自分の思考やあるいは身体のなかには庭園が必要で、そこにはできるだけ白じらとした月が昇っていることが望ましい。寒さがケープをまとってさまよい、無意味がきらきらと涙を落としていることが望ましい。
無意味を救い出すための庭園、無意味を慰めるための庭園が自分の運動や死のなかには絶対に必要で、眺めることや振り向くことのなかに絶対に必要で、そのような庭園を繁茂させ閉じ込め覆い閃かせはためかせ叫ばせ輝かせ一致させなくてはならない。
冬が来る少し前に自分が連れてきた冬を放ち仲間のもとに返さなくてはならない。
ただ白いだけの歩みを迎え入れ、それとすれ違って歩む者たちの仲間となるために。
目の可能性が夜闇をそっと線分として横切ると、教会は扉を開き、いつか降臨すべき目が存在するようになることを祈る。
そのことの名としていくつかの薔薇が咲いていることがあり得る。