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また感想

──世界に、こんなに美しい物語があって良いものだろうか。

 読了したその瞬間、私の頭を満たしたのはそんな文言だ。
 ある本と運命的な出会いを果たしたその後、その作者の作品はこれで三つめだ。まるで何かに取り憑かれたかのように彼女の文字の世界をただ物語が導くままに漂っている。
 今ですら、もう次の本を買いに本屋へ走りたい気持ちで心が満たされている。それほどまでに彼女の作品に、世界に浸かってしまっているのだ。

 今回の作品も、運命的な内容だった。
 彼女の作品の中で最も有名かと思われる作品、それは『80分しか記憶が持たない』博士と、家政婦、そしてその息子の三角形で形取られた物語だ。
 ただ、有名な作品も先に読んでおくか。という気持ちで手に取り、それは私の所有物となった。

 世間は日本が3大会14年振りにWBCで優勝し、野球の熱で冬の寒さなど全て吹き飛んでいた。気温もそれを知っているのか高くなり、早めの開花宣言を受けた桜が喜びを共有するように咲き乱れていた。
 私もその熱に浮かされていた人間の中の一人だった。
 一試合目、同居人がふらっと中国との戦いの中継を開いたのが全ての始まりだった。
 日本はまるで物語の中の主人公のようだった。結果を見ても、エースの活躍を見ても、彼らを讃えることに異議を唱える者はいないのではないだろうかと思えるほどの試合が続いていた。
 私がその本を手に入れたのは、その決勝戦の日だ。
 当日は試合の興奮で一項も手につかなかった。午前中に結果はわかっていたのに夜帰ってからも見逃し配信を食い入るように見つめた。九回裏は合計で四回ぐらい見てしまった。そのぐらいの熱の中には買った小説が入り込む隙などなかった。
 数学者の話だとあらすじを見てわかっていたし、別に今読む必要もないだろう。そう思って次の日の通勤バッグに突っ込んだのだ。
 次の日、私は前日の大谷翔平最後のピッチングと同じぐらいの興奮に包まれた。
 江夏。野球を好きになって年数の浅い私は知らない名前だった。しかし、ラジオで野球を聞く話が出て、それは容易に有名な野球選手なのだと分かった。
 昨日の興奮冷めやらぬ私はその日に買った小説の中で再び、野球に出会ったのだ。それは白い糸を手繰り寄せるように結ばれた運命そのものの出会いだった。
 物語は数と野球、そして三人の登場人物によって静かに、優しく、そしてとても美しく紡がれていった。その世界の中では数式こそが最もお喋りな言葉だった。
 出てきた数式が持つ意味を深く知りたくて、ネットの海へと飛び込んだ。単なる好奇心の先に数学に造詣が深い者たちの言葉があると知った。
 主人公が大切にしていたメモに書かれているとある定理。それは諍いの蝋燭の灯りをふっと消し、しかしまだ残る暖かさで皆を包み込んでくれるような優しい定理だ。
 質問をすれば答えが返ってくるそのサイトに、読んだことはないと言いつつ、数式だけをみて回答を載せている人がいた。
 それは物語の中の定理の役割を知らないその人が導いたはずの、しかし本当は隠れて読んでしまっているのではないかと錯覚させるような、実に的確な回答だった。数式というのは、それだけで会話ができるような、そんな不思議な美しさを孕んでいるのだ。
 物語は静かに、優しく、そしてとても美しく紡がれていた。それは最終項まで一緒だった。親愛、友愛、恋愛。様々な愛をもってしてもその関係性は語りきれない。そんな美しい物語だった。

***

 というわけで、小川洋子著『博士が愛した数式』を読みました。本当に周回遅れですが、物語のいいところはどんなに時間が経っても逃げないところです。
 また何か読んだら近況ノートに感想でもあげようと思います。次回更新は明日です、多分。
 どうぞよろしくお願いします。

2023.03.24 風詠溜歌

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