昨日ご紹介した動画を見ている人限定でお読み下さい。見なかった人は前提共有が出来ていませんので、ここでお引き取りを。
旧来の小説賞は審査員への過剰負担によって「権威主義化」してしまった。審査員は作品を熟読する間もなく、チラ見して面白くないと思ったものは次々切り捨てた。
その点、小説投稿サイトは「評価の民主化」に成功した。しかし、結果として作者は読者に迎合せざるを得なくなり、作品の個性は失われた。直接民主政からの衆愚政治という流れは、アテナイを彷彿とさせるわけです。
民主主義については、かわぐちかいじ先生の名作『沈黙の艦隊』で、人類が獲得した最も偉大な資産であると同時に、その民意を吸い上げるシステムは不完全であることを、新時代のコンセンサスとして認めねばならないと語られています。まさにですね。ネット社会をもってしても、民意の適正な吸い上げは達成されていないと、我々は認めるべきなのでしょう。
そして、そういう(意思伝達が)不完全な社会の中で、適者生存の競争が行われている。権威的小説賞に特化した旧来型の作品と、大衆娯楽に特化した現代型の作品と、さてどちらが優れているかと言われると、それはそれぞれのシステムに適合しただけの話であって、どちらもその評価基準に最適化された作品なのですね。
こうしてみると、民主主義とは大衆にひとつの価値観が共有されたとき、そこに歯止めをかける術を持たないシステムであることがわかります。これを小説賞の歴史で考えると、多様性を阻む力が圧倒的に強いのは、実は民主主義(小説投稿サイト)であるという逆説的な皮肉に結びつくことになる。面白いものです。
権威主義的な価値観で運営されてきた時代の小説群には、その道の権威に認められずに日の目を見ることのなかった名作が、多々あったことでしょう。それらは大衆の目に触れる機会すら与えられませんでした。それでも常に「それまでにない作品」を追い求める姿勢が残されていました。
民主主義的な価値観で運営される現代の小説群は、ありとあらゆる作品が読者の目に触れる場所に置かれています。この意味では多様性が確保されています。しかし同時に、読者の価値観を前提とした作品群以外が数的劣勢に立たされることは最初から確定しており、「それまでにない作品」は必要とされなくなりました。
旧来型の小説評価システムでは人目に触れなかった数々の作品が、読者によって直接的に評価される時代となった現代の投稿サイト。そこは民主主義というものの意義と限界を突きつけている場でもあったのだと、そんなことを実感した次第です。