ペデサン村の丘の頂に立ち、南の彼方を見渡すがいい。遠く白亜の岩山が黒い影を落とすのが見えよう。北に振り返れば、どこまでも続く街道と、青々とした麦畑が広がっている。その向こうには、鬱蒼と生い茂る森の影が目に映るに違いない。
だが、この景色が今あるのは、父祖達が苦難の日々を乗り越えたからに外ならない。心ある者ならば、頬を撫でる微風より、過ぎ去りし時代の物語を聞き知るだろう。
至尊の称号を僭称する狂気の騎士が現れてより三百年。真なる王統に連なる者達が、その証を失うまいとして岩山の主のもとを訪ねてより二百年。世の乱れはこの上なかった。王冠はあれども、その由来を貴ぶ心は既に忘れ去られ、誰もが秩序なく相食むのを常としていた。明日の安寧も定かでなかったがゆえか、人々はその日々を学び、また身を修めることに費やす代わり、道を外れて目先の享楽に耽るありさまであった。
そのような時代の終わり、さながら夜明け前の空のように、ただ一片の光も差し込むことのない日々は、今ではほとんど語られることがなくなってしまった。世を正さんとして惜しまずその血を流した父祖達の功業が称えられないのは、ひとえにその頃の人々が悪習に染まっていたためで、その恥辱や穢れを口にせずには父祖達の行いもまた、言葉にしがたいがゆえである。
幸いにして筆者は、アンスラール王に仕えた史家タルフチの記録の写しを手にしている。これは王命によってタルフチが、かの退廃の時代を生き延びた『異瞳』のレリットに、かつて目にした事柄をあまさず語らせ、その一切を記したものである。タルフチは記録を王に献じたが、手元の下書きは彼の書庫に残された。それが二百年の時を経て、私が古い書庫の整理を引き受けた際に、幸運にも、この手に渡った。
こうして私は、かつての時代のありさまを万人に伝える機会を得た。かの王后ミーダについて、これ以上に詳しく語られた記述は、今日、どこにもない。
今一度、至尊の王統に連なる方々に敬意を。その上で、栄光の時代に先立つ汚辱の時代について、敢えて述べることを許されたい。
のちの王后ミーダが生を享けたのは、かの英雄の定めた暦に従うならば、六百三十三年、緑玉の月の十日のことであった。白亜のピュリスの岩山の上、今では総督府が置かれているところにあった宮殿の中で、ピュリスの王太子ゲンキナの長女として産まれた。
この前後、数年間は記録に乏しい。北の岩山に居を構えるフィエルハーン家との争いも一服し、ピュリス王国は平穏の中にあった。ムスタムを支配し、ジャリマコンの港を押さえた王国の勢威に翳りは見えず、コラプトの会頭達も、森の貴族達も、その王威を認め、敬意を払っていた。
特筆すべきことがあるとすれば、その三年後に王子ズーボが誕生したこと、その翌年にゲンキナとその后が相次いで世を去ったことだ。后は産後、高熱を発して回復せず、そのまま死去したとされている。ゲンキナもまた、少し前までは何の異常もなかったところが、急に高熱を発して倒れ、そのまま息を引き取った。
フラフ王は深く悲しみもし、誰を王太子にするべきかで悩みもしたに違いないが、それについての記録はない。この王国の末期の様子について、のちの時代の人々が知り得るのは、専らレリットの証言を通してのみで、彼女がピュリスの王宮に出仕するようになったのは、六百三十八年以降のことだ。
タルフチの記録は、窓のない狭い石造りの部屋の中から始まっている。なぜなら、語り部たるレリットにも、それ以前の記憶がないからだ。
ムスタムのルイン人奴隷だったレリットは、ごく幼いうちに売られて、奴隷商人の下で養育されていた。その取り扱いは過酷で、およそ一切の人間らしさというものが排除されていた。ある日、レリットは興味に動かされて、主人の書斎に立ち入ろうとしたらしい。だが、この主人は、幼い女奴隷に読み書きを教え、価値を高めて転売する代わりに、苛烈な懲罰でもって応じた。全身を鞭打たれ、石の牢獄に放り込まれたレリットは、今にも死んでしまってもおかしくなかった。
だが、苦痛の中で夜を明かし、なんとか生を手放さずに済んだ彼女を見舞ったのは、突然の運命の変転だった。削りだした黄金のようだった髪は白銀に、青い瞳は黄色と緑に染まっていた。そして、自分の名前や言葉こそ覚えていたものの、その日までの他の記憶をすべて失っていた。そんな彼女が懲罰房から引き出された際、まず口にしたのは、自分の行く末についてだった。
「未来の主人の使いが、今朝、船に乗った!」
果たして、その通りになった。
彼女の持ち主は、軽々しく女奴隷の体に鞭を振るい、その体に傷痕を残して値打ちを下げる愚か者であったが、周囲は違った。一夜にして髪と瞳の色が変わり、おかしなことを口走りだしたと聞いて、その異変のなんたるかを察したのだ。
偶然にも、レリットは女神の恩寵を授かったのだ。それまでの記憶の一切を失った代わり、それ以後の記憶については決して忘れることがなかった。そして、遠方に目を凝らせば、あたかもその場にいるように、すべてを見通すことができた。最後に、ごく稀にではあるが、彼女は夢を見るようになった。不明瞭で断片的ながら、それによって彼女は、なんとなく未来で起きることを知るようになったのだ。
意図せずして商品の値打ちが跳ね上がったことを、その奴隷商人は喜んだ。そして六日後、ピュリスからマイルマン将軍が視察のためにやってきた時、彼はこの女奴隷の値打ちを力説し、買い取ってもらったのだ。
数日の船旅の後、レリットはマイルマン将軍の邸宅の一室に留め置かれた。それから二日後、使用人の手によって身を清められ、真新しい衣服を宛がわれ、馬車に乗るよう命じられた。馬車は、螺旋状に引かれた道を辿って、少しずつ頂へと向かっていった。
宮殿を囲む石の壁の前で馬車を降り、彼女は将軍に続いて、ピュリスの王宮に立ち入った。後になって明らかになったことだが、気後れも物怖じもなく迷わずついてきた彼女に、将軍は多少の驚きをおぼえたそうだ。しかし、レリット自身としてみれば、これは夢で目にした景色でしかなかった。
そして彼女の夢は、宮殿を形作る外側の塔、その半屋外の屋根の下、恰幅のいい老人が腰かけているのを目にしたところで途切れていた。
「御苦労」
その老人は、人を安心させるような笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。
「その子が、視察のついでで見かけたという娘かね」
「はっ」
「なるほど、澄み切った目をしている」
二人の視線を浴びて、レリットは居心地悪さを感じた。想定していたことには不安もなかったが、ここから先は見知った未来ではなかったから。そして老人は、そんな彼女の気持ちの乱れに気付けないほど、鈍感ではなかった。
「マイルマン、下がってよい」
「はっ」
将軍が引き下がると、老人は表情を露骨に変えた。本当に、年相応の子供を相手にするかのような、優しいお年寄りの顔になった。
「さて、レリットと言ったかな? 怖がらなくていい。よければ、こちらの椅子に座ってくれんかね。今、お茶を用意させよう」
その塔の最上階は、さながら東屋といった風情で、大理石のよく磨かれた床の上に、丸いテーブルが、そして椅子が二脚あるばかりだった。レリットは作法も何も知らなかったから、老人に言われるままに黙って椅子に座った。それを老人も見咎めることなく、手を打って使用人を呼び、自身よりまず少女に紅茶を供するようにさせた。
「おっと、慌てて飲まない方がいい。少し冷めるのを待たないと、火傷してしまうぞ」
人懐こい笑顔で老人がそう言うので、レリットの気持ちも解れていった。
「落ち着いたら、教えてもらえんかね。わしは君の名前をマイルマン、ああ、さっきの男から聞かされてはいるのだが、他のことは何も知らんのだ」
「私は、レリットです」
詳しいことはわからなくとも、レリットは目の前の人物が高い地位にあるらしいのは、察していた。だから、できる限り、言葉遣いだけは丁寧にした。それでも、他に何も言いようがなかった。
「それは知っている。君はどこから来たのかね」
「ムスタム、らしいです」
「うむ。その前は」
「わかりません」
彼女は小さく首を振った。
「あの日の朝、目を覚ましてからのことは、すべて覚えています。でも、その前のことは、何も思い出せません」
「では、ご両親のことも」
「顔も名前も、すべて」
この返答に、老人は笑みを消して、深い溜息をついた。レリットは、相手に不満を抱かせてしまったのかと受け止めて顔色を変えたが、それに気付いた老人は、言葉をつけ足した。
「君が悪いわけではない。気の毒だと思っただけだ。しかしそうなると、レリット」
老人は、初めて厳しい視線を向けて、問うた。
「君は何者なのかね?」
この問いに、彼女は答えることができなかった。
「わしが聞いた話は、次の通りだ。君が書斎に勝手に踏み込んだので、持ち主だった奴隷商人は、他の奴隷達への見せしめというのもあって、君を手ひどく鞭打って、石の牢屋に閉じ込めた。ところが、翌朝、引き出してみると、髪の毛の色も瞳の色も変わっていたという。君、自分の元の髪の色も、本当に覚えていないのかね」
「金色だった、と聞いています」
「まるで他人事だね」
そんなことを言われたところで、レリットにろくな返事などできようもない。それを理解して、老人はもう一度、深い溜息をついた。
「君を責めているのではない。そうではなく、不安に思うから、こうして話をしている」
「不安、ですか?」
「君は自分が何者であるかを説明できない……とするなら、君の心の拠り所は何になるのかね? 記憶と引き換えに得た、その神通力ということになったりはしないかな?」
当時は、言葉の意味を呑み込めず、レリットはただ黙りこくるばかりだった。
「聞いたところによると、君が得たのは、見聞きしたものを決して忘れない記憶力と、遠くのものを自在に見る千里眼、それに、未来を垣間見る予知夢の能力だと聞いているが」
「はい」
「この世界の大半の人間にとって、それらはどれも得難い力だというのはわかるかね」
「はい」
老人は頷いた。
「これからは、その力に期待する人々が、君を取り巻くことになる。君は、その力ゆえに求められる。ましてや君には、それ以前の記憶がない。すると、君はいつしかこう考えるようになる。この力こそ、私が私であることの証だ……とね」
理解が追いつかずに目を瞬かせる少女を相手に、老人は手加減をしなかった。
「それではいけないのでしょうか」
「それは良くないことで、恐ろしいことでもある。いいかね? これだけはしっかり覚えておきなさい」
老人は指を一本突き立てて、神妙な表情を浮かべて言った。
「自分が何者であるかを忘れてはならない」
レリットには、返す言葉がなかった。
「故郷も記憶もなくした君には酷だと思うがね。だが、これだけは、譲ってあげるわけにはいかない」
背凭れに、そのふくよかな体を預けて、彼は続けた。
「今夜、君にはこの宮殿の一室が宛がわれる。明日からは教育係がつけられる。読み書きや計算、礼儀作法はもちろんのこと、他にも貴人に仕えるのに相応しいだけの教育を受けてもらう。こちらは君が大人になるのを待ってあげられない。早いうちから側近としての仕事を果たしてもらわねばならん。だが」
両手を広げて、老人は言った。
「今日だけは、レリット、君はわしのお客様だ。誰の下僕でもない。心の赴くまま、自由に過ごしてほしい。難しいとは思う。だが、自分が何者であるかを決めてほしい」
少しの間をおいてから、少女は首を傾げた。やっと考えが老人の言葉に追いついたのだ。
「よろしいでしょうか」
「なんでも自由に言いたまえ」
「私が私の名前しか知らないのは普通ではないです。でも、他の人はみんな、自分で自分が誰なのかを知っているのではないですか」
「いい質問だ」
老人は力強く頷いた。
「知っているはずなのだ。尋ねられれば自分の名前も言えるし、昔、何をしてきたかも覚えている。何が得意で、何が好きで、何が苦手で、何が嫌いかも忘れていない。そしてこれから、どんな未来を手にしたいかもわかっている。そう、わかっているはずなのだ。にもかかわらず、人は容易に自分自身を見失う」
レリットは、幼いながらも利発な娘だった。だから、老人のこの言葉に眉根を寄せた。
「おかしなことを言うんですね」
「ほう?」
「なぜそんな話をするんですか。黙っておけばよかったのです。私は何も覚えていません。両親の顔すらも。だからこの街でこれから暮らせば、それが私のすべてになります。余計なことは言わないで、それなりに大切に育てさえすれば、私はあなたの思い通りの娘になったはずではないですか」
この答えに、老人は押し黙った。だが、少しすると小刻みに揺れ始めた。それはやがて、東屋に響き渡る大笑いになった。
「それ! それだ! それだよ、レリット! なるほど、記憶はなくしたが、君は君なんだ。きっと頭のいい娘だったんだろう。それに思った通りだ。奴隷に身を落としたとはいえ、君は卑しくなどない。よくわかった。マイルマンはいい買い物をした。たとえ君が神通力を持たずともね」
笑いが収まると、老人はゆっくりと席を立った。
「ぜひとも君は君のままでいたまえ。そして、君が君であることが、わしらの利益に適うことを願っておるよ」
話し合いが終わるのを察して、レリットは慌てて立ち上がった。
「あの、あなたは」
「わしが何者であるかを知りたいのかね? そうだな、わしは……ただの孫に甘い年寄りだ。少しばかり大変な仕事をしているだけの。だが、人はわしをこう呼んでおる」
まっすぐ背筋を伸ばして立ち、彼は言った。
「ピュリスの王、フラフ。この地の、そして海の彼方の万民の幸せを願う者だ」
これが、レリットとフラフ王の出会いであった。