———この世界は、無関心に満ち溢れている。
リンは、自らに向かってくる手の平から目を背けた。
リンの頬に、衝撃が走った。
鋭く、そしてゆっくりと、痛みが広がっていく。
「痛いっ!」
あまりの痛さに叫んでしまった。更に手の平が飛んでくる。
「うるさい!この役に立たない糞餓鬼が、黙れ!!」
女は暴言を喚き散らし、リンに腕を振るった。
激しい痛みも、耐えるしか無い。
そして、女は飽きたように静まると、言った。
「あーひどい。楽しい事も全く無いし、最低だわ」
無関心の目で、リンを見た。
「カーボ、お前もだよ。飯ぐらい用意しとけよ!」
リンの隣にいるのは、弟のカーボ。
カーボに向かって、女は怒鳴った。
「どっかから貰って来る事も出来ないのかよ!」
”飯”とは、この女が食べる分の事だ。
そんな事までして、この女に何かを与えたくなかった。
ここは、世界で最も大きい王国「デアス王国」の王城周辺———その裏路地にあるスラム街。
社会の輪に入れず、残飯を漁る底辺の巣。
これまでの人生に意味を持たない大人と、半ば捨てられていると言ってもいい子供の集まり。
それは、リンとカーボ、そしてその二人の母にも言えることだった。
(いつか、生きていれば救われる)
でも、リンは絶望することなく、思い出していた。
自分に優しくしてくれる、本屋のおばさんが薦めてくれた本。
その一言だけが心の支えだった。
「姉ちゃん、ごめん」
弟のカーボが、リンに向かって小さく呟く声が聞こえた。
「姉ちゃんだけ、叩かれるなんて」
弟は涙を零していた。
「気にしないで。だって、私はカーボのお姉ちゃんなんだから」
リンは笑って、そう言う。
その言葉は、実際のところは全部嘘っぱち。
”どうでもいい”と考えていただけだったのだが。
夜が明けた。
リンの朝は早い。
それは、今から行く所を親に知られたくないから。
足音を立てぬようゆっくりと足を動かし、寝床から脱出する。
リンは、本屋の前に立っていた。
少女に吹きかかる寒い風。
薄暗い大通りに立ち並ぶ店々に、その本屋も佇んでいた。
リンは、扉をコンコンと叩く。
「……ちょいと待ちな~」
寝起きといったような声が聞こえ、その後に、扉が開いた。
「リンちゃん、実は昨日すごく珍しい本が入ったのよ」
カウンターに座って、本屋の主人が言った。
こんな時間には誰も来るわけがない本屋。
そこでリンは本を読ませてもらっている。
「なに、この本」
リンは尋ねた。
「魔導書って言うらしいの。
魔法を覚えるのに必要らしいわよ」
それは、非常に珍しい本だった。
普通の人でも知らぬことがあるのだから、社会から弾かれた存在であるリンが知っている訳が無かった。
「王国には、王様に仕える魔法使い様がいるってこと、知ってる?」
「知らなかった」
「その魔法使い様は魔法を使う技術を考えたり、魔法を使って国を守ったりしてくれているの。
魔法使い様たちが魔法を使う技術をまとめたのが、この魔導書なの」
———魔法。
幻想のような存在は、しかして真実である。
無から炎を産み、水を流し、風を操り、土を動かす。
普通なら触れることのない力が、今、リンの目の前にあった。
「でも、魔法を使えるかどうかは才能によるらしいの。
私は試してみたけど無理みたい。
リンちゃんも試してみない?」
「……やってみたい」
その日。
リンは手から炎の球を打ち出す魔法を習得した。
———初めて、単純な力を得たような気がした。
家のドアが、激しい音を鳴らして開く。
女が汚い舌打ちをして、世界を呪うような不快感を丸出しにして言った。
「ふざけんな!」
そして直ぐに、女はリンを蹴ろうとした。
そのままだったら、その脚はリンの腹にめり込んでいただろう。
だからそれは、反射的な行動だった。
「【炎】」
ひゅん、と音を立てて、火が燃え上がった。
一番簡単な魔法。
それでも殺傷力はある。
女は悲鳴を上げ、どす黒い憎悪の声を上げながら逃げて行った。
その光景を、リンは無言で見ていた。
(これで、助かるんだ)
その日からリンは———
親に手を上げたとか、魔物の娘だとか言われて、町から排除された。
「人の心が無い」
そんな声を聴いて、怖くなって、リンは本屋に向かう。
「リンちゃん、もうここには来ないで」
そう言われた。
理解ができない。
「貴方に魔法を教えた私が悪かったわ。それじゃ、帰って」
ドアが目の前で閉まる。
(いつも、みんなは強くて得する方の味方をするんだ)
子供が親を傷付けるなんて、怖い。危ない。
多くの人間が傷つかないために、害のある存在は異常とみなして排除する。
一人の子供<大勢———それが、この世の原理だと、リンは気づいた。
(生きていれば救われるなんて、誰が言ったんだろう)
あれから数年が経った。
リンは、力を手に入れようと魔法の研究に没頭した。
得する方の味方に付くのが普通だ、なんて諦めて。
誰も、私とは話そうとはしないし、リンを避ける。
そう、思っていたが———
「姉ちゃん、これあげる」
弟がその手に持っていたのは、一冊の本だった。
魔導書では無かった。
私が好きだった、本屋のおばさんが薦めてくれた本。
「姉ちゃんがいつか買いたいって、言ってたから」
「……要らないよ」
(正義感ってやつなのかな)
この世界では踏みつぶされて何の意味も持たないのに。
結局、力さえあればいい。
王国の中心に、空を貫くようにそびえ立つ王城。
見るものを圧倒する城の中に、私は居た。
赤いカーペットが示す先に、派手な玉座。
そして、そこに座っていたのはこの国の王様だった。
「リン、君の魔法は素晴らしい!」
王様が、感激したようにリンの力を褒め称えた。
少し、報われたようで、嬉しかった。
「ぜひ王国の魔法使いになってくれ!」
リンは頷く。
力が、欲しかったから。
それからリンは研究に励んだ。
強い魔法を使えるようになり、新たな魔法も産みだした。
私の魔法の才能があれば、この最低な世界でもリンは幸せになれる。
今はそう感じている。
親も弟も、友人も誰も要らない。
弟は城に預けた。
すべてを捨てて、研究に励み続ける。
しかし、やりすぎた。
それは、王城地下。
「殺せ」
リンの命を狙う声。
リンの高度な魔法は、他国の脅威になっていたのだろう。
何人もの黒ずくめの服をした暗殺者が、背後に現れた。
———幾つもの白銀の氷が、殺意を振りまいて飛翔する。
「――っ!」
短い悲鳴が上がって、びしゃりと血が飛び散る。
白い肌を、鮮やかな赤が切り裂いた。
反射的にリンは、深々と切られた腕を見た。
手の隙間から零れる赤が、地面に落ちていく。
痺れて感覚を無くしながら、それでも傷口は音もなく苦痛を叫ぶ。
痛みが、血液とともに激しく送られてくる。
更に、その傷はこの一回きりでは無かった。
脚にも。肩にも。
満身創痍。生きているのが地獄のような状態。
動くことを拒絶した手は、リンが持っていた杖を取り落とした。
「ああ、死ぬんだ」
近づいてくる暗殺者たち。
———私の使う魔法は打ち消されるし、護衛もいない現状では勝てる未来は無い。
死ってこんなに簡単にやって来るんだ、と思う。
「最低」
そう言って、笑った。
ずっと独りの人生だった。
全部しょうもないし、全部うっとうしくて大嫌いだった。
「ほんとに、最低」
凶刃が、光る。
「姉ちゃん!!!!」
地下室の入り口から、不意を突くように弟が疾走してきた。
その手から、光が舞う。
「【雷】!」
それは、カーボの魔法の才能の限界を遥かに超えた、非常に強い魔法。
だから———
暗殺者たちは、その一撃で命を落とし、
———弟は、魔法を使うための器官を壊した。
魔法を使う器官。それは、目視できない器官。
魔力器官と呼ばれ、生命維持に必要だと言われている。
弟に待ち受けるのは、死だ。
だから、死にそうな顔をしているカーボに聞いてしまった。
「……なんで、助けてくれたの?」
「だって、姉ちゃんは、いつも助けてくれたから」
笑っていた。偽らざる、本心だと分かった。
カーボは、リンに向かって言った。
「姉ちゃんが、生きてて、良かった」
その言葉は、リンを救ったのだろう。
この世界は、無関心に満ち溢れている。けれど———
リンは泣いていた。
守りたいという気持ちを、知った。