どうしてテロ、即ち一方的短絡的な暴力行為に走るのか。
断じてしまうならば理解し会えない事柄を押し通そうとしているからだろう。
子供の駄々と基本は同じ。
しかし彼らにとってそれは譲れない事柄で、受ける側には許容しかねる内容であったのだろう。折り合いは付けられなかったのだから。
さて、一体どちらが悪いのか。
受けた側は無論被害者であり、失われた生命は無念である。
だが総じてテロを起こす者は確信犯。己を正義と信じる者であるのも確かなのだ。
この正義の解釈のズレ、違いをまず理解しておく事は必要だ。
分かり合えるか分かり合えないか。分かり合えないのであれば、後は滅ぼすか追放するしかないのだから。
また、古い歴史のみならず、武力を振るう存在に置いて、未だに勝てば官軍は事実であろう。国際社会から糾弾されようとも、短期的限定空間に置いてその正義はまかり通る。
故に正悪の議論は不毛であり、所詮外野のわめきでしかない。
そして、恐らく、真実人間が解り合う事はない。
妥協出来るか否かだ。
尚、利己的なテロリズムは許されざる事である事は明記しておかねばなるまい。テロに限らない。他者を踏みにじる行為は凡そ知性ある生命、高度で広い社会性を持った存在として嫌悪すべきであろう。
が、だがしかし、人は愚かであると愚行するのだ。
短絡的暴力に訴えない手段で、果たして人をないがしろにする存在が今現在どれだけ居るか。日本でハラスメントと呼ばれる行為に及ぶ者だ。
他者の価値を低く見積もり使い潰す存在がどれだけ居るか。
テロと彼らの違いは、物理的手段のあるなし。手に火器を構えているか否かの違いではなかろうか。
法を侵さなければ良いのか。人を殺さなければ良いのか。社会に露呈しなければ正義なのか。
目の前に広がる現実とメディアが世界の全てではない。
私はネットの世界で愚行を晒した子供を笑い者にして蔑んでやしないか。貴方は良く知りもしない誰かを笑ってやしないか。
知ろうとしているか。
知らないままに他者を傷つけてないか。
人と人が争う火種は、常に心の中にあるのだ。
知らねばならないのだ。己を。他人を。
あるいは知らなくても良い。
受け入れねばならぬのだ。