• 異世界ファンタジー

人魚釣りのこども

人魚釣りのはなしの後の短編ができたのですが、蛇足かなと思ったのでこちらに載せておきます。さみしいはなしです。




 私が大人の仲間入りを果たして二年ほどあと、父は竜宮へ行った。
 竜宮とは街のほうのおとぎ話に出てくる架空の楽園だ。海の底にあるという。この表現は大変しっくりくる。言い出した後見人のことは苦手だが、父について聞かれたときはこの表現を拝借して伝えている。
 父とは血のつながりがない。私がまだ小さかったころ、顔も知らぬ父親が人魚だからと疎まれていたころに遠く寒い土地から連れ出して育ててくれた恩人である。寡黙な人であった。そして人魚に魅入られていた。
「今日あたり行こうと思う」
 朝食の席で言われたとき、内陸に住む祖父母や叔母のところへ顔を出しに行くのかと思った。いつ帰るのか一応聞いてみたところ、もう帰らないと言う。そこでようやく父が人魚との約束を果たしに行くのだと理解した。止めることはできなかった。一生のお願いは子供のころに二度も叶ってしまっていたから、ただ頷くしかなかった。
 父は私と出会う前からキョウチクトウの人魚に食われる約束をしていた。それを引き延ばしたのはひとえに私のわがままである。どこかに連れ出してほしいという一生のお願いを叶えてくれた父と離れたくなかったから、子供の私はキョウチクトウの人魚にお願いしたのだ。
 いま思えば向う見ずにもほどがある。
 人魚は獰猛で狡猾でひとを食う。キョウチクトウの人魚は人魚の中でも厄介な人魚である。頭と腰ビレに咲く花と腰ビレそのものに人魚すら殺す猛毒があるのだ。
 子供の私はキョウチクトウの人魚に抱き着いてお願いをした。あとで聞いたが父は大層焦ったという。軽く人を殺せる爪、牙、それに腰ビレの毒。死と紙一重だったらしい。成長したいまになって思えばよく生きていたなと己の無知さにあきれる。
 抱き着いたときキョウチクトウの人魚は驚いていたようだった。ひんやりとした皮膚はすこし力が入っていたし、父が私を引きはがすまでなるべく動かないでいてくれた。抱き着かれ慣れてなかったのかもしれない。父に言ったらたしなめられるような甘い想像を抱えている。
 人魚は私のお願いを許してくれたようだった。こうして一生のお願いのふたつめは叶い、父は食われなかった。父が釣りに行くときにはキョウチクトウの人魚と少しの距離を置いて一緒にいる姿をよく見た。
 だから勘違いをしていたのだ、ずっとこのままなのだろうと。
 父がいなくなっても生活はうまくいった。内陸の祖父母も叔母も後見人も心得たもので困ったときには当たり前のように手が差し伸べられた。それがひどく悲しかった。よくしてくれるひとたちには零せず、ずっと体のどこかにさみしさがとどまっている。
 父がどうなったのか本当のところは誰も知らない。
 一応墓はあるので、たまに人が訪ねてくる。鳥人打ちのおばさんにはついキョウチクトウの人魚のことを話した。野性味のある独特の雰囲気が父に似ていたので甘えてしまったのだろう。そういうこともあるだろうさね。鳥人打ちのおばさんは私の頭を撫でてくれた。そこでようやく、少し泣いた。
 四方の海には人魚がいる。私はひとと人魚の子である。ひとは好きだ。海も好きだ。人魚も好いている。さみしいはなしばかりしたが、案外のんきに毎日を暮らしてもいる。釣りに出るときはときどき竜宮の父を偲ぶ。あのひとは勝手だ。でも誠実で、そこが好きだった。

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