疲れた頭で電車の待ち時間にふらりと立ち寄った書店で、素敵な本に出会った。静謐で、どこか物悲しいが心の中に寄り添い、そしていつの間にか肌身離さず持っている宝物。そんな物語がそこには広がっていた。
誰に勧められたこともない、また自分が知っているわけでもない、書店のポップに目を留まったわけでもない。ただタイトルに惹かれ、あらすじの理解できなさをどうにか払拭したいと手に取ったそれは、私の手のひらに収まったまま、離れることを知らずにレジの上に乗せられ、対価と交換して私の持ち物となったのだった。
そして、耐えきれなかった右手が一項めを捲る。その時からずっと、私はその世界にいた。
言葉の海を泳ぐように、どこか浮世離れした登場人物は姿を変え形を変え、けれど本質は変えることなくそこに存在していた。物語という小さな、けれど宇宙よりもはるかに大きいその海の中を、漂うだけのそんな時間が繰り返されていた。
時にその海の中には取り返しのつかない歯車の綻びがあった。それは海流に流されすぎて仲間とはぐれたラッコや、鯨の腹の中で未だその運命を知らないオキアミ、珊瑚の間に挟まって出てこれなくなってしまった鮮やかな色の小魚のように後戻りができないものだ。そのどれもが悲しいが、その物語の海の中ではどの綻びも静かで美しかった。
そんな美しさの中を、ただ物語が導くままに漂っていた。しかし、死と同じく、物語の終わりも必然とやってくる。私はいつの間にか最後の項を捲り、そして本を閉じていた。
素晴らしい作品を読了した瞬間こそが、人生の中で最も輝かしく、そして最も得たくない瞬間だ。それはある種の後悔を伴い、堪えようのない興奮を伴い、また逃れようのない喪失感を伴う。しかし、私の人生の中で何よりも尊い瞬間である。
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……というわけで今回の近況ノートはこんなところです。挨拶が遅れましたがこんばんは、溜歌です。
忙しい平日のたった二日で読み切ってしまった本は
小川洋子著『猫を抱いて象と泳ぐ』です。ここにいらっしゃる方の中にはきっと読んだことがある人もいると信じて、こんな素敵な本があったよと言おうとしたら文字が止まらなくなりました。拙く抽象的な感想、どうかご容赦を。
なんの情報もないまま手に取った本が自分の琴線に触れた時の喜びというものは何ものにも変え難いものです。
私もいつかそんな物語が書けますように。そんな願いを月にかけてしまう、そんな夜でした。
こんな思いの中自作を宣伝するのも気が引けるので今日は大人しく寝ることとします。次回更新は土曜日、またみなさん更新で、どうぞよろしくお願いいたします。
2023.03.08 風詠溜歌