第5章「雪路」、全4話の掲載を完了しました。
これをもって、『壮心横剣 ~丁丑正月鹿児島騒擾記~ 』は完結となります。
長らくおつきあいいただき、ありがとうございました。
本作では、西南ノ役そのものではなく、その「勃発に至る数週間」にスポットを当てました。
もともと西南ノ役を趣味で調べていたのですが、どうしても「学術の文脈では実証できない、物語としてしか語れない余白」を感じていました。ならば、フィクションの力を借りて、余白のドラマを描いてみよう——本作執筆の出発点は、そのようなところにあります。
ここではせっかくですので、「あとがき」に代えて、作品の裏側について雑駁に書き残してみたいと思います。
(1) 三人の主人公 ~大山綱良・桐野利秋・島津久光
もともと本作は、大山綱良を単独主人公とする構想で出発しました。
大山という人物に自分が見出したのは、「狂騒に抗おうとする良識と、その敗北」というテーマ。一種のお仕事ものとして、現代にも通じる組織人の悲哀を描いてみたいという思いが根底にありました。
しかし、プロットを組んでいくなかで、おのずと他の人物に対しても感情移入するようになっていきます。
また、県庁のみならず、私学校、島津家側の動きを掘り下げるという点でも、サブ視点人物の必要性は意識せざるを得ませんでした。
そのため最終的に、構成をよりふくらませ、「性質の異なる三つの良識が、いずれも時代の狂騒に呑まれ敗北していく」という形に改めました。
異なる「良識」をもつ三人の主人公は、次のような位置づけです。
● 大山綱良
通説では「反政府的で頑迷な小役人」とされがちですが、史料を読んで受ける印象は、誠実で、真面目で、どこかお人よしですらある人物です。
彼が象徴するのは、「受動の良識」。心ならずも事態に巻き込まれ、必死にリカバリをこころみるうちに、やがて完全に絡めとられ、破滅していきます。
● 桐野利秋
ドラマや小説では「西郷に心酔する粗暴な人斬り」と矮小化されがちですが、史料から浮かぶ実像は、あくまでも合理的で、独立した一個の英雄。
彼が象徴するのは、「能動の良識」。不本意な騒擾に覚悟を決め、より積極的に関与することで、自身の望む状況を主体的に創出しようとする、よりヒロイックな主人公です。
● 島津久光
かつては時代錯誤なバカ殿とされてきましたが、近年再評価が著しい人物。私も実際の久光は極めて聡明で、器量と常識のある立派な殿様だったように感じています。
彼が象徴するのは、「傍観の良識」。能動でも受動でもなく、そもそも事態から「距離をとる」という選択です。シニカルなニヒリストだが、誰よりもまともで孤独な人間……実のところ、彼の場面はどれも執筆が楽しくて仕方ありませんでした。ある意味、大山よりも感情移入していたように思います。
(2) 西郷隆盛を「主人公にしなかった」理由
西南戦争を題材にする以上、重い扱いを避けられないのが西郷隆盛。(そもそも、本作のタイトルは西郷の詩からの引用なのです。)
しかし、その存在はあまりに巨大です。安易に彼の内面に分け入ると、間違いなくそれ自体が物語の重心になってしまうのです。
そこで本作では、あえて西郷自体は間接的な描写にとどめました。そして、主人公三人を惑わし、その行動を拘束・増幅させるブラックホールのような存在として配置しました。
仁義慈愛の聖人でもなく、狡猾なマキャベリストでもなく、ただ不気味で巨大な引力——そのほうが、彼が落とす影の大きさが際立つと考えたからです。
西南ノ役における西郷の「真意」は、よくミステリーとされます。しかし、実際に史料を読み込めば、彼が当時何を考えていたかは比較的分かりやすい。
本作クライマックスでも、種明かし的に真意を言及させました。もちろんそれも、史料(大山綱良口供書)から、ほぼまるまる引用したものです。
なお、西郷の真意を読み解くヒントは、ひそかに当初から散りばめています。それは、篠原国幹です。
本作での篠原は、西郷の分身。篠原の言動・行動は、全て西郷のそれの間接的な視覚化です。ご興味あれば、また篠原のシーンを読み返してみてください。
(3) 史実と創作のバランス
本作の展開は、基本的に史実をなぞっています。
主な参照史料はいずれまたの機会に紹介したいと思いますが、例えば大山パートは、彼の逮捕後の口供書をかなり細かく踏襲しています。行動、台詞のみならず、ときには内面の呟きなども、口供書の文言を引いています。
とはいえ、史料も玉石混淆。矛盾する情報は慎重に比較検討し、もっとも自然と思える内容を採用しました。
加えて、有名な俗説の否定・再解釈などについても、力を入れたつもりです。新たな西南戦争観の一助になれば幸いです。
もちろん、重ねてになりますが、本作はあくまでもフィクションです。
これが歴史の真実だ!と主張するものではありませんので、悪しからず。
もっとも、結果的に人物や状況が複雑化し、小説としてはだいぶ不格好になってしまった感は否めません。内容も難しく、読みにくいな、と反省しています。
次作以降の課題ですね…。
(4) 薩摩言葉のこだわり
実のところ、テレビの歴史ドラマなどで、薩摩人が誰も彼も、いつでもどこでも「オイドン」「ゴワス」を連発する描写には、長年ずっと不満を感じていました。
例えば、西郷や大山のように京都・江戸での経験が豊富な人物は、標準語寄りの言葉も喋れたはずです。実際、西郷が上品で都会的な言葉づかいだったことを伝える記録も残っています。
また、久光も殿様として、そこらの藩士とは明らかに違う言葉づかいをしていたことでしょう。
さらに、薩摩言葉にも当然敬語があり、話者の関係性や場面によって、話し方は大きく変わります。
とりわけ薩摩士族は身分格差、上下関係が厳格。その点も考慮して、台詞を組みました。
もちろん、私とて世代的に、本物の薩摩言葉はもう分かりません。また、そんなものを徹底再現したところで、小説として、読めたものではありません。
再現のバランスはたいへん難しく、正直、もう少し方言を丸めて読みやすくすべきではないかともたびたび考えました。ただ、作品世界の空気と、作者である自分のアイデンティティを出すという意味で、あのような形になりました。
(5) おわりに
重ねてになりますが、本作はノンフィクションではなく、あくまでも男たちの、熱と狂騒と敗北のドラマです。
西南ノ役がまだ始まっていない!というお叱りもあるかもしれませんが、それは本作で描きたかったものではない、ということになります。
話は完結したと理解しており、続編は考えていません。
ただ、この一か月後、勅使鹿児島上陸の数日間を描くスピンオフや、同じ時期に政府中枢で起きていたドタバタ劇を描く姉妹編などには、ちょっとそそられるものがあります。
気が向いたら、考えてみようかな……。
本格的に「歴史小説」へ挑戦したのは初めてでした。ただ、彼らを書きながら、史実への愛着はより増した気がします。
もしこの作品から、歴史の奥行きと、いつの時代も普遍的な人生の機微みたいなものが少しでも伝わったなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。