前回のつづきです。
あの書き方で伝わった方はほとんどいらっしゃらなかったと思いますので、今日はその追加解説になります。
前回ノートの最後の部分でこう書きました。
> この作品はいわゆるコスト度外視で書き始めちゃった
> 正統派異世界ファンタジーの超大作みたいなものに食傷気味なところがある現状、どこまでそこにエネルギーを費やせるか
まあ、ここじゃなくてもいいんですが、この辺がカギ。前回のノートから以下の事柄を想起された方、いらっしゃいましたらお友達になって下さい。(なのにコメ欄・・・略)
1.正統派異世界ファンタジーやバトルものってのは、今さら書くべきものではない
2.書くべきもの、表現すべきものの方向性を誤らないことは、芸術家としてのセンスであり才能である
これでどこまで伝わったでしょうか。
ちょっと目先を変えて、音楽の世界に行ってみましょう。音楽を聴いたことのない方はいらっしゃらないと思うのですが、それでは「演奏家としての才能」と「芸術家としての才能」の違いを意識されたこと、ありますか?(「超絶技巧は即座に感動と結びつきますか?」と言い換えてもいいです)
たとえば、正確な音程、正確なテンポ、狙った通りの強弱で演奏できるといった運動神経的なものに恵まれていることは、その大部分が「演奏家としての才能」に分類されます。絶対音感の正確さとか、一度に多数の音を聞き分けられる能力とか、そういったものも演奏家側。
これに対して、楽譜には書かれていないけど、こうやった方がよりドラマチックな演奏になるんじゃないか、みたいなことに気付いて、それを正しく実践できてしまう才能は、「芸術家としての才能」に分類されてよいと思います。自分が奏でる音色そのものへの感性、すなわち追及すべき音に対する美的感覚も芸術家側でしょう。
中島みゆきなんかがわかりやすいのですが、彼女の歌唱能力を音楽的に分析した場合、そこまで評価できるものではありません。決定的なのは素人でもわかる音程の悪さ。しかし、そこから出てくる音楽には感動できる。彼女は芸術家肌の天才だと思うわけです。
クラシックの世界でも、音楽家肌の人と芸術家肌の人ははっきり区分されます。ダニエル・バレンボイムあたりがわかりやすいかな。彼は7歳の時にはプロとしてデビューしてしまったほどの天才ピアニストでして、12歳でウィーンとローマでもデビュー。15歳ではニューヨークでピアノ協奏曲も弾きこなしてオーケストラデビュー、21歳でベートーヴェンのピアノソナタ全集を引っさげ世界中で演奏旅行をした人です。で、その後は指揮活動にも手を伸ばします。フランスの名門、パリ管弦楽団の指揮者として迎えられました。
ところが、彼の指揮活動はなかなか上手くいかなかったんですね。当初彼がやろうとしたことは、フルトヴェングラーというベルリンフィルの指揮者(二十世紀の指揮者の中では、どう悪く見積もっても三本指には入る超絶すごい芸術家)を真似することでした。その結果、予想できますか?ええ、盛大に失敗しつづけましたよ。ただ、彼はユダヤ人でしたので、バックに財閥がついていて、楽団の赤字は財閥が埋め続けてくれたわけです。
結局彼はアメリカに渡り、そちらでようやく成功するのですが、これは演奏家としての才能(狙った音を作れる才能)に芸術家としての才能(その狙った音が感動的であると見抜く才能)がついて来られなかった事例だと思って見ております。幾度となく言ってますが、芸術の本質は内面の表出。バレンボイムの失敗の要因は、他人の真似を必死になって追いかけたことでしょう。コピーじゃ人は感動せんのです。(この辺、天才相手に偉そうな批判を繰り出している自分はどうなんだと、自虐していたりもしますけど、そこは見逃してやって下さい)
で、こうしたことは当然小説の世界においても言えるわけでして。
自分のイメージしたものに対して、狙った通りの文章が書けること、これは文筆家としての才能です。しかし、その「狙った通りに書けた文章が、読者に感動を与える可能性はどれだけあるのか?」をきちんと評価できていますかと。
この評価を見誤らないことは、芸術家としての才能です。(もっと言えば、そんなこといちいち考えなくても正しい方向へと突き進める才能は、更に上質です)
んでまあ、シャルトーさん受難日記ってどうなのかなぁと自問するに・・・こいつは文筆家としてのトレーニングには向いているかもしれないけれど、今さらバトルがふんだんに出てくるファンタジー物語を書いてみたところで、それって所詮コピーじゃんとクギ刺してくる誰かさんがいるわけですよ。自分の内側に。
それは要するに・・・
> この作品はいわゆるコスト度外視で書き始めちゃった(←文章トレーニングには向く)
> 正統派異世界ファンタジーの超大作みたいなものに食傷気味なところがある現状、どこまでそこにエネルギーを費やせるか(←芸術としては無価値なんじゃね?)
こういうことです。
折角だから投稿してくれ、つづきを読ませてくれって方々がいてくれることはわかっております。多分ですが、本気で投稿すれば箸にも棒にもかからないって評価を喰らうこともないと思ってます。しかし、たとえこの作品で評価されてもなぁ・・・それが自分の内面への共感なのか、バトルやファンタジー世界に釣られただけなのか、見極めができないんですよ。その意味で、紛らわしいジャンル(=流行アレンジ)を選択しちゃったなと。
そろそろおわかり頂けたかと思いますが、私がカクヨムでのコメ欄等を封鎖している理由のひとつは、自分の内面を文章にして吐き出したいからでございます。毒を吐いているのも、趣味の話を語っているのも、単純な文章練習ってわけじゃないんですね。嘘偽りない自分を吐き出すトレーニングとしても必要だから、こんなことをやってます。それで嫌われるなら仕方ない。ただまあ、それにいちいち噛み付いてくる人たちを相手にしていたらキリがないので、読みたい人だけ読んでねってスタイルを貫いてますし、それは今後も変わらないかと。自分の小説を理解して下さる読者様とは、是非とも語らいたいと思うのですけどね。カクヨムのシステムではなかなかに難しい。
以上、執筆に当たって個人的に考えていることをちょっと書いてみました。こんなこと考えている方が他にいらっしゃるかはわかりませんが、そういう方がいらっしゃいましたら、どこかでお教え下さいませ。