ここから先は本作のネタバレと著者の話が含まれます。
よろしければどうぞ。
この小説は元々、六千字の小さな物語に過ぎませんでした。
元々のタイトルも違っていて、『綺麗な街』という名前でした。
登場人物や冒頭の展開は同じなのですが、二人は家出をすることはありません。
親の元に帰されて、それで終わりでした。
そうした救いのない物語になったのには、この小説を書いた著者自身に少し痛い原因があります。
元々の作品を書いた当時、自分は大学生でした。
青春の最後の期間。そんな感覚が、自分の中にあったのだと思います。
青春が、うまく書けませんでした。
いつだって、登場人物が子どもにも大人になりきれずに傷つく物語ばかり書いていました。
本作の元になった物語はその流れをとりわけ強く汲んでいて「いつまでもモラトリアムに溺れられるわけないじゃん?」と、夢も希望もなく何も変わらないままでした。
今思えば、青春にすがりながら、そうすることを同時に嫌悪していたのだと思います。
真正面から青春を描くのはダサいし、子供っぽいと思っていました。
そんな小説だってアリだとは今も思います。
でも、そんな小説は、友達に全くウケませんでした。
なぜか自信だけはあったので、内心平気なふりをしながら、自分は少しショックでした。
そこで望みを託したのは、大学のとある先生でした。
先生は、おじいさんでした。それも八十歳超え。
先生の授業はと言えば、昔の映画を見るか、小説を読むか書くかくらいしかありません。
言葉を選ばずに言えば「楽に単位をくれる」ということしか生徒の間で認識されていない、そんな先生でした。
でも実はかなりすごい肩書きを持っている先生で、そのオーラを全く感じさせないのほほんとしたところが本物っぽく、自分は内心ひそかに尊敬をしていました。
先生であれば、この小説を分かってくれるかもしれない。
厳しい現実を描いている誠実さを、評価してくれるかもしれない。
希望を託して小説を読んでもらったところ、先生はあまりいい顔をしませんでした。
先生でも駄目だったのか。
やっぱり少し落ち込んで、でもしょうがないと内心言い聞かせる自分に、先生が優しい目をして言いました。
「これ、本当に家出しちゃわない?」
まさかそんなことをおじいさん先生が言うなんて思わず、聞き返したことを覚えています。
その時の自分は、かけられた言葉の価値を、全然理解していませんでした。
けれど時が経ち、ふとこの元々の作品を開いた時、先生の言葉を思い出してはっと気付きました。
あのおじいさん先生は、八十歳を過ぎてもまだ、青春をまっすぐに見ていた。
その真摯さに、自分の中途半端な青さが、恥ずかしくなりました。
悩み。複雑な境遇。どうしようもない困難な未来。そのすべてが何も解決はしていないけれど、でも、飛び出さずにはいられない。
そういう真っ直ぐな青さに、かつては自分も憧れたはずでした。
なのに、手が届かないから、ひねくれた作品ばかり書いていました。書いた自分も、読んでくれる人も、どこにもいけないような。
そんな終わり方のままで、この作品を終わらせたくない。
それが、この作品を書き直すことにしたきっかけの一つです。
だから、本作を作り直すにあたって「可能なら」と決めていた指針があります。
どこまでも遠くへ。
誰かのたった一言や、一つの音楽、出会いが、人を変えたり、何かを生み出すきっかけになる。
そんな物語になったのは、自分自身がそうした経験をしたからなのだと、今ではそう思います。