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少し考えたこと

花の魔法と画家の最後に更新した話にコメントをいただいて、改めて思っていたことをまとまりはありませんが書き残しておこうと思います。

ウラノスの地図は私が最初の留年をし、半年の休学の間実家に軟禁され(かつ人格否定を手酷く受けてアイデンティティが崩壊し)ていた頃に勉強の合間を縫って思いついた話でした。花の魔法と画家は、復学してから思いついた話だったはずです。花の魔法と画家の前に、前日譚として赤髪の少年は空に笑うを書いた記憶があります。

当時の私は、自分の人生があまりにも薄っぺらいこと、自分がどういう人間かわからなくなってしまったことに強いコンプレックスを抱えていました。自分なりにがむしゃらに生きて来ましたが、結局勉強を頑張ってたのは親から自由になって一人で生きていく力が欲しかったから。勉強しかしてこなかったせいで実はほかのことに頓着する余裕がなく、同年代の周りの子達よりも思慮が浅く教養のようなものがないことにも不安を抱えていました。そしてその勉強も強いストレス下の中頑張りすぎたせいで結局は瓦解し、精神病になり、がんばれなくなってしまい、ただの落ちこぼれになってしまい、留年という親にとっては恥ずかしいことをしたせいで、当時は病気への理解も本当に浅い時代だったので、私という人間の精神性がだめなのだと、私自身をコテンパンに否定される事態になり、私自身は親に反抗する元気をなくし、なんのためにがんばっていたのか、私は本当に親が言うような人非人なのだろうかと呆然として、バラバラになったまま暗闇の中にいました。

そんな中で、逃避するように物語だけを考えていました。最初に書き切る事ができたのは、都に霞むアムリタでした。それ以降、物語を書きたい自分が自分の引き出しの少なさによって書きたいものを上手く表現出来ないことに苦しみました。もっと学生時代に映画や本や漫画やゲームに触れておくべきだった、勉強を孤独にやり続けるのではなく友達と遊んでおくべきだった、それをしてこなかったから、私の世界は私と親で閉塞していた。
書くとしたら、自分の経験からしか書けなかった。
その結果生まれたのが、赤髪の少年は空に笑うでした。須崎梓の家庭環境はほとんど私のものです。梓と私の違いは、梓は男の子であったこと、梓は凡人の私と違い天才であったこと。そして、絵哉という共感性の高い理解者がいたこと。私にはいませんでした。ほとんど、「もしこうだったら、私が男だったら、私が天才だったら、私に親友がいたなら、違ってただろうか」という自問自答で書いたようなものでした。後にその事でこの話を読む度具合悪くなることにもなりました。

花の魔法と画家は、ドット絵でアバターを作ってみてた時に、気に入ったアバター3人を使いたくて(アズ、ユーク、カイヤ)考えた話でした。自殺した画家の精神と絵に残った魂や思い出によって形作られた世界に、画家を思う女の子の魂が閉じ込められてしまったから、その子を外に出してあげるために主人公が世界を壊すというコンセプトでした。
その際、主人公のアズの本体である梓が自殺した理由を考えるにあたって、結局自分の経験からしか梓というものを描けず、それによって生まれたのが赤髪の少年は空に笑う。それを元に、梓の抱える問題と希死念慮と向き合いながら書くことになってしまったのが花の魔法と画家です。
結末は二通り用意してて、どちらにするかは最後まで決められず、書いているうちに決めようと思いました。片方は、世界マグメルを壊すことで現実世界の梓が目覚め、ニーナと一緒に生きていく話。二人の子供がユークに似ています。
もう片方は、実は絵哉は全身に火傷の痕を負ってはいるが生きていて、けれど梓が絵哉が死にかけた事件について受け入れられず、絵哉は死んだと思い込んだり、たまに正気になっても絵哉の変わってしまった姿を見て自分のせいだと閉じこもり続け、ろくに意思疎通ができない状態で自殺した、マグメルが壊れたあと、ニーナが目覚めて絵哉と会い、梓についての記憶を二人で抱えて生きていくというものでした。ちなみにマグメルでの戦いはこの後ユークとアズがぶつかり合いますが、ユークが折れてアズと一緒に世界を壊すことを決め、実は世界の王はアズの描いた母親の絵で、という展開でした。本当は最終話付近は別途先に書いていたのですが、データが飛んで落ち込みしばらく放置になりました。

今掲載している最後の話を書いた時、カイヤがマグメルにいた解を得た気がしました。アズにあれらの言葉を投げかける存在が必要だった。この話は私にとってはとても重要な回で、当時は(読者の年代が子育て世代に突入し、連載を追わなくなってきていた)直後に反応がなく読んでもらえてないことを感じたため心が折れて、放置してしまいました。

数年経って読み返した時に、「これって私が自分の希死念慮に答えを出すために書いてたのか」と気づきました。
そしてその途端、アズや梓というキャラクターに拒否感が出ました。自分の経験を交えて書いているのだから自分の投影であるのは当たり前だったのですが、私はその事に気づけていなくて、自分自身を慰めるために小説を書いていることがとても愚かに思えたのです。私は私自身のことが嫌いだからです。嫌いだからこそ希死念慮も強いのでしょうが。
アズや梓が自己投影だと気づいたら、考えてた結末にもものすごく拒否感が出てしまいました。現実で救えない自分を救うためにこねくり回した結末、なんてみじめなんだろうと感じてしまって。それで、そのまま書けなくなりました。

話の設定は気に入っていたのに、「自分」が出すぎていることによって書けなくなるのは惜しいと思いました。そのためリメイクを考えました。

さて、ウラノスの地図について。こちらもまた、似たような理由(反応がとても気になっていたのに読んでもらえてない気がした)で一度更新が止まり、それから数年後に読み返した時、もちろん読みづらさもあったのですが、「ああこれはヘロという主人公に、親との関わりで傷つきアイデンティティを失った自分を投影し、その再生を描こうとしてる」と気づきました。連載当時は気づいていませんでした。ただ「世界の敵である少女をただ一人味方する少女にとっての勇者」を描きたくて書いた話だったはずなので。
花の魔法と画家に比べると拒否感は薄かったと思います。おそらくこちらの主人公は、再生を目的として描いていたからだと思います。それでも、やはり何か違うと思いました。

もちろん、基本的に小説というのは多かれ少なかれ自分を救うために書く人が多いことは知っているし、私も結局はその口なのだとは思います。ただ、あまりにも自己投影が強すぎると私は気持ち悪くなってしまうのです。エッセイの方を未だに読み返せないのも、そのせいです。トラウマのせいなのか、自分自身への嫌悪のせいなのかは分かりませんが、とにかくだめなのです。また、数年のうちに私の環境も僅かに変わり、治療が進んで死生観が少し変わったこともあって、何が描きたかったのかわからなくなってしまいました。

花の魔法と画家も、ウラノスの地図も、原初の純粋な物語としての、「どんな話を描きたいか(私はどんな話を読みたいのか)」「どんな話にしたいのか」を一から考え直して、プロットを再構築しました。その結果、花の魔法と画家のリメイクにはカイヤとアズは出てこない(アズはチラッとは出るかもくらい)し、ヒロインが変わるし、ウラノスの地図もヒーロー周りの設定が少し変わることになり、このまま続けるのは難しくなった次第です。

とはいえ、疲れやすいのは今も変わっておらずリハビリ中なので、ちゃんと筆を取れるのがいつになるかはわかりません。生きているうちに書きたい気持ちと、まあ書けないなら書かないでもいいやの諦観があります。病気が進行してから、諦め癖がつきました。どんなにやりたくても思うようにできないことが多すぎて、ままならなくて、自分自身に期待しないほうが楽だからです。

他の話も含め、いつかまた昔みたいに楽しく物語を書くことが出来るように戻るかもしれないし、このまま書けないまま老いていく可能性もあります。だから、未熟ながら過去に書いた作品を評価していただけるのはとても嬉しいです。

花の魔法と画家をアズの物語として書けなくなった大きな原因は、自分の希死念慮に答えが見つかる兆しがないことだと思います。病気が良くなったらいつか生きていたくなるものだと思っていました。なかなかそうなりません。今でも頻繁に希死念慮におかされます。死ねないから生きているしかないだけです。それなら私にとって、アズの答えを探す意味が無いし、仮初の答えを出すのも気持ち悪いのでした。

ですから続きはきっと書けない、でも、読んでいただけて、心を砕いていただけたことはとても嬉しかった。数年越しに、やっと読んでもらえたんだなあ、書いてよかった、と思いました。今の私にとって、花の魔法と画家はカイヤの消滅まで、ウラノスの地図は過去編までを書くのが精一杯でした。それ以降の答えがまだ見つからないので、違う形でいつか書きたいと思っています。

とりとめがないですが、ここでやめておきます。

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