何の確率か?
これは「1/61万」で、「61万」とはつまり2025年12月21日現在カクヨムに投稿されている作品総数です。全ての作品から無作為に1本を抽出するとして、自作の1本が取り上げられる確率は0.00016%、ということですね。某年の瀬のでっかい宝くじよりは高い確率のようですが、十分低い確率であることに変わりありません。
何が言いたいかというと、自作が人の目に留まって読まれるというのはとても奇跡的なことだよね、ってことです。
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という事実を起点として色々なことが語れて、ここ数日ぼんやりと考えることがあったので、思考整理がてらつらつらと。近況ノートってそういうもんでしょ(傲慢)
まず1点目。普通にしていたら自作は他作品群に埋もれて読まれなくなるのだから、人に読まれたいと思うのなら営業努力をしなさい、という言説について。いやーもうまったくその通り。最近そういう話をXで見かけて、耳が痛くなった反面、やっぱり私は他人事のように感じられてしまいます。
根本的な部分で、私は、自作を人に読んでもらいたいという欲求が著しく薄い(らしい)。
全くないわけではないし、昔は人並みに飢えたこともありましたが、ある時期から欲求が弱化しました。語れば長いので割愛しますが、簡潔に言い表せば「読者に酷評されたり、読者がいなかったりした程度のことで、自分は書くことをやめるのか?」→「やめたくないよなあ、というかむしろそれでモチベーションが上下する方があほくさい」と結論付けたからです。心理学的に言うところのアンダーマイニング効果を積極的に回避しようと結果、「読まれたい」という欲求が自然と抑えられていった感覚がありますな。
ただしこれも度が過ぎると、作品を公開しなくなるという行動に帰結しますので、「残す」という観点から言えばあまりよろしくない。
でもなー、うーん、大学の新歓のサークル勧誘みたいな雰囲気は正直あんまりごにょごにょ。
2点目。
上記の結果、普通に暮らしていると「読まれたい作品」が目の前に現れることが多くなります。それはそう。別にそれ自体は悪いことではないです。
しかしその一方で、そういうノリに付き合わない作品へのアクセスが遠のくため、私は何かの折にそういう作品と出会えると結構すき好んで拝読しに伺う傾向があります。大体そういう作品は作者自身の哲学や信念がにじみ出ていて、私の波長と合いやすいです。(これが誉め言葉かと言われたら全然まったく。むしろ「すまんな」ってなります、すまんな)
で、今朝、この文脈の話にぱちっと合う作品が読めたので例に挙げつつ語ります。
松葉あずれんさん「ハヤブサ」
https://kakuyomu.jp/works/16818792440164612778 カクヨム甲子園2025の大賞受賞作ということで、覗いてみましたが、大変良かったです。
「この作者にとっては必要な物語だったのだな」というところに私は良いと感じて、次いで「こういう作品を大賞に選ぶ意思が角川さんにあるのね」というところに考えるところがありました。作品の内容については、正直粗いところもありますが、そんなことは些末な話。作者が自分の頭と心で辿り着いた景色を追体験させていただき、ごっつぁんでした!(合掌)という、そんな気持ち。(レビューを書きたい気も起きましたが、今私が書くとカクヨム甲子園と絡めて書かざるを得ず、しかしこの作品はそういう紹介の仕方をすべきじゃあないよね、とも思うため一旦お取り置き状態です)
本題に戻ると。
本作が一般ウケする作品かと言われたら違うでしょうし、正直これから先の将来でバズるということもたぶんないのだろうと思います(うーん失礼、ですが悪意はないです、伝われ)。しかしこういう作品も61万作のなかには存在していて、アクセスできる可能性はテキストデータがサーバーに存在している限り、ゼロではない。
そういうのってすごく大事なことだよね、とつくづく思いました。そして、本作を良いと認める人が私を含めて複数人いるという事実。
チャネルが細いだけで、良い作品やそれを執筆した作者というのは確実に存在するのですから、引き続きのんびりとやっていきたいなと。
そんなことを思ったという話でした。
おしまい。