第1回「Polar」サークルコンテストにて「魔女のワルツ」が審査員賞をいただきました。わぁい。
https://kakuyomu.jp/works/2912051606741384682/episodes/2912051607793416774
どこを参照したか忘れましたが、変わり種が求められているような気配を感じたので、変わり種を投じてみたのでした。
結果、Ctruさんに刺さったのなら結構なことです。
作品はこちら:https://kakuyomu.jp/works/2912051601112256655
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「ありす甲子園2026」も投票ノルマを終えてひと段落。
非参加者も2票分の投票権があるとのこと。一緒に遊ぼうぜ。
と言っても計43作もあって、〆切が9月7日いっぱいなので、だいぶタイトなスケジュールではありますが。
https://kakuyomu.jp/works/2912051601248012302
この種の良い作品に投票する企画というのは、昔に超短編界隈で「タイトル競作」をやっていた時以来だったので、懐かしさがありました。
(敢えてこういう言い方をしますが、)こういう企画で勝てる作品とはなにか? もちろん作品としての地力があることは大前提ですが、結局のところ人気投票ですので、各人の興味関心の最大公約数のポジションを押さえられた作品になります。だからどういう作品が選出されるかは、その時その場にいた人たちの性格に大きく左右されます。
今の人たちにとっての「ちょうどいい作品」って何なんだろうね、を観測できる良い機会です。
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投票という、自分の基準で何かに優劣を付ける機会を経験したので、常々思っていることについてつらつらと。
評価は政治である。
もとより人間関係全般が政治なのですが、評価は特に政治的な側面と無縁ではいられないものです。
なおここで述べる政治とは、一定の利害関係のもとで特定の目的のために影響力を行使することを指します。はい。
たとえばこんなシチュエーション。AとBのどちらに投票するか?
・今は人気投票をやっていて、あなたは好きな作品に投票することができます
・甲乙つけがたい2つの作品、AとBがあります
・Aは既に多くの票を得ているのに対し、Bは現状0票です
はい。
どちらに投票しても構わないのですが、もし投票理由に得票状況が含まれるようなら、それは作品外の事情が作品の評価(=投票先)に影響したことを意味するので、これは公平な評価の対極にあるものです。もし本当に公平な評価を心掛けるなら、得票状況は一切無視して、たとえ甲乙つけがたくとも作品に根差した基準で判断するべきです。
ところがどっこい、現実的には作品の良し悪しとは別に、大義名分を掲げた結果、投票が歪むことがしばしばあります。「この作品はもっと評価されるべきだから敢えてこちらに投票します!」とか。
評価結果がその後の処遇に強く影響する場面では、特に、評価は政治性を帯びてきます。ただでさえ評価という認知的な判断はバイアスまみれだというのに、意識的・無意識的問わず政治性を伴う評価は、評価という名を借りたパワーゲームの様相さえ呈してきます。
このような状況は、公正な評価ではないという点で感情的に忌避されやすいものです。
が、個人的には、どうせ評価なんて政治性と無縁でいられないのだから、みんな腹を括って自分が求める目的のために影響力を独善的に行使したらいいんじゃないのー? と思います。言い換えれば、評価に責任を負う、ということですね。
私は評価する側のときは上記のように腹を括ってやっているのですが、評価の二重性に自覚的だからこそ、自分が評価される側になったときには、評価というものを素直に受け取れなくなる弊害があります。いただいた評価が真心からの純粋な評価である一方で、一定程度の何かしらの政治性(=不純さ)も帯びている可能性も同時に考慮しますので、まあ有体に言って、疲れます。その辺りの比率は本当に人と場合によりけり。
もっとも、仮にその評価が政治性の強いものだったとしても、奥にある目的が美しいものであるなら、それはそれで結構なことなのですけどね。
私ってば、なんともまあ、褒め甲斐のない人間だこと。
と、つくづく思います。はい。