レンドール邸を訪れたのは、決して今日が初めてではない。
カサンドラを迎えに行くとき、送り届けるとき、そして……
今でも記憶に強く焼き付いて残っているのは、カサンドラ自身に直接訪問を要請されたときのことだ。
あの日、自分の中にあった全ての”未来”、暗灰色の薄暗い世界が砂塵のように消え失せた。
そしてその画《え》の向こうから、今まで見たことがない光に彩られた世界が現れたのだ。
自分の目を曇らせ、行動を縛り、前にも進めず後ろにも戻れなくしていたのは自分自身だったのだろう。
勿論、あの日前後で自分自身の能力が劇的に変化があったわけではなく、カサンドラをどんなものからも絶対に守り通せるという確信が生じたわけではない。
未だに何かあったらと緊張することは多々あった。
失うかもしれない、という恐怖は消える事はないだろう。
だが、それでも――自分の我儘で巻き込むのと、相手の方から手を伸ばしてくれるのとでは心の持ちようが全く違った。
そう思えるようになったのは、もう二度と会う事が出来ないと思っていたクリス、いやアレクに再会できたからだ。
奇跡は起こるし、この世界は自分にとって大切なもの全てを奪っていくだけじゃない。
前を向けるようになった事は、大きな転換点だった。
何より、自分が好きだと思っている相手に同じように思ってもらえるのは実際嬉しいものである。
立場上そういう話とは一切無縁で過ごしていたのだけど。
一度自覚してしまったら忘れる事は困難で、無かったことには出来ない。
底なし沼に踏み込んでしまったようなものか。
当時は自覚がなかったので共感できなかったジェイクの右往左往ぶりも――今なら良く分かるというものだ。
※
「…………へぇ、ここがアレクの部屋……」
晩餐会用のスーツから着替え終えた後、通された部屋の中。
思わずきょろきょろと視線を彷徨わせる。
想像以上に簡素で、必要最低限の調度品以外見当たらない広い部屋だった。
弟に対するイメージは、泣き虫で気が弱くて母親が大好きな甘えん坊で――賢い子、という幼少期のイメージと今のアレクは、面影こそ感じるがほぼ予想外の成長を遂げていると言っても良いだろう。
まだほんの幼少時の記憶しか残っていないので、肝心のこの六年間をスキップして現れた弟の姿、その変わりように驚きを感じることばかりである。
だが部屋の中で自分を待っていたアレクは、こちらの存在に気づくやいなや、くるっと振り返ってキラキラと瞳を輝かせる。
「……兄さま! ごめんなさい、僕の勝手で呼び出してしまって」
晩餐会が終わった後は予想通り夜半、カサンドラを送り届けたらすぐに帰ろうと思っていたのだけれど。
まさかアレクに強引に引き留められるとは思っていなかった。
「私も呼び止めてもらえて嬉しかった、二人で会うのは本当に久しぶりだね」
「はい! ……兄さまが元気で、本当に良かった!」
周囲の目があったところではどこか澄ました表情で、昔はあんなに表情が可愛かったのに月日が経つと変わるものだなと内心驚いていた。
まぁ幼児期と今を比べられても弟も困るだろう――
だが弟は、いつも王宮で会った時そうしていたように。
たたたっと駆け寄ってきて、正面から抱き着いてくる。
互いに背丈も年齢も、そして立場も変わってしまった。
だがごく自然にアーサーはひょいっと弟の身体を持ち上げる。
ずっしりと重たく感じる弟の重みに時の流れを感じるとともに、再びこうやって抱き上げる事が出来た幸運に浸れた。
細身の少年なので、持ち上げる事自体は全く苦にならない。
だが彼がずっと王宮にいたのなら、この歳でこんなやりとりは流石にできなかっただろうと思う。
弟の身体をストンと床に下ろし、またぎゅっと抱き着いてくる弟の頭を自然と撫でていた。
根っこの部分が変わるわけではない、今に到っても甘えん坊な性格は一部そのままなのかも。
「………。
アレク」
無邪気で可愛い弟。
幼いゆえ、いつだって自分の感情に素直でまさに天真爛漫。誰からも可愛がられていた。
母親譲りの銀の髪、そして顔立ちも自分と似ているというわけではなく母にそっくりだ。
年齢の割に大人びた雰囲気を纏いつつも、こうやってまっさらな笑顔で抱き着いてくる年より幼く見えるあどけない笑顔。
嬉しいには嬉しいのだが……
思わず、複雑な表情になってアレクの肩に手をポンと置いた。
「何ですか?」
にこにこ笑顔で、蒼い大きな目で自分を見上げる弟の視線を浴びる。
「アレクは姉《キャシー》にもこんな事を……?
い、いや、姉弟なのだからそれは別に……」
自分の身びいきの欲目だけではなく、普通に彼は人懐っこく可愛い性格だ。
普段カサンドラとアレクがどんな様子なのか、当然のように今まで全く見たことがないアーサーである。
実体験を交えて想像すると、今と同じような事がカサンドラとの間でも発生していたのではないかというイメージが脳裏を過ぎった。
義理とは言え、彼らは姉弟だ。そういう状況があったとして、否定的意見を持つ方がおかしい。
だが、当然の光景にも拘わらず何となく心の奥がモヤっとしたことに自分が一番驚いていた。
「…………!?
何を言っているのです、兄さま!?
姉上はレンドール侯爵家の総領姫ですよ!?
他人に対してこんなことできませんって」
何故かアレクは動揺し、自分の服の胸元を掴んで思いっきり前後に揺する。
あたかも「気をしっかり持て」と言わんばかりの焦りっぷりだ。
「第一、兄さまと姉上は全く似てませんし、間違ってもないです、絶対!」
「そ、そうか……
ごめん、アレク。変なことを聞いてしまって」
「やめてくださいよ、姉上は全く似ても似つかぬ他人……」
彼が距離をとって、一歩下がる。
そしてじろじろと頭の先からつま先まで矯めつ眇めつアーサーを目を細めて眺める。
顎に手を添え、うーん、と唸る姿は自分には見覚えのない弟の仕草で戸惑った。
「ああ、でも似てるところはありますね」
やおら指をパチンと鳴らし、彼は得心がいったように何度も首肯した。
「本当に?
ど、どこが似ているかな」
自分とカサンドラがどういう関係に見えるのかと言えば、周囲から見れば婚約者同士、という表現で事足りるだろう。
しかし肉親の目から見て、カサンドラと似ているところがあるというのは興味が湧いた。
「ええかっこしいなところ。
見栄っぱりと言うか、自分を良く見せようと頑張るところは似てる気がします……
勿論、才能の面では兄様が圧勝ですけどね」
「………ん? 言っている意味がよく分からないのだけど」
似ているところというには少々ピンポイント過ぎやしないか。
「彼女にそんな一面があるとは思えないけれど――」
見栄や虚飾、というのは少なくともカサンドラを表現するのにそぐわない気がするのだ。
少しは誰にも見えないところで研鑽を詰む機会は多いが、ええかっこしいと言われては心外なところがある。
その上カサンドラも、だなんて。
「えー、めっちゃ見栄っ張りですよー。
僕が今まで、どれだけ姉上に付き合わされてきたのかと思ってるんですか!」
何か過去に思うことがあるのか、弟は軽くサイドテーブルを掌で叩く。
堪えきれない想いを吐き出すようにバシバシと。
「あ、アレク……?」
「合奏の時は何週間もずっと付きっ切りで演奏に付き合わされましたしね。
お菓子作りなんかは成功するまでどれだけの失敗作を食べさせられたか!」
合奏、お菓子作り――と言われると、彼女の姿が脳裏に過ぎる。
何事もそつなくこなせる女性だなぁという印象を持っているが……
「兄様に対する恋愛話を何度聞かされたのかも数え切れませんよ。
本人の前でそんなことは言えばいいじゃないですか、本当にあの人は」
ぶつぶつ、と文句を垂れ流す。
アレクは満更でもなさそうな顔なのに、でも怒った様子という器用さを発揮する。
血の繋がった姉弟ではないけれど、彼もこの家で家族の一員として楽しく過ごせていたのだろう、とも感じられて少々微笑ましい。
それに自分の知らないところで、彼女が自分の話題を出してくれていたという事実に驚きを禁じ得ない。
自分でも意外なほど、嬉しい。その姿を想像するとつい頬が緩みそうになる――が。
「――そういう頑張り屋なところは見栄っ張りですが可愛いところでもあると思いますけど。
前向きな努力は無駄にはなりませんしね。
練習とは言え冬にマフラーを編んでもらえた時には思いがけず嬉しかったものですし。
まぁ、習作ってことで出来はお察し状態でしたけど……」
色々思うことがあるのか、しみじみ記憶に浸る弟。
すらすらと出てくるアレクの言葉の羅列に、一々アーサーは引っ掛かってしまうのだ。
「………アレク」
いつも一緒で、同じ館に暮らす姉と弟という家族。
だが実際に仲良く過ごしている様子を実際に本人から聞かされると、何だか蟠りでモヤモヤする……!
「――な、何ですか? ……え。無表情やめてください! 怖い怖い! 怖いです!」
「ということは……あのクッキーも、マフラーも最初にもらったのはアレクと言うことになるのでは?」
「えー……
あんなの練習台というか踏み台以外の何物でも……
うっ。
顔が! 顔が近いです、兄上! そんな顔でこっちに来ないでください! 怖いですって!」
こんな自分は知らなかったし、知りたくなかったかもしれない。
実の弟に嫉妬の感情を覚えるとは、余裕がないにも程がある。
みっともないというか、情けないというか、度量が狭いというか。
もう少し気を引き締めないと、カサンドラにもどう思われてしまうか分からない。
今は自分の事を好きだと思っていてくれているらしいが、人の感情に”不変”などないはずだ。
だからこそ今よりもっと好きになってもらえるように、良く思われるように努力は続けていくべきで。
ああ、そういうところが弟の言う『いい所を見せたい』欲求に当てはまるのかもしれないなと思った。
※
数年もの間。互いに存在を感知することなく離れて暮らしていた。
一晩では全く足りない。
話すことは尽きず、色んな話をした。
沢山沢山。あとからあとから湧いてくる、身近な人の話。
学園の話。
レンドールの話。
友人の話。
自分は、弟は、こんなにお喋りな人間だったのか? と驚くほど話題は尽きなかった。
その沢山の話の中、どうしてそんなことを聞くんだろう? と不思議に思った質問もある。
だが――
次から次へと流転する話題に呑まれ、そんな僅かな疑問も明け方の光に吸い込まれて溶けていく。
幸せな時間はいつだって過ぎればあっという間過ぎて、物足りない。