨》』が怖いや」
彼女の呟きに応えるように、雨脚が少しだけ強くなった気がした。
もちろん、気のせいだ。空にもう心はない。
あるのは、美しく、ままならない自然だけ。
「お後が宜しいようで!」
さくらは弾むように笑って、雨の中を駆け出した。
世界は元の姿を取り戻した。
もう『天気』と呼ばれる英雄はいらない。
ただ、移ろう空と、生きていく人間がいる。
それだけで十分だった。
《完》