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杜若狐雨

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  • 16時間前

    AI作品と中毒性への警鐘②

    前回は芸術作品がもつ性質を、鑑賞者にとっての受信様式で大別しました。大雑把には直感経由か思考経由かで分けることができ、直感経由だと消耗品になりやすいって話でしたね。 この点についてAI作品との関係を先に言わせて頂くと、 ・消耗品はAI作品でも十分すぎるほど機能する です。 たとえばCG。これ、でかでかとプリントアウトして額縁に入れ、部屋に飾って日々観賞する人なんてほとんどいないでしょう。「なんかいいな」って感じのイラストを大量に集めてストレージに保存しておくような場合、これらは基本的にたまに見返す程度の・・・最悪二度と見返すことすらない消耗品です。あるいはBGM用の音楽。これも、音楽から何かしらのメッセージを受け取りたいのでもない限り、消耗品として扱われます。一時の暇つぶしとか作業のお供とか長距離ドライブのラジオ番組代わりとか、そういうのはAI作品でも十分なんですよ。作る側も大抵はそういう覚悟で作っているはずでして、そこまでの労力をかけずに作れる(=消耗品に相応しい労力で作れる)ところがAI作品のウリと言えるでしょう。実際、消耗品として作られる作品群であれば、AIの方が圧倒的にハイクォリティで大量生産がきくと思われます。 逆に、同じ絵画でも制作者の人生が如実に表れてくるような作品は、消耗品ではなく文化財です。音楽でも同様。(※) AIでそういう作品を生み出すことは、もちろん不可能ではないでしょうが、結局それはAIの開発と使いこなしに想像を絶する時間を消費することとなり、AIの本来的メリットである時間効率を失うことになります。 ※・・・歴史に名を残している名画や名曲は、言うまでもなく文化財です。こういう作品と消耗品を分ける決定的な違いは、「固有の情報」を抱えているか否かに求められます。すなわち、文化財は頭と労力を駆使しなければ、その真価に辿り着けない固有の情報を抱えているんです。そういうものを無視した表層的な楽しみ方もできるし、専門家がメシの種にできるくらいの奥深い情報も抱えている。ここがAI作品との決定的な差でしょう。逆にAI作品は「固有の情報」が稀薄です。誰でも似たようなものが作れてしまうという点において、AI作品の背景には固有性がないのです。 では、我々が取り組んでいる文学はどうか。 ・文学にも消耗品として扱われるものと、文化財となりうるものがある ・漫画も同様 ・文化財に昇格するための条件は、ストーリーのウェイトが大きい(※※) ※※・・・このことは、海外作品の翻訳作業を見れば明らかです。我々は海外作品を必ずしも原文で理解する必要はありません。ただし、原文で読まないと伝わらない魅力があることも事実なので、文体の魅力を否定するつもりもありません。漫画で言えば、絵が抜群に上手いけど中味のない作品と、絵は下手くそだけど中味の濃い作品のどちらが評価されるかって話と同じです。 ポイントは、文体(言葉遣い)の魅力が比較的直感的に伝わるのに対し、ストーリーの魅力は理解に訴えて伝わる点にあります。すなわち、作品の価値をストーリーに求めれば求めるほど、大量消費に向かなくなってしまうんですね。たとえば、CGであれば作品の良し悪しなんて1秒でも判断できるのに、文学なんて最短の俳句でさえ10秒くらいは欲しくなる。頭の中で反復して、情景を思い浮かべて、季語や掛詞を解析して、ようやく作者の思惑に辿り着く。頭を使わないとまともな判断すらできないのが言葉の良いところでもあり、悪いところでもあるのです。 前々回「読みにくい文章でも、内容がしっかりしていれば読んで受け入れてもらえる余地がある点で、(小説は)音楽や絵画より技術依存度が低いのです」と書いたのは、作品の受容様式が直感か理解かで決定的に異なるからと言えるわけです。 で、ここからがこの話の本題。中毒性が悪用されるとどうなるのかです。 (つづく)
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  • 1日前

    AI作品と中毒性への警鐘①

    今回からの3回では、鑑賞者側から見たAI作品の危険性について書こうと思います。 鑑賞者にとってAI作品の何が怖いかと言えば、それは中毒性のある音情報や光情報が濫造される可能性が高いことだと思っています。(あくまで個人の見解です。他の危険性を感じていらっしゃる方や、そもそも危険性を感じてないって方もいらっしゃるとは思いますが、そういう方々には是非ご自身のページで存分に語って頂きたく) 何を言ってるんだと思われそうですので観賞スタイルの問題から説明しますが、音楽や絵画は五感に直接訴えるんですよ。これに対して文字情報は、必ず人間の頭の中で冗長な思考回路を経由してから解釈されます。これは、言語や文字というものが本質的に「他人の頭の中にある情報塊」を伝達するための仕組みだからです。すなわち、発信時点であらゆる五感情報を含んでいる可能性があり、それらに幅広く対応すべく、無駄に終わるかもしれない情報も包括した冗長な伝達手段が用意されているのが言語です。汎用性と効率性のトレードオフを考えた場合、汎用性を高めて効率性を落としているのが言語と言ってもいいです。 で、言語や文字では、こうした情報塊の言語化というプロセスを経ているので、それを受信した側でも言語を当初の情報へと復元するプロセスが必要なんです。そこにはある種の曖昧さ、不確実性がつきまとっており、ゆえに受信者は解釈という行為を挟む必要に見舞われます。これに対して、音や光は「受信者本人が直接感受する情報」なんですね。伝達できる情報の汎用性は低い代わりに、効率が圧倒的に高い。ファンタジー的に言うなら、音楽絵画はテレパシーに近いってことです。 次に中毒性について。中毒とは、脳が快感だと認識した刺激に対して「もっとくれ」状態になることです。快感刺激を立て続けに消費したがる状態になるってことですね。この「立て続けに消費」と相性のよい快感刺激とは、判断が手短に済む刺激。直感や本能に訴えるものほど、こちらに近づくことになります。このため、中毒性のあるAI作品の多くは、文学ではなく音楽や絵画に集中する可能性が高いんです。 言い方を変えれば、音楽や絵画は小説よりも「消耗品」として扱われる可能性が高いということです。一口に芸術作品といっても、消耗品として消費されるものと、何かしらの形で心に残り長くその人の生活に寄り添うものがあり、音楽や絵画でその領域に辿り着くことは、本当に難しいんですね。 (つづく)
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  • 2日前

    阿波番茶

    先日「コーヒーにあってお茶にないものは酸味」と書いたのですが、その例外とも言えるもののひとつが今回採り上げる阿波番茶です。カルディで「乳酸発酵」の文字を見かけてテンションが上がりました。 結論から言うと、なんとも中途半端なお茶という感じ。香り高いかと言われればそうでもなく、味わい深いかと言われてもそうでもなく、期待した酸味はどうかと言われればむしろ弱いくらいで存在感がない。う~ん・・・。 いえね、スッキリした味わいで、渋みもないし、後味はとても綺麗です。それが長所なんでしょう。ただ、それらすべてが「薄い」の裏返しでもある。要するに、すべてにおいてインパクトが弱すぎるんです。これが阿波番茶だと言わせるような特徴がないんです。乳酸発酵させていることからも明らかなように、酸味に特徴があって然るべきお茶のはずなんですが、どこもかしこも物足りなくて、酸味云々を語れるレベルにないと言いますか。 最大限によく言えば、クセがなくてサッパリしていて飲みやすいお茶。水出しに向いているんじゃないかなぁという気がしないでもありません(未検証)。こういうお茶が嫌いなわけではないのですが、自分ならハイビスカスティーとかハーブティーを選んじゃいます。 というわけで、せっかくお茶にはない酸味を補ったはずなのに、酸味以前にすべての点で訴求力の小さいお茶って感じになってしまいました。残念ながらリピートはなしです。低カフェインらしいので、カフェインに気を使っておられる方には向いているかもしれません。
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  • 4日前

    AIの活用について(芸術編⑤)

    皮肉なことに、日本の文学賞(特に芥川賞)は、この作文技術にかなり比重を置いた評価を下していたと思うのですよね。平野啓一郎の『日蝕』なんかは、その難解な文体が高く評価されたんじゃなかったでしたっけ。審査委員(三浦哲郎・石原慎太郎・田久保英夫)が口を揃えて「辞書を片手に読んだ」とコメントしていたことは有名です。私が従来の文学賞を「作品評価の権威主義」と呼ぶのは、そういう(市民感覚との)ズレを如実に感じるから。一般人が辞書を片手にわざわざ本を読みたいかと言えば、それは断じてノーなんです。いわば、審査員たちの「我々にはこんな難解な文学の素晴らしさが理解できるのだ」的優越感を感じてしまったわけですね。でも、それって今となってはAI任せにできそうなジャンル(つまりは文体模倣の技術)に持って行かれちゃいそうですよと。芥川賞が衰退の一途を辿っていることを、私はこういう「勘違い権威主義」がもたらした必然だと感じています。(※) ※・・・もちろん、格調高い文体が作品の中でストーリーと高く調和され、それがストーリーや読みやすさ(作品理解のテンポ)を引き立てる脇役に徹しているのであれば、その文体が高く評価されるべきであることは言うまでもありません。漢文体の頂点を極め、無駄な描写を一切省き、ストーリーの純粋結晶とでも言うべき短編を書き上げた中島敦はその代表格です。 でまあ、そういう「勘違い権威主義」の方々が「美しい日本語」の規範としているのが、明治・大正・昭和の文学なんですね。平野啓一郎の『日蝕』もそういう擬古文体で書かれています。彼らの感覚は、どうも現代作品(流行)に対して否定的というか、歴史の審査を経ていないものを低く見るというか、要するに過去の文壇が下した評価に責任を押しつけ、自分の感性に従って下すべき本来的判断から逃げ出しているように見えます。 しかしながら、現代を生きる我々が昔の日本の文化・生活状況・常識などに寄り添うことは大変難しい。仮に百年前「美しい日本語の見本」とされた文章であろうが、所詮は近代文語文。現代人にとっては馴染みの薄い文体でしかないんです。残されたのは歴史的価値、資料的価値、教養的価値でしかない。内容の伴わない技術特化・時代依存の作品は、AIに任せてしまえばいいと思いますし、それこそAI学習の格好の餌食になると思うわけです。すなわち、「文章が美しいだけ」(明治・大正・昭和時代に文壇でもてやはされた文体を真似ただけ)の小説でいいなら、AIはいくらでも生み出せるでしょう。なぜなら、文章的な美しさは、数値的な評価に置き換えることが容易だからです(少なくともストーリーの伏線や矛盾を数値化するよりは遥かに楽)。 というわけで、私は小説の核心がストーリーにこそ求められるべきだと考えてますし、だからこそ小説執筆におけるAIの導入は「技術」に留めるべきだと考えています。それすなわち、「美しい日本語」に整えてもらう作業をAIにやってもらうことは、構わないと思います。知識の補完もこの範囲。大いに結構。ただ、ストーリーそのものをAIに作ってもらい、圧倒的な試行回数を稼ぎ、その中から面白そうなものを探っていく・・・という使い方をしている方もいらっしゃるとは思いますが、それは一体何のために創作しているのか、理解に苦しむと申しましょうか。そもそも、創作(自己表現)において一番の核心である部分を自分以外の存在にまかせてしまうということ自体が、中味のない人間であるという吐露に等しい気がしますけど、私だけですかね。 といったあたりで、そろそろまとめに入ります。 ・芸術には技術重視分野と着想重視分野がある ・音楽や絵画(写実性の高いものや和音を基本に忠実に使った楽曲等)は技術重視分野に見える ・小説は着想重視分野に見える(言葉遣いが巧みという技術一本では生き残れない) ・AIは正解のある技術を学ぶことには長けているけど、正解のない着想を学ぶことに長けているとは思わない ・一貫性と意外性を兼ね備えたストーリーを作ることはAIの苦手分野で、そもそもそういう学習素材それ自体が少ないと言わざるを得ない こんな感じでいかがでしょう。 なお、この連載では書きませんでしたが、 ・芸術には瞬間芸と長尺芸がある という対比から芸術系AIを語ることもできます。 まあ、日進月歩の世界ですので、近いうちに印象が変わるかもしれませんけど。 次回からは「絵画や音楽の方が、小説より技術依存度が高い」ということの意味を、鑑賞者の立場から検討していこうと思います。 (つづく)
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  • 5日前

    AIの活用について(芸術編④)

    (小説は技術依存度が比較的低く済んでいる・・・と書いたところで前回は終わりましたので、そのつづきから) 理由はいくつかあります。まず、小説の技術は、それが判断されるまでに時間がかかります。「この人の文章は上手い」「言葉遣いがなってない」といった判断を下すまでに、絵画より遥かに長い時間が必要なんですね。文章それ自体が一次元に並べられた文字の配列であり、読者がその線上を目で追いかける以上のスピードでは情報を吸収できない以上、これは必然です。この点、絵画は二次元に配列された光情報を受け取る観賞物であり、その判断は小説よりも遥かに直感的・瞬間的に行われます。そして、この時間差のおかげで、小説では評価が確定するまでに主題の面白さまで目を向けてもらえる可能性があるところが大きく違う。すなわち、読みにくい文章(技術的に拙いところのある文章)でも、内容がしっかりしていれば受け入れてもらえる余地がある点で、音楽や絵画より技術依存度が低いのです。 また、技術的専門性においても、他分野よりは圧倒的に有利でしょう。なぜなら、小説を書く人間と読む人間の一人一人が、その言語のネイティブだからです。読む側の影響は特に大きく、筆者が多少崩れた日本語を使っていても、ネイティブな読者ならその瑕疵をカバーしてくれます。(※) 言葉というものは、同一対象であっても個々人によってかなり表現が変わるものという前提が共有されており、「正解」を定めるのが難しいのですね。絵画や音楽に比べて、遥かに数値化しにくい分野です。技術的な優位性が築きにくいと言ってもいいです。 ※・・・物理学者のR.P.ファインマンはブラジルで講義をした際、正しい情報をきちんと口にできている英語で授業するのと、正しくないところが多々あっても現地の言葉で授業するのとを両方試した結果、後者の方が遥かに生徒に内容が伝わったと語っています。 この意味において、小説は絵画より遥かに主題の面白さで勝負できる分野です。技術依存度が低いというのはそういうこと。ゆえに、人間はまだAIと勝負できる気がすると申しますか・・・AIがシナリオ考えたドラマとか映画とか、見てみたいと思いますかという話。自分は別に興味湧かないです。 逆に言うと、技術特化の小説は埋もれていくというか、AIに取って代わられやすいと言うこともできます。特徴的な言葉遣い、あるいは正確無比な文章力で読者を魅了するタイプはこちら。前々回例に挙げた森鴎外なんかはその典型でしてね。実際、『舞姫』の作品的価値がどこにあるかといえば、「圧倒的に美しい日本語」とやらにあるんだそうですよ。それって要するに、言語を操る技術の話なんです。けど、読者はそんなもの求めてますか?文章が美しいから何だというんですか。『舞姫』を読んで感動したという人が、一体どれだけいるんですか。(※※) 私には、異国の女性を食い物にしたクズ男(しかも元ネタは作者自身)が、表面的な美しさで己を取り繕おうとしている、まさに知性の悪用にしか見えません。こういう「知性の怪物」「美しい言葉による自己正当化」に対しては嫌悪感すら感じます。 ※※・・・気になる方は『森鴎外 舞姫を読んで感動した人ともやもやした人、どっちが多い?』で検索かけて下さい。AIさんが答えを教えてくれるでしょう。なお、舞姫の内容には批判的でありながら、その文体の美しさを絶賛した著名人には、たとえば三島由紀夫がいます。 小説(特に大衆文学界)において求められているものの比重は、圧倒的にストーリー(作品全体を貫く主題と構造)なんです。文章の美しさじゃないんです。そのことは、ラノベで知名度を上げた作品群が、コミカライズしても人気を博していることからも明らか。そこで求められているものは、明らかに文章ではなくストーリーです。 (つづく)
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  • 6日前

    AIの活用について(芸術編③)

    これは知り合いの音楽家が教えてくれた話なのですが、多くの作曲家を(音楽家としての立場から)解析すると、主題として面白い曲は若い頃の作品にこそ多いのだそうです。しかし、多くの作曲家にとって代表作とされるものは、ある程度年齢を重ねてからの時代に偏っている。なぜか。作曲という分野において大事なのは、主題の面白さより作曲技術であるからだ・・・とその知り合いは語っておられました。 わかりますかね。編曲・転調・変奏といった技術の完成度の方が、楽曲評価に対するウェイトが大きい。絵画でいうなら、面白いモチーフを独創的な構図で描いた作品より、ありふれたモチーフであっても完成された筆遣いで描いた作品の方が評価されるという感じでしょう。言い換えるなら、我々は絵の上手い下手をまず(技術面で)直感的に判断しており、その水準をクリアしたものでないと内容まで踏み込んで精査しようとしないんです。AIによる一枚絵が高く評価されるのは、技法(色の塗り分けやグラデーション、光の使い方等々)が完璧だからだと思います。 御存知の方も多いと思いますが、 https://www.cnn.co.jp/tech/35192929.html AIが本格的に社会進出してきた頃、こういう事件がありました。この絵に対する私個人の評価は「素晴しい」です。光の使い方が完璧ですからね。AIだから悪いとは、これっぽっちも思いません。これを芸術の敗北だと感じる人は、絵画の評価項目で何が優先されているかを考えるべきだと思います。 芸術においては、この「主題の面白さ・着眼点」と「完成された技術」の綱引きを常に考えておく必要があります。そして、技術力で戦う限り、もはや人間はAIに勝てない時代なんですね。なぜなら技術とは反復学習によって獲得される、数値化可能な指標だからです。 ただ、小説が音楽・絵画と決定的に違うのは、技術依存度が比較的低く済んでいるという点なんですよ。というあたりで次回につづきます。
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  • 10月25日

    AIの活用について(芸術編②)

    では、AIが書く小説(文章)はどこに位置するでしょうか。私が考えるポイントは以下の3点。 ①言語能力においてAIが人間を上回るのは、知識量と語彙力、情報解析力、そしてアウトプットスピード。 ②学習素材で変化しそうなのが、感性と言葉遣いの正確性。 ③物語としての一貫性、ストーリー展開の意外性において、AIが(じっくり時間を費やした)人間を上回ることは(現状)難しい。 まず①から。知識量・語彙力・情報解析というのはAIの得意分野でして、人間がここでAIと勝負することはできません。およそ文章を読み、その情報をインプット・スキャンするスピードが違いすぎるからです。アウトプットスピードについては言わずもがなでしょう。なので、私はこの点においてAIを活用することは大いにアリだと思っています。(一部の作者様方はそういう使い方で多大な成果を出していらっしゃるようにお見受けします) つづいて②。感性と言葉遣いの正確性については、時代と共に変化するものなので、何とも言えません。ある時代に正しいとされた言葉遣いが、別の時代には不正確とされることがある以上、AIのアウトプットは学習素材の時代に大きく影響されることになります。その時代と評価関数を支配しているのは実は人間でしかなく、AIのアウトプットと読者がマッチするかどうかは巡り合わせ次第です。この点で、AIにとっての明確なアドバンテージとはならないと思っています。(ただ、今の時代に『源氏物語』の続編を書いてくれる人が現れないかな、みたいな需要が出てきた場合、当時の言葉を学習する能力の高いAIの方が圧倒的に有利だと思います) 問題は③の一貫性・意外性。これ、AIの苦手分野です。一貫性については、Windows11の問題で書いた通りでして、局所的にうまく動作するプログラムが書けたからといって、それがOSという巨大システムに組み込まれたとき不具合を発生させない保証はありません。人間ならば、矛盾だらけのつぎはぎ作業でも、何とか優先順位(Windowsで言うならOSの動作安定性など)を確保して、全体の辻褄だけでも合わせようと努力したりするものですが、AIはその努力をあからさまに放棄してしまいます。先日「ここが私の限界です」とAI自らが申告してきたというお話を伺いましたが、まさにそんな感じでしょう。AIは目の前の課題に集中するあまり、全体の優先順位を見失うということをしばしばやらかしているのです。同様の理由から、AIが作ったストーリーには一貫性保証がありません。「バグ」を優先順位に従って除去する能力が低いんです。AIは「ある言葉の次にはこの言葉が来る」みたいなことを、ショートスケールで推論しつづけているにすぎず、大規模な一貫性を維持することが(今のところ)苦手に見えるんですね。AIの理解が「ポチョムキン理解」と呼ばれる類のものであることは、以前にもご紹介させて頂きました。 もっと言うと、そもそもの学習素材として、全体的な一貫性を維持できている長編大作それ自体が多くない気がします。歴史的名作と呼ばれる価値基準それ自体に、当時の文化的背景などの問題が複雑に絡み合ってくるため、この問題はかなり厄介です。たとえばヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』なんかは、キリスト教的な『神による赦し』という価値観を理解していなければ「何このエンディング?」になりかねませんし、日本の大正・昭和初期に大量生産された私小説の類も、作者の価値観(当時の社会観・倫理観・恋愛観等)に寄り添えなければ「は?」で終わります。典型は森鴎外の『舞姫』あたりかな。あれに感動できる現代人は、もはや絶滅危惧種でしょう。言い換えるなら、当時の文学作品で名作とされたものであっても、普遍性をもって現代でも名作として通用するものと、現代では(小説としては)見向きもされないものとは厳然として区別されてしまう。この評価を下すのは、結局その時代を生きている人間にならざるを得ないんですね。 意外性はもっと苦手な分野でして、たとえば写実絵画ばかりを学習してきたAIが、ピカソのキュビズムを生み出せるかという話。無理でしょう。坂口安吾の『桜の森の満開の下』なんかは、私は大好きな作品ですが、あの意外性をAIが学習できるか(あの「美と狂気」という鮮烈な組み合わせを備えた学習素材が潤沢に存在するか)と考えると・・・う~ん。 ここで我々は、芸術に必要なもの(=鑑賞者の感動に占める比重がより大きなもの)が着想か技術かという命題に直面します。 (つづく)
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  • 10月22日

    AIの活用について(芸術編①)

    前回まではAIの使用を(一般人向けに)広く捉えて、その大雑把な適用場面について論じました。今回からは芸術に特化した場面を想定して、AIの向き不向きを考えようと思います。 結論から言うと、芸術におけるAIは、技術の補完ツールであると思います。その結果として、技術が支配的な芸術分野には強いはずであると想像します。技術には「正解」があり、その成果を評価関数化しやすい(すなわちAI学習に向いている)からです。 私は自分の小説においてAIを使うことはないと明言しましたが、芸術や創作にAIが入り込んでくることを否定するつもりはないんですよ。わかりやすい例としては、今やプロをも超える棋譜を簡単に生み出せる囲碁将棋チェスのAIを使って、囲碁将棋チェスの漫画を描くなんて使い方はアリというか、むしろガンガンやるべきだと思っちゃいますね。棋力がすべてのあの世界を描写する上での説得力が、格段に上がるからです。っていうか、プロの超強い人を描いている漫画で、紙面に描かれている盤面が素人レベルだったら、むしろ読む気が失せますよ。小説や漫画を描く技術を磨いている人が、それ以外の技術(ここで言うなら棋力)を補完するのにAIを使うのが悪いことだとは全然思いません。 作る側ではなく享受する側に立っても、AIの善し悪しはケースバイケースだと思っています。たとえば、最近の私はAIが作った音楽をよく聴いてます。巷に溢れるJ-POPのヴォーカルより遥かに歌が上手いからです。 日本の歌謡文化では伝統的に「音程が安定しない」という致命的弱点を抱えており(日本には幼い頃に絶対音感の訓練をする文化がない・教会音楽のように和音を解析する文化がない)、AIはこの点において遥かに安心感があるんです。音程もリズムも滅茶苦茶正確です。その代わり、時々歌詞を読み間違えたりする。「退く」を「たいく」と読んだりするんですよね。まあ、白けるっちゃ白けますよ、当然。 では、音楽として「音程・リズム」と「歌詞」のどちらを犠牲にできるかと言えば、それは「歌詞」の方でしょうと。歌詞の読み間違いは言語的なやらかしですが、音程やリズムの不正確さは音楽的なやらかしなんですから。なので、こう言ってはなんですが、音程の安定しない名ばかりアーティストの歌を聴くくらいなら、AIヴォーカルの方が上になっちゃっているのです。これは「喉を楽器として使う」という技術において、日本歌謡界がその精度を高めてこなかったツケだと思います。(なお、クラシック界の方々は、こうした技術をきちんと修めていらっしゃいますので、誤解なきよう。ここで指摘しているのは、いわゆるJPOP界隈の話です) 逆に、洋楽の本当に上手いヴォーカリストの声を知っていれば、少なくとも洋楽をAIヴォーカルで聴く価値は感じません。人間の喉がいかにすぐれた楽器となりうるのかを、彼らは教えてくれます。そこには、人間極めればここまでの領域に到達できるんだという感動があるんです。(もちろん、日本人でもごく少数ですが、そういうヴォーカリストはいらっしゃいます。念のため) すなわち、アウトプットが同レベルであれば、AIよりは人間の方が断然いい。この心理的アドバンテージは確実に人間が持っていると思うわけですね。 次回は我々が深く関与している、文章生成AIについて書こうと思います。
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  • 10月18日

    AIの活用について(一般論編④)

    前回は、「答えを先に知ること」の弊害について、学問の歴史を参考にしながら語りました。今回は、同じことをもう少し別の角度から説明してみようと思います。そのポイントとなる事実として、「成長の速いものは滅ぶのも速い」を挙げておきましょう。 植物の世界では、ヒマワリ、アサガオあたりが典型的な事例になります。2~4ヵ月で数メートル伸びますね。その代わり、シーズンが終わるとあっという間に枯れていきます。これは、限られた季節・条件下でのみ急速成長できることに特化した戦略です。その目的は、太陽光という資源を(他の植物より)効率的に確保すること。成長スピードが遅い植物は、こうした植物の日陰に追いやられて太陽光を得にくいというデメリットを抱えているのです。その一方で、最終的に太陽光を独占してしまう巨大な樹木に育つような植物(たとえば杉)は、最初の数年を根を張るための時間に費やします。序盤のデメリットは覚悟の上なんですね。そして、1年で50cmくらいずつ、ゆっくり時間をかけて成長していくのです。 ビジネスでも似たような現象は知られています。ベンチャー企業の隆盛なんかが典型的ですね。時代の波に乗って一時的なヒットメーカーにはなれても、その時代が終わると同時にあっという間に廃れてしまった実例は、誰でも見覚えがあるはず。「脱毛エステ」とか「唐揚げ専門店」とか「高級食パン」とか、最近の出来事だけ集めても話題には事欠きません。速すぎる成長は、どこかで無理をした結果、あるいは偶然に恵まれた結果でしかなく、そうやって見かけ倒しの成長をしてしまった者は、時代や環境に合わせて己を最適化し続ける能力が低いのです。 では、植物とビジネスの決定的な違いはどこにあるか。植物の方は、一年経てば同一環境が再現されることが約束されているんです。だから急速成長・急速繁殖という戦略は合理的に振る舞える。仮にヒマワリが巨大な樹木に太陽光を奪われてしまったとしても、種子を大量に残してばらまけば、別の場所で同じ戦略をとることができます。しかし、ビジネスの方では、ある企業が急成長できたのと同じような社会状況など、ほぼ再現性がありません。企業は時代に合わせて変革することを、常に求められているのです。成功体験にしがみつくことは許されません。 ゆえに、限られた資源の配分を深く考えず、自己変革の余地すら削り、規模の拡張(店舗数だの全国展開だの売上高だの)に全振りして人材育成や不採算店舗を放置すれば、一見調子良く見えても倒産は突然やってくる。遠藤商事が運営していたNapoli'Sとかわかりやすいですね。(ご存知ない方は、たとえばこの動画。なお、最初の1分は茶番なので見なくていいです。https://www.youtube.com/watch?v=s9jTtHF4ZbA ) 中味ある成長と、中味スカスカの膨張は別物。この中味スカスカで見かけだけの急成長のことを、世間様ではバブルと呼んでいたりする。膨らみまくったハリボテの皮が弾けた後で、そこに中味など何もなかったと気づいてみても、もう遅い。 これは知性や人格形成についても言えることです。AIが抱えている「正解主義」は、使用者から考える時間を奪います。我々が持っている時間という資源の配分を、強制的に結論を知ることに振り分けるんですね。それが効率的に機能することは、当然あるでしょう。ただ、「困ったときのAI頼み」に依存すれば、それ以外の代替手段を持たないことになり、自己変革の柔軟性は失われます。本当の意味で効率的であったかどうか、本来達成すべき目的に対して有効であったかは、深く検証されねばなりません。上手に使えば資源の無駄を減らせるAIですが、下手に使いすぎると本来使われるべき時間をも切り捨ててしまうんです。 その時間という名の資源の振り分けが上手くできるかどうかは、結局のところ個人の資質に委ねられてしまいます。で、見極めのできない人が使った途端、Napoli'Sの倒産劇みたいなことになっちゃうのですよ。ある答えを盲信し、その答えに向かって突き進み、それ以外のことは顧みなくなる。たまたま良好な結果が出ると、その条件に再現性があるか検証もせず、成功体験に縛られる。答えを教えてもらうばかりで、本当にやるべきことを自力で考える能力を育ててこなかったことを、ある日突然突きつけられる。 そしてそれは、AIそれ自体が「答えをアウトプットする存在である」ことに根源があります。先にAIの長所は時間だと書きましたが、これは長所であると同時に短所でもあることを、使用者はわかっておかねばなりません。 AIは確かに、人間では不可能なスピードで優れた(妥当性の高い)答えを提案してくれますが、それは人間が自分自身で考察し、その考察の過程で手にすることができたかもしれない「経験」という名の資産を捨てていることでもあるのです。そもそも、今や誰もが気軽にAIを使えるようになった時代ですから、AIが与えてくえる答えなんて、誰もが手にすることのできる答えなんですよ。ゲーム理論によれば、あるゲームにおいて仮に最適戦略があった場合、全員がその戦略を選ぶことで膠着状態しか生まれない。そういう話になりかねません。 人間が一番成長するのはいつですか? わかりもしない答えを必死に求めて苦しんでいるときにこそ、人は一番成長するんです。人類の歴史はそのことを如実に物語っています。 そして、人が人に惹かれるのは、そういう苦しみに共感したときなんです。苦しいときにAIに相談して、安易な答えを求め「これが正解」などと語る人間に、他人は決して魅力を感じません。自分では何も考えられない人間、苦しみに対する耐性が低い人間だと見られるだけ。言い換えれば、その人の吐き出す言葉は、その人が語らなくてもAIが語ってくれるってことです。言葉に人格が宿らなければ、その人の言葉として発せられるべき必然性は消滅します。そういうのは文章に出ます。 AIは確かに優れたツールであり、それによってできることも素晴しいですよ。だからといって、自分が「AIの代弁者」に堕落してしまっては笑い話にもなりません。AIを使う人・作る人・賛美する人は、「人間が捨ててしまうもの」の価値にも目を向けておく必要があると思うのです。 次回からは、我々にとってより切実な意味を持つ芸術系AIについて書こうと思います。
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  • 10月17日

    AIの活用について(一般論編③)

    先日、ある方から「(AIは)まず、それが正解です。あなたは正しいという肯定からきます」というコメントを頂戴したのですが、今回と次回ではこれに関連したことを扱います。(前回の最後の方に「そもそも正解が存在しない場合」はAIの射程圏外だと伏線を張っておいたのですが、今回と次回はAIの射程圏内で「正解が存在する場合」に焦点を当てるということです) 私はこの方が指摘して下さった現象を「AIには根深い正解主義が潜んでいる」と解釈しています。連載一回目でAIは超高速なインプット・アウトプットを繰り返すものだと述べましたが、このアウトプットはまさに「AIが正解だと解釈したもの」の提示行為だからです。AIの推論能力が人間を超えつつある現代において、この「AIが正解だと解釈したもの」を人類は「正解だと受け入れて」かからなければならなくなっている。すなわち、正解主義に極めて陥りやすくなっている。 これに対して、人類が知識を積み上げてきた原動力は、正解主義ではないんです。デカルトが示したように、それはむしろ懐疑主義でした。言い換えるなら好奇心。正解だと信じられていることを疑ってかかることが、文明を発展させてきたのですね。 実際、間違った仮説に基づいて進化を続けてきた結果として、最後に正解に辿り着いたなんて事例はいくらでもあります。有名どころでは、錬金術が自然科学に結実したようなものですよ。アイザック・ニュートンなんて、現代物理学(古典力学)の創始者みたいに思われてますが、彼が生涯かけて追いかけ続けたのは錬金術でしたし。 で、ニュートンが錬金術という誤ったものを信じ続けていたから、彼のやっていたことはすべて否定されますかといえば、当然そんなことはないわけで。誤った仮説を正しいものだと立証しようとして、結局その誤りを証明してしまったというプロセスは、史上掃いて捨てるほどあります。逆に、最終的には正しいことが立証されたけれど、長らくそれが正しいとは証明されないまま放置されてきたものもあります。折角ニュートンを出しちゃったので、同じ人物の例でいきますが、彼やライプニッツが生み出した微分法なんてのはその典型。発見当時には論理的に不完全な部分(いわゆる極限操作の部分)がありました。これを補完したのは100年後のコーシーです。では、その100年間の微積分法は捨て去ってもよいものかと言えば、もちろんそんなことはありません。たとえば、かのレオンハルト・オイラーはこの100年間に生きた人でした。彼は極限操作の真実を知ることのないまま、それでも様々な新事実を(あるいはその可能性を)発見していたのです。 人類にとって大事なことは、「答えを早く知ること」ではないんですよ。むしろ、正しかろうが間違っていようが、「真偽不明の状態」こそが探究への原動力なんです。疑問を抱き、未知の答えに興味を持ち、そこに辿り着く過程で無数の発見をすることこそが財産なんです。AIはこの発見プロセスを破壊してしまう危険性を秘めている。小説で言うなら、執筆者の内側に秘められていた(あるいは突発的な偶然で呼び覚まされる可能性のあった)表現技法やストーリー展開を気づかせることなく封殺してしまう可能性があるんです。 言い方を変えれば、自分の内側に秘められた可能性を信じられる人ほど、AIに答えを求めるような真似はしなくなるでしょう。逆に、AI頼りで創作をする人(創作の核心的部分をAIに任せている人)は、自らの創造力を信じていないに等しい。 有名な実例で言えば、フェルマーの大定理ですかね。子どもでも理解できる整数論の命題でしたが、これを解くために数学者は300年以上も議論を重ねてきました。その過程で代数的整数論が生まれ、楕円曲線論やモジュラー形式論と融合して、とんでもない鉱脈が掘り起こされていった。 もしAIが「フェルマーの大定理は正しい」という正解だけを示して、そのプロセスを人類に共有しなかったら(あるいは人類には解読不能なプロセスしか示されなかったら)、これら300年の鉱脈は、人類にとって気づかれることすらないまま終わっちゃったんですよ。理屈も、その過程で得られたはずの財産も手にしないまま、ただ答えだけが手元にある。その答え自体は何の役にも立たず、むしろ「結論のわかっている問題など考えるに値しない」と研究者たちのやる気を減衰させるだけ。その危険が、現代人にはわからないんでしょうかね。 対象がAIの射程範囲にあればあるほど、AIを使って早く答えを知りたいという誘惑に人は駆られます。その「早く答えを知りたい」「答えを教えてくれる存在が目の前にある」という誘惑それ自体が、AIの持つ危険な罠だということを、人は知っておかねばならないと思うわけです。 (つづく)
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  • 10月15日

    AIの活用について(一般論編②)

    前回お示ししたMicrosoftの事例は、(少なくとも現代最高峰の企業が開発したAIですら)AIが決して万能ではないこと、すなわち最適使用できる範囲(前回の言葉で言えば射程範囲)に限界が存在することを示しています。何でもかんでもAIに任せればいいわけでは断じてない。そして、(再現性のある問題を解決するような場合とは違い)膨大すぎる情報を破綻なく処理する総合的能力において、AIはまだ人間に及んでいるとは言えず・・・というか、実使用するのはあくまで人間ですので・・・最終判断は人間が下すしかないのです。 つい先日(この文章を書いていたのは6月頃)、こんな記事(国家首脳の役割を持たせたAIに核のボタンを持たせたら)を見かけて思わず吹き出してしまいましたが、 https://www.komei.or.jp/km/gyota/2026/04/18/ai%E3%81%AB%E6%A0%B8%E3%81%AE%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%9F%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%82%89/ AI任せにするとこういうことが起こりうるんですよね。AIは本当の意味で「核」が何をもたらすか実感することができません。AIは論理的合理性・確率的合理性を整合させることには長けているかもしれませんが、「核」は存在それ自体が非合理なんですよ。手放した方がいいことなど、数十億人規模の人類が実感していると思いますが、それでも手放せない矛盾した兵器。それが核。そんな矛盾は1972年にソ連とアメリカが交わしたABM制限条約(※)などで、露骨に示されてるのであって、その運用に対して論理的推論や統計的学習をベースとするAIが合理的判断を下せると考える方がどうかしています。 (※)弾道迎撃ミサイル制限条約。アメリカとソ連であらゆる都市が核ミサイルを迎撃できてしまうと、軍拡の歯止めがなくなり相互確証破壊(MAD)理論が崩壊してエスカレーションを招くかもしれないという危惧から生まれた、その場しのぎ的な防衛戦略。簡単に言えば、「お互いの国で核ミサイルを防衛していいのは一箇所に限定して、他地域は核から逃れられないようにしておこう」というトンデモ条約です。言い換えるなら、国のほとんどの地域を核に対して無防備にしておこうという条約ですね。2002年6月に失効。 自然界を見渡しても、同種を殺し尽くすような愚かな生態を持った生物は、この時代まで生存競争を勝ち抜くことができませんでした。たとえばミヤマクワガタなんかだと、同種が多くいる地域(低温・高標高地域)ではライバル(ノコギリクワガタやカブトムシ)があまりいないため、顎が相手を傷つけにくい形に進化しています(エゾ型顎)。逆にライバルの多い地域(高温・低標高地域)では、殺傷能力の高い顎の形(フジ型顎)が増えます。既知の動物だけで軽く100万種を超えるこの地球で、現代まで生き残るような賢い生物は「同種では殺し合わない」という不文律をきっちり守っているんですよ。少なくとも、私の知る限り同種で積極的に殺し合いをする生物はほとんどいません(母親が次世代の子に敢えて食糧として食われるクモなどは、生存戦略であり殺し合いではありません。強いていえば、チンパンジーで戦争が確認されていたかな。念のため)ので、仮にそんな生態をもつ未知の動物がこの地球上に100種いたとしても、確率(生存戦略としての合理性)は0.01%なのです。圧倒的多数の動物が、殺し合いの道を回避し、それが合理的選択であったことは、動物7億年の歴史が証明しています。しかし、AIに任せたらどうなるのかは記事にある通り。確率15%で全面戦争ですから、この思考回路がいかに愚かでリスキーかは言うまでもないでしょう。 これは、AIに任せてよい事案と、決して任せてはいけない事案の分水嶺が、どこかに存在していることを示しているように思います。人類はまだ、その分水嶺を見出せてはいないところが厄介なのですが。 というあたりで一旦まとめに入りますが、私がAIの有効活用場面(射程範囲内)だと考えているのは「多少の正確性を犠牲にしても、一定以上の・・・少なくとも人間がその制限時間で導き出せる以上の・・・クォリティが保証されたアウトプットを超高頻度で大量に入手したい場面」「AIが絶対に人間以上の精度で正確なアウトプットを返せると確定している場面」および「アウトプットスピードが優先され、多少のエラーが容認される場面」です。会社経営において各部署の財務状況をチェックし、改善案を考えるためにその提言をAIにさせてみる、などがこのケース。逆に「時間制限がない場面」「人間より正確とは言い切れない場面」「絶対にエラーが認められない(エラーが起きれば破滅する)場面」「唯一絶対の正解を求めねばならない場面」「与えられた条件の外側に飛び出すような発想が必要な場面」「そもそも正解が存在しない場面」「再現性の低い場面(AIに十分な学習機会が与えられない場面)」等において、AIを使うべきだとは思えません。 戦争に喩えるなら、通常兵器の前線における運用であれば、AIは人間より遥かに強力な頭脳です。これは、巨視的な戦場モデルを構築することで類似場面の繰り返し(確率論で言えば独立試行問題に近い)という性質を持たせて解析可能なのが、通常兵器戦闘だからです。しかも戦場では「唯一絶対の最高効率で成果を上げねばならない」という縛りがなく、「人間が考えるよりは高効率」な戦術を提案してくれれば足りるという程度の正解が得られればいいのです。しかし、核戦争のように一発の使用から世界が滅びかねない場面、あるいは核を手放すための努力を模索しつづけなければならないような場面で使ってよいものではないだろうと。これはAIどころか人類自身が未経験な問題だからです。そもそもAI自身が適切な学習機会を与えられていないのですから、現実に対する強すぎる反動が想定される場面でAIを使うことなど論外なのです。 というわけで、ここまでの2回では「AIに射程範囲が存在すること」「その射程限界を意識しないと惨事を招くこと」について語ってみました。 次回はAIの射程範囲内であっても必要な注意事項があることについて書こうと思います。 (つづく)
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  • 10月14日

    AIの活用について(一般論編①)

    以前、私自身はAIを小説の執筆に使わないと書きましたが、この連載ではその理由と、私が考えるAIの使いどころについてまとめておこうと思います。ただ、私がAIをどのようなものと捉えているかについては、そのうち小説でもネタにする予定があるので、ところどころ端折っております。その辺は御容赦下さい。 ちなみに、この文章自体は6月の下旬に書いたものでございまして・・・白状すると、ネタに困ったとも言います。まあ、正確に言えば、まともな文章を書けるコンディションじゃないっていう方が正しいんですが、そんな次第で「昔の文章を引っ張り出し」「当初の予定より1回1回の文章量を少なくして」「話数を稼ぐ」というセコい方針を以下略。 では参りましょう。端的に言って、AIのメリットは時間です。人間より圧倒的に高効率なインプット・アウトプットが可能なことと言い換えてもいいです。思考の瞬発力が求められるような場面において、AIは無類の強さを発揮します。(※) ※・・・AIがこれほどまでまでにもてはやされているポイントは、このインプット・アウトプットが「人間の頭脳にとって代われる」ところにあるのですが、その核心となった技術については【おまけ】パートでそのうち書きますので、ここでは割愛します。 特に、再現性のある場面で無限にも等しい試行回数を繰り返し、その中から最高の結果を得たい場面において、AIは非常に強力なツールとなります。ボードゲーム(囲碁・将棋・チェスの類)がその典型ですね。いわゆる「評価関数の最大化問題」を延々解き続けるだけのAIであれば、もはやその正確性において、人間が勝てる相手ではありません。 その一方で、AIには弱点もあります。極められる専門性と、極められない専門性がある気がするのですね。マイクロソフトがWindowsの開発において、デバッガーを大量リストラし、ソースコードの書き換えをAI任せにした結果(すなわち人件費を削りまくった結果)、Windows11という暗黒OSが頻繁に致命的バグを引き起こしつづけてきたことは、その筋では有名な話。おまけに、Copilot PCという路線を打ち出し、Windowsと自社AIの融合を強力に推し進め、キーボードに専用キーの設置を要求し、更なるバグと使い勝手の悪さまでをも撒き散らしてしまいました。結果、マイクロソフトはCopilotという自社AIの看板を下ろさざるを得なくなり、Windowsではデバッグの再強化や基礎的安定性の重視といった路線変更を迫られてしまったわけです。 私はこの壁を「AIの射程」みたいなイメージで捉えています。射程範囲内では正確無比かつ高速だけど、その外に出ると破綻する。AIを使う上では、ユーザーがこの射程をしっかり把握しておくことが、何より大事なのだと思っています。 (つづく)
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  • 2月26日

    投稿小説の非公開化について

    昨日につづき、受験生の皆様のご健闘をお祈り申し上げます。 さて、今投稿している作品(先月は31日間毎日更新しました)が特に読まれている気配もないので、一旦店じまいしようかなと考えていたところ、昨日はなぜかPVが一気に増えてまして、「うわ、マジか(タイミング悪っ)!?」と思っていたりします。現在の投稿時点で第二章までは完了しており、次話からは第三章に進むため、店じまいにはいいタイミングなので、様子見してたんですよね。あ、参考までにPVの様子を添付画像で載せておきます。閑古鳥ですな。 実のところ、2月末まで変動がなければ店じまいという予定でいましたので、「すげーびみょーなタイミングでPV変動来たな」という印象でしたが、以下の理由により予定通り店じまいすることに致しました。 その理由ですが、「書くのは面白いけど投稿はやりたくない」状態だからですね。毎度のことながら、数字で読まれていないことを突きつけられると、自分が面白いと思っていても、書くことそれ自体へのモチベーションにまで悪影響が出てしまう。これが最大の理由です。 だったら宣伝すればいいじゃんとも思うのですが、自分には無理。面倒。億劫。けど、読者様が増えない(というかいない)ことにはストレスが溜まる。だったら執筆が完了するまで触らない方がいいかなと。そもそも、完結してから一気読みした方が(多分)面白いタイプの作品なので、現在お読み下さっているような方々には、完結してからまとめて読んで欲しいと思っていたりもしますしね。 今のところ、100話を超えるところまで執筆が進んでいるので、執筆完了次第投稿再開するとは思います。自分で言うのもなんですが、他作品の数倍は頭使っているので(当社比)、お蔵入りにはしないはず。たぶん。盗賊ちゃんの話なんて、これに比べれば1/100くらいしか頭使ってませんからね。(その差が読者様に伝わっているかはわかりませんが) 再開は多分、年末あたりでしょうか。タイトルは(もう少し今風というか、読者ウケを狙ったものに)変えると思いますが、興味があればそちらで続きをお読み下さい。次回のカクヨムコンに間に合えばいいなくらいのつもりで書くつもりです。
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  • 2024年9月21日

    近況ノート終了のお知らせ

    タイトル通りです。 具体的な事情は伏せますが、近況ノートへの投稿を終了します。少なくともこれまでのような更新頻度で日々の所感やネタを投下することは当分ありません。一応「当分」という言葉を使っておりますが、気分的には「二度と」ですね。数日間じっくり悩んで決めましたので、衝動的というわけでもありません。 小説は今後も書き続けますが・・・まあ、色々とお察し頂けるとありがたく。 ちなみに、ID再取得後の近況ノートは、いつ間にか30万字近くも投稿しておりました。ボツや未公開の書き溜めも含めれば30万字を軽く超えています。なのに小説の方はマイナス成長という。何かがおかしい。おかしいので、よい機会だったと思っておきましょう。 今後の投稿に関しましては、これまで通り白紙です。暫く何の動きもしなくなると思いますが、裏で活動はしていると思って下さい。冬眠中とか蛹化中とか、そんな感じにご理解頂ければ。生存報告代わりに、時々応援メッセージくらいは書き込ませて頂くかもしれません。 というわけで、近況ノート目当てでフォローして下さっている方々は、さっくりフォローの解除をお願い致します。フォローバック狙いの方々も以下同文(といっても読んでないだろうけど)。 これまで駄文にお付き合い下さった皆様方には、篤く御礼申し上げます。 苔の奥底でひっそり暮らす、緩歩動物のようになりたい。水に漂うだけのプランクトンとかもいいよね。
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  • 2024年3月18日

    近況ノートは書いて消す/投稿しないから推挙する(他力本願な作品推薦)

    【近況ノートは書いて消す】(2024年3月18日投稿) 私なりの近況ノートの使い方、注意事項について書き留めておこうと思います。(2024年3月18日現在) 「いいね」を押して下さる方々には申し訳ないのですが、近況ノートはストレス解消の場として、《愚痴を垂れ流しては消す》みたいな方向性でいこうと決めました。なので、コメントもオフですし、わざわざお読み下さる価値もないですよと。 言うなれば、愚痴を垂れ流すことで自分の置かれた状況を整理しつつ、指針を得るための作業場として使うということです。あとはまあ、頭の体操。当然、人によっては腹立たしくなることも書くでしょう。 結局のところ、誰にも読まれなくて構わないというか、むしろ誰にも読まれない(読まれる可能性がある)くらいが、適度な緊張感を保ちつつ余計なストレスを抱え込まなくて済む平衡点なのですね、自分の場合。期待に応えようとか、人様のお役に立つことを書こうとか、そういうのがあかんのですわ。かといって、何のアウトプットもしないでいるのも、それはそれでストレスになる。タイトルにある利用法に至った理由を自分なりに分析すると、たぶんそういうことなのです。はい。 【投稿しないから推挙する】(2024年5月20日投稿の近況ノートを移動させました) 昨日のことなんですが、投稿していた頃の私を知るある方に「投稿してたやつアップロードせんかい、オラオラオラ!(意訳)」と言われてしまいまして。そう言って頂けることは大変ありがたいと申しますか、私ごときにそのようなお言葉を頂戴してしまい恐縮しきりなのですが・・・う~ん。 私は文章を書くのが好きです。正確には、知識を得ることと頭の中を整理することが好きなのだと思います。で、(自分にとって)頭の中を整理するのに一番適した方法が文章を書くという行為なので、文章を書くのが好きなのでしょう。 それ即ち、私が文章を書いているのは、誰のためでもなく自分のためであるということ。人様のお役に立とうなどという考えは、基本的に捨てています。なぜなら人付き合いが苦手だから。(まあ、この結論に至ったのは比較的最近なんですけどね) そんな姿勢で書いているものを、わざわざお時間とらせて読んで頂くなんて烏滸がましい話なので、現在作品公開をしていないのでして。「読んだところで時間の無駄だよ」と、毎度のように宣言させてもらっている通りです。これが時間をとらせない絵や漫画なら、構わず投稿しちゃっていた気もしますけど、駄文を長々と読ませてハズレだったというのは、良心の呵責があるわけです。 カクヨムには、私なんぞより優れた作品を投稿されている方が山のようにいらっしゃいます。私が読んだ中で一番凄いと思うのは、@jundesukedomo 様。ペンネームすら登録されていらっしゃらないので、何とお呼びしてよいのかもわかりませんが、この方が挑んでおられる「嗅覚と聴覚の共感覚を、文章という視覚入力で表現する」という試みのレベルを見てしまうと、自分なんてゴミカス以下でしてね。「(発想力が)貧弱貧弱ゥ!」「無駄無駄無駄!」と言われてしまった気がします。香水と音楽に関する知識は極めて深く(といっても私は香水に詳しくありませんが)、クラシックなんかだと「そこ突いてくるかぁ!」と唸らされる曲が次々と登場します。おまけに、ヨーロッパ(特にフランス)の街並みがこれでもかというほど生き生きと描かれている。これ、現地を詳しく知らないと書けない描写です。なんでこんな御方が、日本のフリー小説投稿サイトでひっそり活動していらっしゃるのか、わけがわかりません。この人の作品が出版されたら普通に買いますよ、私。女性向け作品らしく、登場する人物は圧倒的に女の子が多いですが、皆可愛い。主人公は育ちがよく、ふわふわしていて押しに弱いのに、会ったこともない憧れの老調香師が絡むと人が変わって面白いです。惚れる相手を間違ってますよ、お嬢様。唯一の欠点は、予備知識がないと楽しみが半減してしまうことかな。けどそれは、この作品を理解する力量がない読者の方が悪いです。いい加減な知識と妄想全開で書かれた「わかりやすいけど穴だらけ」な作品と、きちんとした知識で書かれた「勉強が必要な」作品。個人的には後者の価値が高いと思いますが、WEB小説界では逆なんですよねぇ。曲を知らなければ動画サイトですぐに聴ける時代なんですから、それくらいの手間かければいいのに。 というわけで、私の作品を読む暇があったら、もっと優れた作品は沢山あるのでそちらを読みましょうというお話でした。@jundesukedomo 様、勝手に名前を出してしまって申し訳ありません。(あとで謝りに行かねば) せっかくなので、現在私が読ませて頂いている作者さんを(これまた勝手に)紹介させて頂きましょうか。もっとも、読み専としての私はスコッパー気質ですので、メジャー作品はほとんど読まないのですが・・・以前からお付き合いさせて頂いている和泉将樹@猫部 様が、いつの間にやら★四桁稼ぐメジャー作家様になってしまわれ、びびっております。まだ読めてなくてごめんなさい。(自分の性格的に「竜殺し」に行くのは最後だと思います) 大和成生 様・・・「桃色武装」が最高に面白いです。作者様曰く「書きたいことを書いてるだけの作品」だそうですが、そういう作品に限って面白いのは鉄則ですね。涙と笑いの陰に、卓越した人間観察を潜ませていらっしゃる作家さんだと思います。 ばやし せいず 様・・・誠実な恋愛作品を多数投稿されていらっしゃいます。カクヨム界隈では文学寄りかもしれません。 立藤夕貴 様・・・幻想的で色彩感溢れる描写をされる方です。美しい文章は大変勉強になります。登場人物の名前のつけ方とか、やけに美味しそうな食事風景とか、細かなところにもこだわりがあって面白いです。(本日投稿の最新作「立夏の空の下に花は咲く」なんかは、一話完結でこの作者さんの個性がよく出ていると思います) 夜方宵 様・・・短編メインですがどれも秀逸。「アンダーハンドパス」の健全な百合っぽい世界観から「スノードーム」のひんやりとした世界観まで、非常に表現の幅が広いと感じます。 今優先的に目を通させて頂いているのは、この方々ですね。なかなか時間がとれずモタついておりますが、御容赦下さい。他にも読ませて頂こうと思っている方々は沢山いらっしゃいますので、また機会があればご紹介させて頂きます。 【立藤夕貴様の『記憶の海の渡り人』】(2024年6月19日投稿の近況ノートを移動させました) 先週、故あって〇〇〇〇様の『〇〇〇〇〇〇〇〇』という大っ変失礼な表記をさせて頂いた小説について語ってみます。立藤夕貴様、本当に申し訳ございませんでした。 立藤夕貴様につきましては、過去にも何度かご紹介させて頂いたことがあるのですが、風景画のような文章を書かれる作家さんです。日常の風景だけでなく、空想上の風景も含めて卓越した表現力で描写されます。食事がやたら美味しそうなところも特徴ですかね。それでいて、物語を書かれる時には人物描写にピントを当てて、各人の心模様をしっかり描き出されます。その筆力は素直に羨ましい。わたくしめにも分けて下さいお願いします。 そんな立藤夕貴様がファンタジー調のヒューマンドラマに挑戦された作品が『記憶の海の渡り人』、リアル調のヒューマンドラマに挑戦された作品が『夢喫茶でまた会いましょう』、短編でその個性が存分に発揮された作品が『立夏の空の下に花は咲く』であると、個人的には受け止めております。まだ読めていない作品もあるので、そちらについてはまた追々。 今回は全120話・30万字超の大作『記憶の海の渡り人』を読破しましたので、良いところも気になるところも含めて、その特徴を語ってみます。 第一の特徴は登場人物が多いこと。これ、読者さんを挫折させてしまう最大の要因になるんじゃないかなと思ってますので、先に書きますね。同じ人物が名字で呼ばれ、名前で呼ばれ、暫く登場していなかった子がいきなり会話の中にひょっこり名前だけ出てきたりするんですが・・・読者の中では覚え切れていないことも多く、読み解くのに結構苦労させられます。実は、私自身ちゃんと把握できていた自信がありません。なのに、脇役に見える人たちが、割と端々で大事な役割を果たしていたりするんですよ。というわけで、これから読まれる方は、人物整理をしながら読まれることをお勧めします。人物把握ができてくると、伏線の張り方や回収が実に見事であることに気付かされますが、逆にそれができないと、何が何だかわからないということに。この点は本当に要注意。 第二の特徴は、物語の濃淡が次第に濃くなってゆくということですね。まあ、長編らしい特徴と言えます。作品概要にも書かれている程度のネタバレでまとめてみると、子どもの頃から他の人には見えない「透明な魚」が見えていた主人公が、ある日その魚に触れることで、非日常の世界に巻き込まれてゆき、そこで彼と同じものが見える人たちと出会うというストーリー。ここでいう「透明な魚」というのはファンタジー的な記号ですので、実のところ他のものであっても良かったわけですが、そこで「透明な魚」という幻想的な光景を想起させる要素に辿り着けてしまうのが、立藤夕貴様固有のセンス。しつこいけど分けて下さいぷりーず。この魚が見える人は次第に増えていくわけですが、それに応じて描かれる内容も少しずつ変化してゆき、出揃う頃に次のステージへ・・・といった感じです。 第三の特徴は、登場人物の設定がしっかりしていて、それらが人間模様や伏線にちゃんと反映されていること。きちんとした情報整理が出来ている作者さんでないと、これはできません。頭の良い方なのでしょう。友だち想いの人、冷静に物事を見つめる人、感情をコントロールしきれない人・・・各人に背景があり、役割があり、そうした設定の緻密さが物語をきっちり支えている印象です。 第四の特徴は、登場人物たちのヒューマンドラマが主軸でありつつ、作品全体としては謎解きや異能バトル、時には残酷描写なども採り入れた欲張りセットとなっていることでしょうか。ファンタジー小説なので、推理小説のように謎解きできるわけではありませんが、それでも衝撃的な展開が待ち受けており、ところどころで「やられた」と思いながら読むことになるかと。こうした作風を活かすためか、基本はシリアス路線でギャグ要素はほぼありません。作者さんが書きたかった要素が、ほぼすべて組み込まれているのではないかと思われます。 最後に読み終えて思うこと。振り返ってみると、一貫したテーマがちゃんと物語の根底に流れていたことに感銘を受けています。それが何であったかはネタバレになるので書きませんが、長編小説としての柱はしっかりしています。タグに「ヒューマンドラマ」「青春」とあるのも、看板に偽りなしです。 総評としては、「書かれていることをちゃんと追いかけることができれば」とてもよく出来た作品だと思います。それを妨げる最大の要因は、第一の特徴で挙げた登場人物の多さであり、次なる要因は第二の特徴で挙げたゆっくりめの展開ってことになるんでしょうか。その展開も、謎が暫く謎のまま放置されて先に進んでしまいますので、頭の片隅にそのことを留めながら読む必要があり、情報整理は結構大変でした。初読の人と設定がわかって読む人とで、受ける印象はかなり変わるだろうと思われます。後半から終盤にかけての追い込みは、WEB小説で好かれそうな展開なのですけど、そこまで辿り着ける読者さんが少なくても、不思議はありません。作者様の作品が持つ、独特の空気感が気に入った方であれば、読み続けるのは苦でないと思うのですが、作者様の筆力の高さを感じ取れない読者さんだと、途中で投げ出しちゃうのも致し方ないのかも、と。そういう意味では、まず『立夏の空の下に花は咲く』あたりの短編から入ってみる方が無難かもしれません。 WEB小説の読者さんは、とにかく「第1話からクライマックス」みたいな作品しか受け付けないところがあって、緩急つけながら盛り上がっていくタイプの作品は流行らないという印象があります。食事でいうと、いきなりステーキみたいなのが好まれているんでしょうか。コース料理のメインディッシュが出てくるまで待てないって人が多いように見受けられます。本作は、どちらかと言えばコース料理に寄っているので、じっくり読みたい方向けになるかと思います。 なお、これは個人的な恨み節になりますが、WEB小説時代の読者さんって、飽食の時代の若者に似ている気がするんですよね。一口食べて美味しいと思えなければ吐き出すみたいな。まあ実際、無料の小説が大量に転がっているんですから、そうなるのも当然といえば当然なんですけど、味覚が未成熟というか、食材を美味しく食べる方法を知らないというか、はっきりした味付けじゃないとわかってもらえないというか。万人受けする小説などないことが示すように、同じ文章でも受け取り方は読者に委ねられるわけですが、WEBではそうした感受性の多様性が失われている気がします。流行以外のものを味わえる読者さんが極端に少ないと言いますか、作者に流行り物ばかり書かせるような圧力がかかっていると言いますか。なので、立藤夕貴様のような作者さんには頑張って頂きたいなと思います。 【大和成生様の『桜梅桃李シリーズ』】(2024年6月21日投稿の近況ノートを移動させました) 今回も前回の〇〇〇〇様(立藤夕貴様)に引き続き、□□□□様の『□□□□□□□□』と表記させて頂いた方をご紹介させて頂きます。大和成生様、失礼な書き方してしまってごめんなさいごめんなさい。 現在、私がお金を払ってでも読みたいと思える作品を書いておられる作者様は二人おりまして、そのうちのお一人にはギフトをお贈りさせて頂いております。 で、もう一人が今回ピックアップさせて頂いた大和成生様なのですが、ご本人様にはそういう野望が一切ないらしく、ギフト受付すらされていないという徹底ぶり。いやまあ、私もギフト受付していない(というより、そもそも小説公開の予定すらない)ので、お気持ちはとてもよくわかるんですが・・・お陰で現在、ギフトが1ポイント余っておりまする。どないしましょ? ま、それはさておき、このたび『桜梅桃李シリーズ』を読破したので、その魅力をネタバレなしで語ってみたいと思います。 このシリーズは石田家の三姉妹+末弟を中心に、彼らの幼い頃から大人になるまでの半生を、それぞれの視点で描いた連作です。恋愛成分多め。三姉妹の名前が上から順に桜・梅・桃であり、末弟が信であり、石田姉弟の従姉妹に当たるのが李(通称スーちゃん)ですね。なのにシリーズ名には信が入っていないという。男の子だからって仲間ハズレにしないであげて。(笑) この作品に「お金を払う価値がある」と思える理由は、人間の成長に必要な葛藤がズバッと描かれているからです。それも、かなりシビアな女性目線。そしてそれらは、それぞれの登場人物にうまく分散して配置されており、様々な角度から様々な人間像が浮かび上がってくる仕掛けになっています。更に面白いのは、そうした人間像の多くが、実は作者様ご自身の投影であり分身でもあるということ。すなわち、異なる人間像はひとつの人格に統合されたとしてもよいのでして、人間という矛盾に満ちた存在が見事に表現されています。 (ついでに言うと、作者様的に好きじゃないキャラが超重要ポジに就いていたり、あるいは作者様的に大嫌いであったはずのキャラがいつの間にか格好良く成長してしまっていたりするところも面白いのですが・・・作者様はその辺の情報を小説内で一切書かれていないというね笑) 全員が違う人格をもち、全員が違う人生を歩んでいながら、読者という一人の人間の中ではそれらすべてを教訓として糧にすることができる作りになっている。まったく同じ体験をしていながら、まったく違う選択をしてそれぞれの人生を歩む二人の姿が描かれていても、それらは「どちらもあり」と納得できる。こういったところが非常によくできています。 ただ、そのよくできている部分が「よく出来すぎている」きらいがありまして・・・複数のストーリーを読み進めることで、初めて見えてくるものが沢山あるわけですよ。「あの話のあれってそういうことだったのか!」みたいな。なので、単品で読むとなんだかアッサリ風味と言いますか、他作品との相乗効果でいきなり面白さが爆増すると言いますか、噛めば噛むほど味が出てくるスルメ的な魅力があると言いますか。それゆえ、早計な判断を下されてしまう可能性は、決して低いとは言えません。そういう意味では(立藤夕貴様の作品同様)じっくり丁寧に読む人向けなんですよね。ぶっちゃけ、作者様は設定集や解説書を書くべきレベル。多分、三回くらいは読み込まないと、情報を整理しきれません。(笑) なので、WEB小説のニーズに合っているかと問われると・・・すみません。自信ないです。せめて読む順番くらい指定して頂ければ・・・。 (ちなみに自分のお薦めは信→桜→梅→李→桃かな。信を最後に回すという読み方もアリですね。こんなこと書いてる私自身、梅を最初の方で読んで、この作者さんは只者じゃないと思った記憶があるため、結局はどんな順番でも構わない気がします。というか、読む順番にこだわりが出てくるのは、全体像が見えてきた2周目以降のことだと思うのです。なので、読んだことない人は、とにかく全部読み尽くすつもりで手当たり次第読んでみて下さいと申し上げておきまする。あと、外伝的な短編もいくつか用意されていますので、そちらもどうぞ) ともあれ、こればっかりは声を大にして言わせて頂きたいのですけど、「パッと見面白いけど中身スカスカ」な作品ばかりが読まれ、「パッと見地味だけど中身が詰まっている」作品はまったく読まれないというこの状況、ほんと何とかなりませんか。ちょっと顔がよくて口が上手いだけのヒモ体質DV男がモテて、地味だけど真面目に仕事をしている男は見向きもされない、みたいな?別に自分の見る目が確かだなどと言うつもりはないのですが、所詮は顔(タグとタイトルとジャンルと第一話)で決まるのかと思うと、色々とこう、アレでアレがアレなわけですよ。うがあぁぁぁ! すみません。つい鬱憤がダダ漏れになりました。 単品でどれかひとつと言われれば、桃を推します。先日のノートで□□□□様の『□□□□』という謎表現させて頂いたのは、これですし。こういう毒々しい作品は大好物でございます。じゅる~り。あと、武士君が何ともいえず格好いいんです。じゅるじゅるじゅる~り。ちなみに、読む順番で桃を最後に回しているのは、私が「お楽しみは最後にとっておく派」だからです。(おい) 梅と李に関しては、予備知識として「雪の女王」のあらすじだけでも知っておいた方がいいかな。注意点はそれくらいかと。 まあ、なんでしょう。流行とかテンプレとかに辟易していて、しみじみと「そうだよなぁ」と思えるような作品群に触れたい方、子ども時代の体験が人格形成に与える影響を、大人になった今だからこそ様々な角度から振り返らせてくれる、そういう作品群を読みたいという方々にお薦めでございます。ポジション的には、純文学に近いといいますか、純文学からWEB小説に読者さんを引っ張ってくることのできる作者さんというイメージを持っています。あとはこう・・・女社会のリアルみたいなものを、味付けなしに表現してくれているところもいいですね。天然天使ちゃんから嫉妬に狂った横恋慕ちゃんまで、色んな「女」がご登場なされます。はい。 こういう出会いがあるから、隠れた名作の探索はやめられないんですよ。いつも言ってますが、お星様なんて何の参考にもなりません。だって、売れたい売れたいと思ってる人より、自分の気持ちに素直な作品を書かれている作者さんの方が、優れた作品生み出すなんて当たり前じゃないですか。芸術ってのは、自分の内面の表出なんですから。 とはいえ、商業ベースにはない良さを持ったこういう作品が無尽蔵に眠っていることは確かであり、その場を提供して下さっていることについては、カクヨム運営様にはいつも感謝しております。自分に合った作品に出会いたければ、濫読するしかないっていうのは、仕方のないことなのかもしれませんね。 ではでは。
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