• 現代ファンタジー
  • ラブコメ

サキュバスさんと同棲中。プロト版 前編 

 奇妙な噂だと思った。
 夜になるとサキュバスが出る。
 それが、僕の街で流行っている、都市伝説だ。

 帰り道に、若くて美しい女から声を掛けられたら、絶対に答えてはならない。
 時刻は深夜二十四時。終電で帰宅していると、向かい側から不意に女が歩いてくる。人気のない道で、その女と自分以外には誰もいない。

 こんな夜中に女性が一人で物騒だな。
 そう思っていると、ふと女の顔が目に入る。
 透き通るような肌、目が覚めるような美女で、思わず息を飲む。

 ――綺麗な人だな。
 そう思っていると、不意に美女は口を開くのだ。

「ねぇ」

 淫靡な笑みで、こちらを見てくる。

「私と気持ちいいことしない?」

 その問いに答えてはならない。
 答えると――



「はいドーン!」

「おわっ!」

「あはは、遠藤さん驚き過ぎ!」

 賑やかな店内で、同僚の美保ちゃんがお腹を抱えて笑う。僕は照れ隠しにビールを一杯煽り、近くの店員に追加注文を頼んだ。

「本当に怖い話ダメなんですねぇ」

「ダメとかじゃないよ。ただ、好きじゃないだけだ。この科学の時代にお化けとか幽霊とかくだらないからね。猫も食べませんし」

「犬も食わない、でしょ。んもぅ、おばけじゃなくてサキュバスなのにぃ……」

 美保ちゃんは呆れたように頬をむくれさせる。
 会社の営業二課の飲み会。居酒屋の端っこで、僕は何故か仕事の話ではなく、怖い話を聞かされていた。

「でも知らなかったな、僕の街にそんな都市伝説があるなんて」

「まぁ遠藤さん越してきたばかりですもんね。割とこっちじゃ有名ですよ、この話」

「最後はどうなるの? その話」

「怖がりさんには内緒です」

 いたずらっぽく美保ちゃんはふふんと笑う。その表情に「ケチ」と僕は言った。

「でもなんでサキュバス? 口裂け女とか、ひきこさんとか、もっと色々あるでしょ」

「だから都市伝説なんじゃないですか。繋がりが不明だから、都市伝説ぽいっていうか」

「まぁ、確かに」

「美保ちゃん、そんなところで飲んでないでこっちで一緒に飲もうよ」

 部長に呼ばれ「あ、はぁい」と彼女は答える。

「呼ばれちゃいました」
「ああ、教えてくれてありがとう」

 部長の席に移動する美保ちゃんを見送って、まるでキャバクラ嬢みたいだな、などと考えながら僕は再びビールを煽る。
 いや……。

「サキュバスみたい、かな」

 ◯

「男の夢みたいな存在だよな」

 程よく酔った帰り道、酩酊して一人呟く。
 日本人のサキュバスだと、さぞかし和風美人なのだろう。スタイルはもちろんのこと、黒髪も映えるに違いない。

 終電帰りの夜道は人気がない。もしあの都市伝説が本当だとして、サキュバスが出るとしたら、ちょうどこの時間くらいか。

 正直、心当たりがないわけではない。
 確かに、この辺りにはサキュバスが出没するからだ。

 ふと、目の前に女性が一人立っていることに気がついた。デニムのパンツに、緩やかなカーディガン。スタイルは整っていて、長く伸びた黒髪が美しい。

 その姿は、どこか僕の想像していた理想のサキュバスを彷彿とさせる。
 僕は、ゴクリと唾を飲み込み、女性に近づく。すると彼女は僕の肩に手を置いた。

「ねぇ」

 女性が声を出す。

「遅いわよ、遠藤くん」

「あ、やっぱり崎山さんか」

「やっぱりって何」

「いや、暗くてよくわからなかったもので……今日怖い話も聞いちゃいましたし」

「情けない男ね」

 彼女は崎山蓮。種族は、サキュバス。
 そう、巷で噂される都市伝説のサキュバスさんと、僕は暮らしている。

 ◯

 僕が住んでいる精木町(せいぼくちょう)は、会社から電車で数駅程度の中都市だ。
 駅前にはそれなりに飲み屋が並び、スーパーや雑貨屋、本屋なども並ぶ、それなりに栄えた街。

 転職でこの街に越してきたのは今から半年程前の、秋口のことだった。
 こんな時期に転職先が決まるとも思っていなかったし、駅から徒歩十分圏内で家が見つかるとも思っていなかったのだ。
 仕事を辞めてキャリアを活かして新たな仕事に。

 僕の社会人生活は、かなりトントン拍子だったと思う。

「ふぅ……」

 引越し業者が一通り荷物を運び終わり、片付けもほぼ終盤に差し掛かったところで一息つく。家賃は少し高いが、その分広くて日当たりの良いアパートを借りることが出来た。
 ただ。

「思ったより広いな……」

 一人暮らしの男性が住むには、若干広すぎる気がしないでもない。
 それ自体は別に悪いことではないが、家具を全部入れても割とスペースが余ってしまっているのは少し物足りなく思えた。

 今年で二十八になる。
 同居する彼女がいれば、この部屋も変わるのだろうか。
 そんなことを考えていたら、不意にチャイムが鳴ったのだ。

「はいはーい、ただいま」

 玄関を開けると、そこに女性がいた。
 髪の毛が長く、透き通っているような黒。
 前髪を切りそろえていて、よく手入れされているのが分かった。
 肌が陶器のように白く、そのキメ細やかさが伺える。

 美しい人だと思った。
 ただ、その姿はどこか妙で。
 デニムのロングスカートとゆったりとしたニットと言う『ご近所スタイル』に不釣り合いな、大きなリュックを背負っていたのだ。

「今日からここでお世話になるわ」

「はい?」

「とりあえず、上がるわね」

 そのまま了承も取らずに家に入ろうとする彼女だったが、突如として「んぐっ」と声を出し、その歩みを止めた。リュックが玄関に詰まったのだ。
 彼女はしばらくもがいたが、やがて動かなくなった。

「助けてくれないかしら」

 何だこの人。

 ◯

 彼女の名は崎山(さきやま) 蓮(はす)と言った。サキュバスなのだそうだ。

「サキュバス?」

「そう。この街はね、サキュバスの楽園なのよ」

「ちょっと意味が分からないんですけど、大丈夫ですか、頭とか」

「はっ?」

「すいません」

 逆らえない。
 彼女いわく、この精木町ではサキュバスが長年、人間と共存してきたのだと言う。その噂を聞きつけてここに来たらしい。

「それで、空き物件も多数あるわけですが、なんで僕の家なんですか」

「そんなことは大した問題じゃないわ」

 問題だ。

「わかった。崎山さんは僕を性奴隷にしようと言うのですね」

「全然違うわ」

 サキュバスが男の性を食う時代は終わりを遂げたと言う。

「昔は村の男がサキュバスに食い尽くされて一人もいなくなる、なんてこともあったみたいだけどね」

「僕も朝から晩まで崎山さんに食い尽くされるのですね」

「ならないわ。時代が変わったもの」

 不可解である。
 彼女はそのままおもむろにテレビをつけ、どこからともなく取り出したポッキーをポリポリと飾る。

「お茶あるかしら」

 不可解である。

 ◯

 そんな訳で完全に流されて僕は彼女と同棲を始めた。
 彼女を追い出さなかったのは、行くあてがなくて可哀想だったからだ。

 こんな美人と暮らすチャンスなど二度と訪れないし、なんなら一緒に生活していればいつかは一度くらい過ちが起こるかもしれないと言う下心からではない。そう、決して。

 季節は巡り今ではもう半年。すっかり春になった。
 もちろん期待していたようなことはまるで起こっていない。
 と言うよりも、新しい仕事に慣れるので精一杯で、それどころではなかった。

 そもそも根本的に、僕は彼女がサキュバスなどと馬鹿げた話は信じていなかった。ただ、家に帰って誰かが出迎えてくれるのが嬉しくて、いつの間にか時間が経ってしまっただけだ。

 それに、崎山さんとの同棲は、ちょっと刺激的で、ちょっと楽しい。

「崎山さんって、サキュバスの国から来たのですか?」

「京都からだけど……」

「なるほど」

 普通だ。

「あ、それより見てみなさいよ遠藤君。この子」

 崎山さんはテレビを指さす。言われて画面に目をやると、毎週やっているトーク番組が映っていた。

「アイドルの真澄レムですか」

「このタレ目の感じと、涙ボクロとかの位置、この子、間違いなくサキュバスよ」

 どうやら顔立ちにも特徴があるらしい。真偽はともかくとして、これから真澄レムをまともに見れなくなることは確定した。

「アイドルまでやってるなんて、サキュバスって意外と社会生活に溶け込んでいるんですね」

「そうね。そう言えばこの間三丁目のパン屋さんに行ったんだけど」

「あぁ、あの美味しいとこですよね」

「あそこの店員の子もサキュバスよ」

「へぇ……」

 これから毎日通おうと思う。

「それにしても、サキュバスも仕事するなんてちょっと意外です」

「現代社会においては人間と変わらないからね。アイドル、パン屋、会社員だっているし、学生もいるわ」

「なるほど。ところで、気になってたんで聞いても良いですか?」

「別に良いわよ。分かる範囲ならね」

「崎山さんは何の仕事を?」

「人の詮索をするものじゃないわ」

「働け」

 崎山さんと生活をしていると、度々こうしたよくわからない発言が飛び出てくる。
 いよいよ彼女の発言がその場しのぎのデタラメだと言う認識に変わった時、僕は彼女がサキュバスなのだと知るようになる。

 きっかけは猫だった。

「うるさいわね……」

 とある休日の穏やかな昼下がり。窓の外で猫が鳴いていた。

「盛りの時期ですかね」

 ここ数日、真夜中でも猫が奇妙な鳴き声を上げており、崎山さんは機嫌が悪かった。夜中に度々起こされるのだそうだ。
 見知らぬ男の家に急に押しかけたりするなど一見図太そうに見えた彼女だが、意外と繊細な神経の持ち主らしい。

「何か今、失礼なこと考えてなかった?」

「いや、別に……」

 僕が顔を逸らすと、彼女は「まぁいいけど」とそっと溜息をついた。

「仕方ないわね、あまりやりたくはなかったのだけれど」

 崎山さんはそう言うと窓を開けて手を差し出す。途端、甘い匂いが室内に満ちるのが分かった。香水とも化粧品ともまた違う、独特の匂い。嗅いでいると不思議と身体がムズムズした。端的に言うと性欲を駆り立てられる。

「何ですかこの匂い」

「私の体臭よ、サキュバスが出す匂い。フェロモンって言うのかしら」

「へぇ……良い匂いですけど、お風呂ちゃんと入ってます?」

「殺すわよ。わざと出してるの」

「体臭を?」

「フェロモンよ」

 人間が意図的にフェロモンなど出せるものなのか疑問だったが、それは彼女のサキュバス設定に乗っかるとして、もう一つ重要なことがあった。

「もしかして誘ってるんですか?」

「猫をね」

「猫を」

「ええ」

「僕は?」

「はっ?」

 そうしているとやがて雄猫が近付いてきた。発情期の猫特有のデレデレした鳴き声をしている。どうやらここ数日の鳴き声の犯人はこいつらしい。
 崎山さんは真顔でその猫の頭を撫でる。

「猫好きなんですか」

「嫌いじゃないわ」

「でもウチじゃあ、その猫は流石に……」

「別に飼う為に呼んだんじゃないのよ」

 崎山さんが複数回猫を撫でると、僕は奇妙な変化に気がついた。
 猫の身体がぼぅっと光りだしたのだ。奇妙な、揺らめく光が猫から発されている。それはやがて、煙のように風に流されて消えた。
 用を終えると、崎山さんは手を猫から離す。解放された猫はすぐにどこかに行ってしまった。

「今のなんだったんですか?」

「猫の精力よ。散らしたの」

「そんなんできるんですか?」

「サキュバスだからね」

 サキュバスは欲情をかきたてることも出来れば、行為をせず散らすことも出来るらしい。

「一年はあれで欲情しないでしょ。本気出したら不能にすることも出来るわよ」

「ふ、不能になったらどうなるんですか?」

「おじいちゃんみたいになるわ。若さも消えるから」

「へぇ……」

 二度とこの人には逆らわないでおこうと思った。


コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する