前回は芸術作品がもつ性質を、鑑賞者にとっての受信様式で大別しました。大雑把には直感経由か思考経由かで分けることができ、直感経由だと消耗品になりやすいって話でしたね。
この点についてAI作品との関係を先に言わせて頂くと、
・消耗品はAI作品でも十分すぎるほど機能する
です。
たとえばCG。これ、でかでかとプリントアウトして額縁に入れ、部屋に飾って日々観賞する人なんてほとんどいないでしょう。「なんかいいな」って感じのイラストを大量に集めてストレージに保存しておくような場合、これらは基本的にたまに見返す程度の・・・最悪二度と見返すことすらない消耗品です。あるいはBGM用の音楽。これも、音楽から何かしらのメッセージを受け取りたいのでもない限り、消耗品として扱われます。一時の暇つぶしとか作業のお供とか長距離ドライブのラジオ番組代わりとか、そういうのはAI作品でも十分なんですよ。作る側も大抵はそういう覚悟で作っているはずでして、そこまでの労力をかけずに作れる(=消耗品に相応しい労力で作れる)ところがAI作品のウリと言えるでしょう。実際、消耗品として作られる作品群であれば、AIの方が圧倒的にハイクォリティで大量生産がきくと思われます。
逆に、同じ絵画でも制作者の人生が如実に表れてくるような作品は、消耗品ではなく文化財です。音楽でも同様。(※) AIでそういう作品を生み出すことは、もちろん不可能ではないでしょうが、結局それはAIの開発と使いこなしに想像を絶する時間を消費することとなり、AIの本来的メリットである時間効率を失うことになります。
※・・・歴史に名を残している名画や名曲は、言うまでもなく文化財です。こういう作品と消耗品を分ける決定的な違いは、「固有の情報」を抱えているか否かに求められます。すなわち、文化財は頭と労力を駆使しなければ、その真価に辿り着けない固有の情報を抱えているんです。そういうものを無視した表層的な楽しみ方もできるし、専門家がメシの種にできるくらいの奥深い情報も抱えている。ここがAI作品との決定的な差でしょう。逆にAI作品は「固有の情報」が稀薄です。誰でも似たようなものが作れてしまうという点において、AI作品の背景には固有性がないのです。
では、我々が取り組んでいる文学はどうか。
・文学にも消耗品として扱われるものと、文化財となりうるものがある
・漫画も同様
・文化財に昇格するための条件は、ストーリーのウェイトが大きい(※※)
※※・・・このことは、海外作品の翻訳作業を見れば明らかです。我々は海外作品を必ずしも原文で理解する必要はありません。ただし、原文で読まないと伝わらない魅力があることも事実なので、文体の魅力を否定するつもりもありません。漫画で言えば、絵が抜群に上手いけど中味のない作品と、絵は下手くそだけど中味の濃い作品のどちらが評価されるかって話と同じです。
ポイントは、文体(言葉遣い)の魅力が比較的直感的に伝わるのに対し、ストーリーの魅力は理解に訴えて伝わる点にあります。すなわち、作品の価値をストーリーに求めれば求めるほど、大量消費に向かなくなってしまうんですね。たとえば、CGであれば作品の良し悪しなんて1秒でも判断できるのに、文学なんて最短の俳句でさえ10秒くらいは欲しくなる。頭の中で反復して、情景を思い浮かべて、季語や掛詞を解析して、ようやく作者の思惑に辿り着く。頭を使わないとまともな判断すらできないのが言葉の良いところでもあり、悪いところでもあるのです。
前々回「読みにくい文章でも、内容がしっかりしていれば読んで受け入れてもらえる余地がある点で、(小説は)音楽や絵画より技術依存度が低いのです」と書いたのは、作品の受容様式が直感か理解かで決定的に異なるからと言えるわけです。
で、ここからがこの話の本題。中毒性が悪用されるとどうなるのかです。
(つづく)